人文学と法学、それとアニメーション。

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フィクションと媒介性──宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』評註


君たちはどう生きるか』冒頭の火災はただの火災で空襲ではない。しかし、何のメタファー
(暗喩)かと言えば、劇中にここぞとばかりに描かれる日中戦争そして太平洋戦争時の日本国内の様子(徴兵者の町内挙っての見送り、戦車パレード、軍需産業の活況、おばあさんたちの「あるところにはあるんだねぇ」、「サイパン陥落」という固有名詞)これは東京大空襲だろう。

 

フィクションの媒介性に自覚的な宮崎駿でなければ、ダイレクトに(無媒介に)空襲を描いているところでしたね(⁉︎)

 

***

 

結局、本作の劇中現実で日本社会が軍事化し旧日本軍が中国への侵略戦争を行っている描写をしているのは明らかで、これは本作全体の解釈には外せない。

 

そして、劇中ファンタジー世界(塔の中)でもインコが増えすぎた同胞を養うための軍事拡張政策を続けており、結局劇中ファンタジー世界も劇中現実世界のメタファーにすぎず、そして劇中現実世界はもちろん我々の現実を移し取ったものである。

 

老教授:僕たちはどうやって積み木を積めばいいんだろうね?

A:どれだけ社会状況が悲惨であろうと、しかし誰かが始めなければなりません。ラッキーなことに、我々は民法典その他と学説の蓄積を有しています。ゼロから作るわけじゃない。

B:ゼロから作るわけじゃないからこそ難しいって話だっただろ!

 

善意に基づいて良い世界を作ろうと13本の作品を積み上げてきた宮崎駿であったが、ついに日本社会はあまりよくならず、自民党政治を終焉させることもできず…………

 

庵野秀明新海誠が縛られた状態で部屋で目を覚ますと、そこには宮崎駿の死体が……から始まるデスゲーム説が出ていたが、まさにこれが正解だったわけである。

 

あと、鈴木敏夫のノンフィクションという説も正解だったわけですね(白目)

 

 

インコたちは暴力的だし詐欺的だし、しかもインコキングまでいるまさに枝分節体(segmentation)そのものなので、あれは要するにインコキングが天皇で、インコたちは旧日本軍なんですよの。戦後は小さな手のりインコにされた元日本軍人たち。

 

無限に増殖し食い扶持が足りなくなったからとより多くの領土を神に求めるインコキング。「ワシは王としての勤めを果たし潔く散る」、まさに神風特攻隊の精神であって、それを部下だけに押しつけて逃げた大西中尉よりは幾分マシだが、自分が率先してやればよいという話ではない(ポトラッチである)。そしてインコキングはその一振りで世界を破壊してしまった。──民主化後はかわいい肩乗りインコである(憲法1条と「鳥籠の中の天皇」)。

 

「日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ちゆかない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行きを削って、一等国だけの間口を張っまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。」(夏目漱石『それから』88)

 

 

「自分で傷をつけました、これは私の悪意です。」

 

これはまさに「先に手を出してきたのはあいつらだ!」と錦の御旗を得ることで攻撃を正当化するロジックであり──もちろん、想起されるは自作自演の鉄道爆破、満州某重大事件である。

 

眞人自身、「眞人」という名前である──名前もまた象徴である──にもかかわらず、ウソをつく。それは友人になったアオサギもまた同様で、二人ともこうした徒党形成と軍事化に馴染む素質は見せるものの、他方で眞人は父(男らしい家父長)が嫌いで嫌いで仕方ないのである。

 

そこへの切り替しは、ウソをつくような弱い人間どうしの連帯(あるいは、あの意地悪ばあさんや幼き日の眞人の母も入るだろう)、つまり友情と、眞人の名を実にしていくこと、なのである。