※以下は宮崎駿『君たちはどう生きるか』について書いた3つの文章をまとめたものである。
①「再生産と縮小──『君たちはどう生きるか』覚書」
②「フィクションと媒介性──宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』評註」
③「「アオサギ又はサギ男」についての覚書:『The boy and the Fiction』──宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』評註」
1 謎
一切の宣伝なし、劇場パンフレット販売もなしという異例の状況下で公開が続く『君たちはどう生きるか』は、「難しい」「よくわからない」はては「宮崎駿の走馬灯だから意味不明で正解なんだ」という見解まで出てくる状況である。
しかし、特に『ハウルの動く城』で見せた社会に対する透徹した見方と解決策からして、宮崎駿がそのようないい加減なものを作った、という診断を下す前に、まだ色々やれるorやるべき作業はあるだろう。
手がかりは、もちろんビジュアルポスターである。
つまり、アオサギ又はサギ男。
まずはここを見ろと言われているのだから、素直に見ようではないか。
2 解題1──フィクションから持ち帰ることができるもの
『君たちはどう生きるか』の英題は『The Boy and the Heron』。
直訳すれば「少年とアオサギ」である。
この「少年」は眞人、「アオサギ」はアオサギ又はサギ男だとして、ではこのアオサギ又はサギ男とは何か?
字面から直ちに連想されるのは、詐欺≒ウソ≒フィクションである。
つまり、本作は「少年とフィクション」というタイトルなのである。
ここまでくれば、もうほぼ本作の読解ができる。
そして、アオサギ又はサギ男は「フィクション」そのものの暗喩だとして、ここでの文脈に沿ってさらに正確に言えばこれはアニメーションそのものの暗喩であろう。
アオサギ又はサギ男は、劇中現実では眞人にしか見えない。塔から帰ってしばらくたったら眞人からも見えなくなって、あるいは記憶から消えてしまうのである(しかし、そう考え始めると、『千と千尋の神隠し』もトンネルの向こうの世界はフィクションの比喩ではないか・・・等と考えたくなってくる)。
たとえば吉野源三郎『君たちはどう生きるか』に代表され、また塔の中に大叔父が収集した本(メインカルチャー)と対比されるところのサブカルチャーである。
また、アオサギ又はサギ男は半人半鳥なのもポイントで、半分は地に足がついている(完全なファンタジーではなく半分は現実に繋がっている)、のである。
(この半人半鳥性はまた、鼻のデカさと嘘をつくこととの関係で『ピノキオ』が連想されるが、これはあるいは無関係かもしれない。)
有限の生しか持てない人間が、そして無意味な生を生きざるを得ない人間が、それでも世界に対してできる(可能性がある)ことに対して、宮崎駿は自覚的である。まぁこれだけアニメに向き合い、アニメを作ってきたのだから当たり前である。
以上を踏まえれば、眞人が大叔父の理想郷(塔)から持ち帰る石の切片は、フィクションから我々が得得る何かの暗喩であり、そしてもっと言えばそれは小さな小さな切片にすぎないことの暗喩であろう。
つまり眞人にとってのアオサギのことである(眞人ーアオサギの関係が、我々観客ー『君たちはどう生きるか』をはじめとするフィクション、という関係とパラレルになっている)。
そのうち忘れてしまうが、しかし大切なもの。
我々がフィクションから何かを持ち帰ることができる可能性があるということは、同時に、我々がフィクションを作ることによって世界になしうる可能性があるということであり、そしてそれは我々の死後においても我々が作出したフィクションが存在し続ける限りなおなし続けうる可能性であって、有限な各人の人生を超える営為である。
そのような、世界を規定し続けるフィクションは他者、しかも時代を超えた他者に対する想像力そのものであり、ともすれば自身が神になること、ないし神なき宗教を作出することなのかもしれない。
劇中の吉野源三郎『君たちはどう生きるか』の本に、母の「14歳になった眞人へ」という、事実上の遺言みたいなメッセージが書かれているが、あれこそはフィクションの、つまり自分がいなくなった世界でそれでも残り続ける意味作出の、一番始原的な形ではないか!あの母からのメッセージを真摯に受け止め、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』をまともに読み涙さえ流した眞人だからこそ眞人は自身の悪意を認め反省できたのである。
同じことが、アニメを観るファンにもまた言えるのではないだろうか?
宮崎駿の事実上の遺作、アニメ監督人生の集大成こそは、フィクションないしはアニメーションの象徴であるあのキモカワなアオサギ又はサギ男である。
何か物足りないような、しょうもない気もするが、しかし、これはクレヨンしんちゃんのケツダケ星人と同じで、天才的な発明なのかもしれない。
そう考えると、不気味で小憎たらしいしかしラストは粋なことに「友達」認定してくれるアオサギ又はサギ男にとても愛着が湧いてくる。
3 解題2──戦争(特に太平洋戦争)とフィクション
冒頭の空襲は宮崎駿から観客に向けた、(ある意味)丁寧な本作の読み解き方の提示であると考えられる。
昭和の木造家屋群、消火活動をする町の人々、後で出てくる軍人や出征壮行会の様子からして、「冒頭のサイレンから始まる描写は空襲ではないか?」と想像するのは素直である。
しかし、「戦争が始まって3年目に母さんが死んだ」という眞人の言葉、「サイパンが陥落したんで、海軍の奴ら大慌てだぞ」という父の言葉から推察すれば、「戦争」とは日中戦争、開戦は盧溝橋事件の発生した1937年であるから、3年目は1940年であり、未だ空襲はないはずである。従って、冒頭の火災はやはり、ただの火災であり、空襲ではない。
しかし、なぜ冒頭に「火災」を配置したのかといえば、これは「空襲」のメタファーとしてであろう。
徴兵者の町内挙っての見送り、戦車のパレード、眞人の父の軍需産業の活況、ばあやたちの「あるところにはあるんだねぇ」、「サイパン陥落」という固有名詞・・・と、現に、(抽象的な戦争、ではなく)具体的な太平洋戦争にまつわる描写が本作の前半では執拗に描かれる。
結局、本作の劇中現実で日本社会が軍事化し旧日本軍が中国への侵略戦争を行っている描写をしているのは明らかで、これは本作全体の解釈には外せない。
そして、劇中ファンタジー世界(塔の中)でもインコが増えすぎた同胞を養うための軍事拡張政策を続けており、結局劇中ファンタジー世界も劇中現実世界のメタファーにすぎない。
また、塔の下の空間の墓の門に掘られた言葉、「我を学ぶ者は死す」という言葉は、おそらく下の林房雄の短編由来である。
「彼は南京政権という脆弱な豪華船の運命を知りつつ乗込んだ唯一人の乗客であった。彼は船と運命を共にした。だが、船を救おうという意志は最初からなかった。彼はどこまでも乗客として、最後の瞬間まで天をおそれぬ豪奢のかぎりをつくした。現世の楽しみを尽くした。彼は死にのぞんで、ただ一語、「余は人の裁きを受けず。ただ、天の裁きに従う」と書き残したと伝えられている。これも文字どおりにとれば、天意に従う敬虔語にとれる。だが私はその解釈を信じない。彼は何時の頃からか、天をおそれぬ魔王の使徒に化し終わっていた虚無の使徒であり最も危険な政治家のタイプであった。彼は、天意に従って斃れたのではない。傲然としておのれ自らの手で斃れたのだ。私はそれを確言できる。私が南京の四層楼の頂上で見た扁額の四つの文字は『学我者死』の四文字であった──我を学ぶ者は死す。」(林房雄「四つの文字(或る自殺者)」『戦後短篇小説再発見9』462頁)
以上の林の短編を手がかりにすれば、若かりし日のキリコさんがおそれた「墓の主」の正体は、最も卑近には「軍国主義」や「虚無」、もう少し精査すれば「利己主義」や「反エピキュリアニズム」くらいであろうか。いずれにせよ徒党の編成原理であり、戦争の源になりうるものである。林の短編で敗戦とともに自殺した大臣は、蔵書量も図書館並みで様々な学識に通じていたにもかかわらず、いやあるいはそうだからこそ、高転びに転ぶことがわかっていた南京政府と日本軍に加担し、共産主義者が何人入っていたかは知らないが200人の学生を機関銃で皆殺しにした経験を持つ人間であった。
インコたちは暴力的だし詐欺的だし、しかもインコキングまでいるまさに枝分節体(segmentation)そのものなので、あれは要するにインコキングが天皇で、インコたちは旧日本軍なんですよの。戦後は小さな手のりインコにされた元日本軍人たち。
無限に増殖し食い扶持が足りなくなったからとより多くの領土を神に求めるインコキング。「ワシは王としての勤めを果たし潔く散る」、まさに神風特攻隊の精神であって、それを部下だけに押しつけて逃げた大西中尉よりは幾分マシだが、自分が率先してやればよいという話ではない(ポトラッチである)。そしてインコキングはその一振りで世界を破壊してしまった。──民主化後はかわいい肩乗りインコである(憲法1条と「鳥籠の中の天皇」)。
「日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ちゆかない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行きを削って、一等国だけの間口を張っまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。」(夏目漱石『それから』88頁)
「自分で傷をつけました、これは私の悪意です。」
これはまさに「先に手を出してきたのはあいつらだ!」と錦の御旗を得ることで攻撃を正当化するロジックであり──もちろん、想起されるは自作自演の鉄道爆破、満州某重大事件である。
眞人自身、「眞人」という名前である──名前もまた象徴である──にもかかわらず、ウソをつく。それは友人になったアオサギもまた同様で、二人ともこうした徒党形成と軍事化に馴染む素質は見せるものの、他方で眞人は父(男らしい家父長)が嫌いで嫌いで仕方ないのである。
戦争はある日いきなり始まるものではない。まずは社会が徒党化し、軍事化している必要があり、太平洋戦争中の日本においてその末端は家父長制であった。
そう、眞人が嫌っていた過保護な父、家父長制的支配欲をチラつかせる父である。
そこへの切り替しは、ウソをつくような弱い人間どうしの連帯(あるいは、あの意地悪ばあさんや幼き日の眞人の母も入るだろう)、つまり友情と、眞人の名を実にしていくこと、なのである。
4 フィクションと戦争(原理の解体)
戦後70年を過ぎ、安倍・麻生の路線上で再度軍拡を進める岸田政権への批判として、いわば宮崎駿自身の戦後世代の責任・総括として、東京大空襲のメタファーから入るフィクションを作った、ということになるのだろう。ロシアのウクライナ侵略からこの方、日本国内でも勇ましい言説が聞こえる──主として政治家と金持ちから。
勿論ダイレクトに政治批判をやってもよいが、それだと射程範囲が限られ普遍性も薄れてしまう。真の問題は今や戦前の日本政府だけではなく、社会人類学的メカニズムなのだから。そのあたりからアプローチしないとどうにもならない。従って、文学あるいは文藝が大切になる。
丸山真男「肉体文学から肉体政治まで」を参照。
おそらく幼少期の記憶も相俟って、「戦争」ないし「太平洋戦争」という主題は、宮崎駿の頭の片隅には常にあったものと思われる。
『風立ちぬ』は当然のことながら、『紅の豚』『コクリコ坂から』、もう少し抽象度を上げれば『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『未来少年コナン』そして大傑作『ハウルの動く城』まで、「戦争」の話が延々と出てくる。
宮崎駿は、暴力の極たる戦争、その戦争を動かすメカニズムとしての徒党形成(『ハウルの動く城』の魔女の使い魔達の個性の無さ=唯一無二でなくかけがえがある様は、本作のインコたちに通じているし、ハウルのラストでの国際的二重分節の成立こそが肝であり、案山子王子はその意味で端役ではなく必須のキャラクターなのだが、その話はまたどこかで)、そしてそこに切り込みうるのがアニメーションをはじめとする広義の文学であることに自覚的である。そしてそうであるがゆえにファンであるにもかかわらずアニメーションに耽溺し自意識を庇うだけで社会ないし他者に目を向けないオタクが心底嫌いなのである。
老教授:僕たちはどうやって積み木を積めばいいんだろうね?
A:どれだけ社会状況が悲惨であろうと、しかし誰かが始めなければなりません。ラッキーなことに、我々は民法典その他と学説の蓄積を有しています。ゼロから作るわけじゃない。
B:ゼロから作るわけじゃないからこそ難しいって話だっただろ!
(もちろん元ネタは木庭顕『笑うケースメソッドⅡ 現代日本公法の基礎を問う』である)
善意に基づいて良い世界を作ろうと13本の作品を積み上げてきた宮崎駿であったが、にもかかわらず自身の作品で日本社会を変革させることはできず、未だに自民党が政権についており、軍拡に手を染めようとしている────他方で、自身の天命はそう長くないし、作品を作れる時間はそれよりもさらに短い。
そういった焦りと、そしてそれと同時にそうであるがゆえに後世に託す思いとが垣間見える作品である。
フィクションは心に残る。
そう、細田守『時をかける少女』の千秋は、未来の戦乱のさなかで失われてしまった絵の原本を見る、ただそれだけのためにタイムリープしてきたのであった・・・。
もちろん、その影響を大きく見積もるのは禁物である。
しかし、ほんのひとかけらでも、受け取った者の心に残せたならば。
世界は、未来は、変えられるかもしれないのである。