人文学と法学、それとアニメーション。

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現実と距離を取るために(2)──山田尚子監督『平家物語』評註

1 物語は、ハッピーエンドがいいよ!——『聲の形』『リズと青い鳥

 

 山田尚子は、理想を描くアニメ監督である。

 

 こういうと、「いや、それは別に山田尚子に限ったことではない」と、こう反論したくなるかもしれない。

 

 たしかに、アニメーションは、いや、さらに言えばフィクションは、その抽象表現性も相まって、理想を描くのに適しており、従って、別にアニメーションで理想を描くのは特段山田尚子の特性であるとはいえない。

 

 しかし、冒頭の言明は、別に他のアニメ監督と差別化を図りたいわけではない。

 

 ただ、山田尚子がそうである、というだけのことである。

 

***

 

 それは、たとえば『聲の形』のシナリオに窺うことができる。

 

 これはしかし原作・大今良時の同名漫画からしてそうではあるのだが、大今の初期構想段階では、西宮硝子が自殺して(自殺が既遂になり)、そのことを石田将也が考えるという話にするつもりであったそうである。

 

 しかし、漫画化にあたり、結末はそうはならなかった。

 

 将也が硝子を自殺から救う話となった。

 

 ただし、それは奇跡なのである。

 

 硝子が自殺してしまう、あるいは硝子の代わりに将也が死亡してしまう。

 

 それこそが厳しい現実、普通の現実なのである。

 

 現に、フィクションの外の現実の世界では、たとえば令和2年度であれば499人の児童生徒が自殺している[1]

 

 『聲の形』は、こういうこと(硝子が自殺せず、将也も死亡しない世界)もあるのだ、それは翻って現実だってそうできるのだ、ということの例証、あるいは宣言に他ならない。

 

***

 

 『リズと青い鳥』についても同様のことが言える。

 

 傘木希美と鎧塚みぞれの繊細微妙に渡る、理解できているようでいて理解できていないコミュニケーションの徴憑を、丁寧に丁寧に描写して積み上げ、volte-faceに破綻させ、しかる後に「ハッピーアイスクリーム!」というただ一点のささやかな一致のみを剔出する。

 

 それもまた『聲の形』同様、奇跡の描写である。

 

 山田尚子は、『リズと青い鳥』のパンフレットでの吉田玲子との対談で述べている。

 

「物語は、ハッピーエンドがいいよ……。」[2]

 

「日々がよいことだけではないのは抗えないことですけど、わるいことばかりでもないんだよ、ということに気付かせてくれるような映画にいつも救われてきたように思います。」[3]

 

 また、吉田玲子は同じ対談の中で、直後に、こう述べている。

 

「先日、映画賞の受賞式に参加させていただいたとき、とある映画監督の方が受賞コメントで、ハッピーエンドについて言及されていたんです。ハッピーエンドは映画が作り出したマジックというか、生きていく術なんです、と。現実世界では戦争もなくならないし、辛いことも続いていく。だから、アメリカ大陸に渡ってきた映画人たちがせめて映画の中で幸せな未来を提示しよう、そうすれば今は変わらなくとも、未来が変わるかもしれないということをおっしゃっていました。」[4]

 

2 事件

 

 2019年7月18日、京都アニメーション放火事件が発生した。

 

 36人死亡、33人負傷という戦後の放火殺人では最悪の犠牲者数となった。

 

 『聲の形』で描出された奇跡を目にして、世の中も悪いことばかりではないからもう少し生きようか、と思い直した身としては、そのメッセージを作出した当の機関がこれ以上考えられないほど最悪の形で攻撃されたことの持つ意味は計り知れず、事件当日は食事もとれなければ一睡もできなかった。

 

 翌日公開初日の『天気の子』の、特にラストから「大丈夫」の言葉を受け取り、そうだよな、現実はいつもいつもこうだよな、でも大丈夫だ、と思い直さなかったならば、私自身どうなっていたかは正直わからない。

 

3 歴史を描くということの意味──『平家物語

 

 取り返しのつかない悲惨な現実を前に、『聲の形』『リズと青い鳥』を作ってきた山田尚子は、どう考えるか。

 

 もう、アニメ業界を離れ、筆を折ってしまうのではないか。

 

 私自身はそう考えていた。

 

 しかし、彼女は帰ってきた。

 

 事件後はじめて公開された監督作品が『平家物語』である。

 

 それは、スケジュール的に見て事件前から製作が進行していた可能性が高いが、しかし他方で公開前には事件が生じていたことから、全く影響がなかったわけでもないように思われる。

 

 『平家物語』は「物語」とはいえ「歴史」(もっとも、それが厳密な実証史学に耐えうるかはまた別論であるが)を描くものであるから、「歴史」というジャンルの制約がどうしてもかかる。

 

 それは、史実を改変しない(歴史修正主義には乗らない)という制約である。

 

 『聲の形』では、フィクションにより自由に現実を変更して(あるいは作出して)硝子の自殺回避という理想を作出できた。

 

 しかし、『平家物語』では、平家一門、特に建礼門院平徳子の人生に待ち受ける悲劇的な結末を、理想的な方向へ変えることはできない、制約があることを意味する。

 

 それは、事件により改変不可能な不動点、歴史的事実を持ってしまった山田尚子の前提と重なる。

 

 山田尚子は、『平家物語』において、未だ過ぎ去らぬ現実の悲劇に対峙する手がかりを歴史に求めているのではないか。

 

 そしてそこで提示されるのは、我々が現実の悲劇を前にしたときにできるのは、個々人の内心での祈りとともに、過去の歴史を振り返り、そこから何かの知見を得て、ともすれば防げる未来の悲劇を防ぐことなのではないか。

 

 もちろん、訓話チックである必要はない。

 

 ただ、ありのままの事実をアニメーションで描けるかどうかに全てがかかる。

 

 

hukuroulaw.hatenablog.com

 

 現にびわは未来が見えるのに、事態には一切介入できない。

 

 ただ、びわの語りは、そして無数の琵琶法師によって語られた平家一門の末路は、あるいは源氏のその後は、まさに語るというその行為により、後世の我々の下に届き、そして未来を変える手がかりとなるのである。

 

 最後、未来が見えていたびわの目が白くなり、見えなくなるのは、びわという歴史的事実に対する観察者たる我々が、『平家物語』を読み終わり戻ってきた現実では、未来は見通せないことの暗喩である。

 

 しかし、我々の手元には歴史が、『平家物語』が存在する。

 

 我々にできることは、そこから可能な限り、未来の悲劇を防止する方法を汲み出し、実行する以外の道はない。

 

 人は全能の神ではないから、歴史を持ってしても未来の悲劇回避はできないかもしれない。

 

 しかし、そうだとしても、これ以外に道はないのである。

 

 「世界は美しい」のはもとからそうだからでは決してない。

 

 「君がそれを諦めない」からなのである[5]

 

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***

 『平家物語』1話時点での感想と予測はこちらの論稿参照。

 

hukuroulaw.hatenablog.com

 

***

 

なお、京都アニメーション放火事件について、どういう考え方で臨めばいいのか個人的に思索を積み上げたものとして、次の論稿がある。

 

hukuroulaw.hatenablog.com

 

***

 

 未だ事件からまだ日が浅く、触れて欲しくないというファンや関係者からすればつつましさを欠いた強い非難に値するものであろうし、またアニメーションにおける作家論や製作期間から本当に事実としてそういえるのかという問題、さらには主観的な思い込みと牽強付会になっている部分も多いかもしれないが、現在の私の認識をここに示しておくものである。

 

 

[1] 「コロナ禍における児童生徒の自殺等に関する現状について」(https://www.mext.go.jp/content/20210507-000014796-mxt_jidou02_006.pdf)

[2]リズと青い鳥』パンフレット(『響け!』製作委員会、2018年)5頁〔山田尚子〕。

[3] 同上。

[4] 同上〔吉田玲子〕。

[5] 羊文学『光るとき』(2022年)。