人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

フィクションと現実のパラレリズム――それを理解してしまったら、そのようにせざるを得ませんね――

 私は、遺族や京都アニメーション関係者、あるいは他のファンが、青葉の死刑や、さら現行法による絞首刑よりも残虐な方法での青葉の殺害を望むこと自体は異常なことだとは思わないし、むしろ自然な反応だとさえ思う。私がここで述べていることが絶対的に正しく、必ずこう考えなければならない、そうでないならば考え方として誤っている、あるいは正統な理解は私の提示する理解のみである、というような、啓蒙的立ち振る舞いをする意図もない。さらには死刑廃止論という政治的立場のプロパガンダに36人の死と33人の負傷を利用する意図も毛頭ない[1]。ただ、私の提示するような考え方もあり、そしてそれは京都アニメーションが、その作品が、犠牲者をはじめとするアニメーターが、ファンが、追求し続けてきた理念に、より適合的ではないか、という提案であり、説得の試みである[2]。――――文章の説得力のみに賭けた説得の試みでしかない。

 

1 パラデイクマ

「或る人が或る橋を渡ったとしよう。われわれはこのことを意識することができる。そして自分もそのとおりにその橋を渡ることができる。このような種類の意識の対象(この場合、或る人が或る橋を渡ったということを内容とするイメージの如きもの)をパラデイクマと呼ぶこととする。」[3]

 

我々はあるパラデイクマに従うことも従わないこともできる。

 

「何度でも繰り返しうるというのならば、この批判は、常にかつ必然的に、それまで行われていたテクストの解釈と(更には間接的に)その解釈によって形成されてきた限りにおける自分達自身の現実に対する根底的な批判を含むということになる。その際、テクスト群内に一個の「最重要テクスト」が決められているわけではないから、批判の典拠として使われたテクスト自体もまた次の段階では少なくとも他の者による批判を免れない。しかも、そのようにして全面的に再解釈されたテクスト全体とその外に立つ自分達の現実そのものとの間の関係も一義的なものではない。テクストは非常に尊重されるが、彼らのまさに批判の結果それが自分達の社会に直接かかわるものでないことは認識され、権威も認められない。それに直接従うことはそもそも不可能であり、かつまた滑稽なことである、解釈しなければならない、とされ、つまり現実のみならず典拠自体の批判もまた同時に行われる。現実にも典拠にも従えないとするとわれわれは一体どうすればよいというのか?現実にも典拠にも直接拘束されてさえいなければどのようにしようとあとは自由である……。これはほとんど自由の定義である……。」[4]

 

しかし、我々は、あるパラデイクマを善いと考え、また別のあるパラデイグマを悪いと考えるだろう。

そのとき、現実世界でも、善いと思ったパラデイグマに従うように努力するだろう。

選択で悩んだときは、理想のパラデイグマに従った行動をするようになるだろう。

以上は、(唯物論者の、あるいはエピキュリアンのホッブズよろしく)、強制されてそうするというのではなく、自然にそうなるはずである。

ナチスによる惨禍の反省から、ボン基本法に規定された「闘う民主主義」が、本来は必要ないはずであるのもこれゆえである。自由さえ保障しておけば、あとはCritiqueによって各人が概ね一致して理想のパラデイクマを自然に選択するだろう、自由を毀損するような選択はしないだろう、ということに対する絶大なる信頼である。

 

2 bona fides

(1)bona fides

 一言で言えば、「自由で独立した2個人間における高度な信頼関係」のことである。

 比喩的にいえば、「友人なんだから裏切るなよ」という義理人情型の信頼(実は信頼していない)ではなく、これと対比される「友人のお前に裏切られるなら仕方ない」という型の信頼である。

この概念は、現代日本民法における「信義則」や「背信的悪意者排除論」といった議論の淵源となっていることからもうかがえるように、古代ローマでも主としてビジネスの分野で発達した概念である。

 

「自分で事業をするということは、費用果実関係のリスクを全部自分で負うということを意味する。特に果実産出体、つまり施設・人員・技術・ノウハウ・顧客・販路等々のまとまった複合体、を一から構築しなければならない場合、そうでなくとも自分に属するそれを飛躍的に発展させなければならない場合、必要となる大きな投資はそのままリスクを意味することになる。もちろん、その冒険に値するならば敢えて自ら手掛けるか、そういう事業に投資する。しかしそうでない場合、自らに属する既存の果実産出体と他者に属するそれを組み合わせ一段高度な果実産出体を構築するということが考えられる。この場合、リスクが分散されるばかりか、少ない費用でヴァージョンアップしうる。さらに、既存の果実産出体をそのままの形で置くから、他と融合させて跡形もなくしてしまうというリスクを回避できる。中期的な組み合わせの後にもヨリ豊かになって保存されているから、また別の組み合わせにチャレンジしたり、別の発展を目指すということも可能である。さらに、個々の果実産出体が相対的に独自に動くことによる質の高いパフォーマンスも期待できる。それぞれが自由に動きなおかつ調和している方が高い協働を達成できることはいうまでもない。それぞれが制約を感じたり、寄りかかり依存したり、手を抜いたり、ということが生じにくいということもある。全ての主体にとって自分に合った最も納得のいくパフォーマンスをしているときに最高のものが得られるのは当たり前である。」[5]

 

(2)bona fides――現実

アニメーションは一つの作品を作る中に非常に多くの制作過程[6]が入り、そのため必然的に多くの人がその制作過程に関わる集団作業を伴う作品=成果物であるから、高品質のアニメーションができるかどうかはスタッフ間でコミュニケーションが上手くとれるかがひとつの重要な要素となる。

 

まずは京都アニメーションの理念をみる。

京アニのホームページを見ると、「企業の指針・理念」という部分には「創業当初より現在に至るまで、チャレンジ・ベストを尽くす・求められる映像創り・ヒューマンな人間企業、を指針としています。人を大切にし、人づくりが作品作りでもあります。真摯に、アニメーションを軸とするエンタテイメント企業を目指していきます。」とあり、同じページの「ロゴマークについて」では「漢字「京」をデザインし、一人一人のスタッフからコンテンツを創造していくということを表しています」としている[7]

これらは文字どおりそのまま理解できる。

もっとも、理念を掲げるのは容易であり、どんなに労働環境の悪いアニメスタジオでも似たような理念を掲げているところはたくさんあるだろう。

そこで次に、かかる理念が実現できているか、制作にあたってスタッフ間のコミュニケーションに会社がどう配慮しているかをみる。

 

京都アニメーションは、企画の立ち上げから、絵コンテ、作画、仕上げ、背景、撮影まで、映像制作に必要な工程をほとんど自社内で行っている。」「同じ場所、同じ時間にスタッフがそろって映像制作に取り組んでいるため、社内でのコミュニケーションが取りやすく、チームワークが生まれることが特徴だ。」「今回、映画の制作を始めるにあたり、メインスタッフは、互いの席を近くに移動させ、作業中に少しでも疑問に思うことがあれば、直接顔をつき合わせて話し合える環境を整えた。」「そうすることで、映画の中で描かれるイメージだけでなく、映画に臨む想いや熱を、スタッフ全体で共有することができた。」[8]

 

京アニが普段からスタッフ間のコミュニケーションを取りやすい職場環境整備に取り組んでいること、たとえば『映画 聲の形』制作に際してはさらに良い方向での修正がなされていたことが伺える。

 このほか、京都アニメーション代表取締役社長八田英明の妻・八田陽子が始めたスタジオであるということもあり、女性を積極的に雇用していたこと[9]、劣悪な労働環境が言われるアニメーション業界において完全雇用を実現していたこと[10]、制作にあたり新人であっても監督にたくさん意見できる「民主的」な風土であったこと[11]、など理想の職場を実践できたいたことがうかがえる[12]

 そして、事件後の遺族や負傷スタッフさらには第一スタジオ周辺住民への配慮を徹底し、寄付金を公的機関の管理に移し公平性・透明性を高めること、前代未聞の京都府警への実名公表をしないよう求めること、「お別れ そして志を繋ぐ式」での香典のお断り等の八田社長の事後対処からも、かかる理念が実践されていたことがよくわかるのである。

 

(3)bona fides――フィクション

京アニの製作したアニメの主題についても、繊細で微妙な個人の心の動きを捉え、理想の人間関係――bona fides成就につないでいくハッピーエンドのものが目立つ。そして、そういう繊細で微妙な個人の心の動きが規範的な意味(「現実もそうあるべきだ」という意味)を持つように描いてきた。

その一つのコロラリーとして、『たまこまーけっと』のみどり、『響け!ユーフォニアム』の香織や、香織に最後まで連帯した優子、『聲の形』の植野、『リズと青い鳥』の希美など、「何に」かはともかく、「選ばれなかった」「敗北した」側を丁寧に描いてきた。

「選ばれなかった側」にも、「選ばれた側」と同様の物語が、尊厳があるのだと――。

 

ただし、我々の現実は、限りなく

 

「選ばれないことは、死ぬことなの」(高倉陽毬)[13]

 

 に近い――。

 

***

 

京アニ大賞はコンテストである。選ばれた側と選ばれなかった側が必然的に生じる。

暁佳奈は当選し『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は京都アニメーションによってアニメ化された。

青葉真司は落選しその小説と似た表現が見られた一点のみを捉え盗作との確信を抱き第1スタジオにガソリンを撒き火をつけた。

そして、その暁佳奈原作の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』が事件後初の同社の新作となった。

その主題の一つに「名前」という媒介が「個人の尊厳の尊重」があり、エンドロールに映し出される犠牲者の「名前」がエンドロール以上の意味を持つようになっていた、ということは別稿で述べた。

 

ここで、青葉の境遇は二重に解釈されうる。

 

一つ目は、青葉は、京アニ大賞への落選だけでなく、これまでの人生そのものが、不登校にはじまり、前科や隣人トラブルという伝聞だけからしても上手くやってこれたわけではない[14]ということである。

 

二つ目は、現時点で今回の事件の犯人としてもはや絶対に取り返しのつかない状況に置かれているということである。36名の死者、33人の負傷者を出した放火を故意に行った人物であり、(もちろんそんな事実はないだろうが、仮に青葉が供述するように、京アニが青葉の作品を盗作していたという主観的認識を前提にしたとしてもなお)動機に汲むべき点はない。しかも無辜のアニメーターを殺害したという点で、青葉の味方は一人もいないだろう。本来味方であった側を撃ったという側面もある。

 

しかし、一つ目については、まさに京アニが「選ばれなかった側」を丁寧に描き、彼ら彼女らの尊厳に配慮してきたことから、二つ目については『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の主人公・ヴァイオレットが、かつて武器と呼ばれ、戦場で多くの敵兵を殺してきたものの、ギルベルトと出会い、心を取り戻し、自動手記人形として多くの人の心に触れるうちに、自分のかつての行いを悔悟する、そういう作品の構造そのものに、今回の事件があてはまりうる。

そのことから、京都アニメーションは、青葉を死刑にしてはならない、という作品の理念に合致する判断を下す必要があるのではないか。

もちろん、厳密に見れば、たとえばヴァイオレットの殺人は是非弁別の別もない子供のときのものであり、完全責任能力(作中には刑法典が出てこないが、現行日本刑法41条参照。さらに、単に類型的に刑事未成年に該当しうるというだけではなく、実質的にも是非弁別能力はないと考えられる)一方で、青葉は成人でありそうではないと考えられる(なお、2020年7月12日現在、既に精神障害があったと報道されており、責任能力の有無について判断するために鑑定留置中ではある)といった点や、ヴァイオレットの殺人は無抵抗の市民に対してではなく戦場で敵兵に対してのもので、違法性がない可能性が高い一方で、青葉は平時に民間人に対して殺傷に及んでいるといった点は違っており、これらの違いから責任非難の程度を変えうるかもしれない。しかし、本当にこの2点の違いがあるのかどうかもわからない上に、果たして結論の処遇の違いに結びつくかはなお慎重な検討を要する。

 

3 事件

(1)報復感情

 事件を受けて、「なぜ残虐な行為をした青葉を手厚く手当てするのか、そのまま放置して死なせろ」であるとか、「青葉を36人と同じように苦しめるために焼き殺せ」「この京アニの素晴らしい作品を裁判官や弁護士に見て欲しい、そしてきちんと死刑にしてほしい」であるといったつぶやき(ツイッター)やコメント(ヤフー知恵袋)が相次いだ。

 こういった形で、ファンの中には、青葉に対して怒りや憎悪を向ける者も、報復感情を持つものも多い。自分の人格や生き方のコアになるような大切な作品を作ってくれた人、あるいはサイン会やオーディオコンメンタリー等で本人の人柄を知っている大切な人が、何か責任があるわけでもなく一方的な言いがかりでひどいやり方で殺されたのだから、その反応は当然であり、自然である。

 しかし、青葉の死刑、さらには絞首刑よりももっと残虐な処刑方法で殺せ、という願望を表出するのは、京都アニメーションの作品が描き、ファンが共感してきたものと矛盾しないだろうか。

 どうか自身が憎悪に呑まれないように踏みとどまって欲しいと思う。

(2)呪縛

また、bona fidesを突き詰めた「理想郷」たる職場で繰り広げられた放火殺人という「地獄」絵図は当然スタッフのトラウマになる。「最高の日常」が「最悪の地獄」に反転する。

そして、それはスタッフの思考を、良くない方向へよくない方向へと向け、精神を蝕む。

たとえば吉田玲子は次のように言っていた。

 

「先日、映画賞の受賞式に参加させていただいたとき、とある映画監督の方が受賞コメントで、ハッピーエンドについて言及されていたんです。ハッピーエンドは映画が作り出したマジックというか、生きていく術なんです、と。現実世界では戦争もなくならないし、辛いことも続いていく。だから、アメリカ大陸に渡ってきた映画人たちがせめて映画の中で幸せな未来を提示しよう、そうすれば今は変わらなくとも、未来が変わるかもしれないということをおっしゃっていました。」[15]

 

これは、京アニのbona fidesの理念とも、京アニ作品のbona fidesの主題ともマッチする。

そして、この吉田発言の直前の山田の「物語は、ハッピーエンドがいいよ……。」[16]、「日々がよいことだけではないのは抗えないことですけど、わるいことばかりでもないんだよ、ということに気付かせてくれるような映画にいつも救われてきたように思います。」[17]、あるいは武田綾乃との対談における「私自身ハッピーエンドは大事だと思っている」[18]といった発言にもかかるbona fidesの精神が現れているといえる。

しかし、このような繊細で優しさに溢れる人間関係を描く作品を作っていたアニメスタジオで事件は起こった。

そんな甘っちょろいことを言っていたからまさにその京アニで悲惨で悲劇的な現実が起きたのだ、という声が聞こえてきそうである。

「現実は悲惨だから、せめて物語はハッピーエンドがいい!」という言葉が、あまりにも重くのしかかる。

かかる言葉を発した山田尚子と吉田玲子はその繊細な作風からうかがえる範囲では、人一倍繊細な人である。だから、「私があんな発言をしなければ、事件は起こらなかったんじゃないか」、と自分を責め、もう作品が作れなくなっている、あるいは相当な無理をして作品を作っている可能性がないではない。

しかし、山田尚子も吉田玲子も全く悪くない。

彼女らは何も間違ったことは言っていない。

繰り返そう。「現実には悲劇で終わることが多いから、せめてアニメではハッピーエンドを!」

今回の事件で、この言葉を山田尚子が、吉田玲子が、あるいは他の京アニ関係者、ファン、みなが口にできなくなる、躊躇する、それだけでなく、そもそも口にする以前の思考の段階で抑圧してしまう、私はこれを怖れる。

暴力の前に屈し、暴力に想像力を明け渡してはならない。

実力を、現実を制圧し改変できるのはフィクションだけなのであるから。

繰り返そう。「現実には悲劇で終わることが多いから、せめてアニメではハッピーエンドを!」

涙ながらに、そして少々ビクつきながらも、私はこれから先もこの言葉を唱え続ける。

 

4 犯罪

 犯罪の定義は、以下のものとして与えられる。

 

「いずれにせよ、ギリシャ・ローマでは、ホッブズよりももっと徹底していて、私的権力を解体するということによって定義される政治システムは、それ自身私的権力の真空状態でなければならないから、独立自由な頂点の水平的連帯によって構成される。ということは、この独立自由な頂点を一つでも破壊する権力が現れれば、システム全体の破壊だ。チェーンの吊橋はチェーンを1個切られると落ちる。切られたその1個のリングに対する侵害ではない。なぜならばリングが1列に連帯している。この連帯の精神は、よく知られたファランクスの精神に受け継がれたいますね。実際には、これはデモクラシーへの移行期に現れるのだけれど、たがいに隣の人を守るように盾を構えて横一列の戦陣を作る。一人でもサボればそこを切られて戦術的劣勢に立つ。

 するとどうですか?まず、私的権力を解体するのはもちろん個人の自由のためだ。しかるに解体の主体は政治システムで、それは自由な個人の連帯によって成り立っている。言い換えれば一人ひとりの自由な個人の存立が、同時に、個人の自由を支える装置になっている。だから、その自由な個人の自由を破壊することは、その個人に対する侵害ではなく装置の破壊であり、したがって犯罪である。」[19]

 

 そして、犯罪が成立する場合の法効果は、以下のものとして与えられる。

 

「……犯罪がおこったときには、自由な主体の水平な連帯が壊れた状態にあります。壊れ方といのは、一人または複数のメンバーが他の一人または複数のメンバーを押さえつけるというものです。権力が発生していますから、政治システムの中枢が打撃を受けた状態です。定義上、一人ひとりの政治システムの構成員は頂点であり、したがって王です。1か0の絶対的な王です。上位も1に足りずに0.7で、下位に0.3を委ねているということもない。

 犯罪は、この1対0も絶対王に対する王殺し(regicide)とみなされます。かくして、これに対しては逆王殺しをするしかない。各メンバーが1になって相手を0にする。ポトラッチを利用する。こんな一義的に明快なことを、有無をいわさずできるのは政治的決定以外にない。」[20]

 

 先に説明したところから明らかなように、2019年7月18日に失われたものは、かけがえのない個人の連帯bona fidesである[21]。スタッフ同士はもちろん、広くロケハン映像やファン感謝祭を通じて日本だけでなく世界中のファンとも「連帯」していたのである(映像による「連帯」)。世界中でこれだけ京アニの作品が受け入れられ、人生の支えになっている、小さな個人が心から自発的に(つまり上下関係、支配関係によるのではなく自由に)「連帯」している、と初めてわかったのは、八田社長だけではなく他のスタッフも私含むファンも一般人もそうであろう(願わくば、このような形で露わになって欲しくはなかったが)。だからこそ9割は1万円以下の小口でも30億円の寄付が集ったのである[22]。自分たちも犠牲者の名前を知りたいにもかかわらず、遺族の心情に対し寄り添い警察の実名公表、メディアの実名報道に強烈なバッシングをするのである[23]。世界中の、現実に苦しめられ、そして京アニのフィクションに助けられた小さな個人が、自然に、自発的に連帯している。

 2019年7月18日に発生した京都アニメーション放火殺人事件で青葉は、水平に連帯した独立自由な「かけがえのない」[24]個人を、1人抹消しただけでも重罪であるのに、36人も抹消したのである。

 そうすると、青葉には「犯罪」が成立し、そうであれば「死刑」が科されることになる。

 

 注意するべきは、これは青葉に対する憎しみからの応報という類のものとはおよそ異なる、ということである。

 前述のように、事件を受けて、「なぜ残虐な行為をした青葉を手厚く手当てするのか、そのまま放置して死なせろ」であるとか、「青葉を36人と同じように苦しめるために焼き殺せ」であるといったつぶやき(ツイッター)やコメント(ヤフー知恵袋)が相次いだ。

これらのコメントの主は、おそらく京アニの作品を、スタッフを愛していたファンなのだと思う。

自分が愛着を持つ優しい作品を輩出し、あるいは直接イベントやコメンタリーで知るスタッフが残虐な方法で殺されたのだから、そういう心境に至ることも理解できるし、そう言いたくなるのは自然な反応であるともいえる。

しかし、私はその憎しみからの応報というレベルでの死刑を、そのまま追認することはできないし、人類の知恵の、あるいは学問の積み上げもそれを否定してきている。

そもそも、(死刑以前に死刑を含む)刑罰全般の正当化根拠として、一般に以下の3つが挙げられる。

①一般予防(目的刑論)

②特別予防(目的刑論)

③応報(応報刑論)

 このうち、①一般予防は被告人を手段として公益促進を図っている点で個人の尊厳を尊重するという憲法13条後段の規定に違反し採用できない。

 また、②特別予防は、死刑の場合には被告人の更生、社会復帰はありえないので論理的に採用できない。

すると残りうるのは③応報である。

これについては、応報刑論の祖[25]といわれるカントの議論がある。

 

「応報といってもたとえばカントの応報はきわめて厳密な限度を基礎づけるためのものです。主体の行動の自律が思想の根底に存在します。」[26]

 

そしてカントの「応報」を正確に読み解いて現代社会に提示するのが、マーサ・ヌスバウムである。

 

「実際カントの見解によれば、応報刑の厳格さは、行為の全面的な責任は人格にあるとすることによって、人格に対する尊重を表す一つの方法だったのである。人々に自らの犯罪の責任を負わせると同時に、償いの手段と、社会への再統合の手段を提供することによって、私たちは償いの能力を力づける。」[27]

 

「刑罰論において応報主義を正しく理解する最善の方法は、それをただ乗りfree-ridingと、平等な自由についての見解であると捉えることである。すべての市民は平等であり、行為の等しい自由を享受すべきであると信じられている。犯罪者は、不平等な自由の領域を要求することによって、この基本的な社会の理解に背くのである。犯罪者は暗に次のように述べている。私は盗むが、あなたは法に従い続けなければならない。私はレイプするが、誰も私をレイプしてはならない。カントが論じたように、このような形でみずからを例外化する者は、人間性を目的それ自体として尊重するのではなく、単なる手段として扱っているのである(これは「普遍的法則の定式」を「人間性の定式」と結びつける最善の方法である。私たちが他の人々を手段として扱っているかどうかを見る方法は、自らの行為が「普遍的な自然法則」になりうるかどうかテストすることである)。応報的な刑罰は、不平等な自由を要求したかどで犯罪者を罰するのである。応報的な刑罰は次のように告げる。いや、あなたに不平等な自由を要求する権利はない。あなたは、他の人々の同様な自由と両立可能な範囲を受け入れなければならない。したがって、これは、個人的な動機にたいていの場合基づいており、一般的な社会的平等にほとんど関心がない復讐とはまったく異なる。」[28]

 

 以上の議論の前提・積み上げを共有した上で、「応報」刑論のあるべき発展型、理想型について、検討を加える必要がある。

 

5 死刑廃止論

 「政治的意味合いのない殺人が端的に犯罪とされるようになります。ローマ風にいえば、都市の政治的空間で政治的役割を担っているのでない、領域の上にぽつんと立っている、そういう個人を破壊することもまた初めて犯罪となるということです。裏を返せば、このぽつんと立っている個人がそれ自身政治システムの骨格を担うと考えはじめたということです。政治システムはその延長を拡大し、ウイングを伸ばし、占有原理に基づいて重ねて個人の自由を保障するように強化されています。そのための手続においては、もちらん元来の政治システムが控えていることが前提ですが、それだけではなく、ただの個人が主体として活躍することが不可欠になっています。その個人を破壊することはかくして新しい体制を根本から傷つけることを意味するようになっています。

 さて、そのような新しい意味の殺人が起こってしまったならばどうでしょうか。もちろん、依然故意とマテリエルな結果は必要条件ですが、殺人の行為主体は刑事裁判にかけられ弾劾されます。弾劾主義は新たな段階に入ります。訴追者は起訴陪審をくぐらなければならなくなります。そのうえで、なお本審で無罪の推定を突破しなければならない。

 領域にぽつんと立つ個人が同じく領域にぽつんと立つ個人を破壊したのですから、端的に政治的に連帯している個人のためにそのなかの一員が身代わりに立つのでなく、領域の個人の連帯組織から成る起訴陪審が暫定的に解放する役割を果たした後、被告人みずからが自分の自由のために保障された占有を供し、これをいわば身代わりとして、最終的な公判前解放を得ます。親友の生命ではなく所詮財産にすぎないものが懸かっているのですから、当然、これを放棄して逃亡することが選ばれます。その権利は保障されます。戻ってくれば死刑ですから、死刑が正式に廃止されたわけではない。しかし事実上おこなわれなくなる。亡命権の保障ですね。

 このような一見テクニカルな変化は、刑事司法と犯罪の概念を基礎づける基本の形而上学を変えてしまいます。1を0にすると言いましたが、0にすること、つまり死は、精神と身体を切断することです。犯罪は必ず実力つまり身体を結合させて組織をつくることによってなされる。心身を切断してしまえば組織がつくれず、したがって切除のためにはこれで十分である。精神を抹殺する必要はない。自由の維持のためにはあらゆる精神の存立を容認しつつ互いに反省の下に置くことが不可欠です。他方、死体を切り刻むこともリヴェンジの心理に駆られることですから、最悪です。ただ、精神と身体を切断するとどうしても身体ばかりか精神も死んでしまう。いや、死に至るまでの精神は不滅かもしれないが、死後はもう活動しなくなる。どうしても精神も殺してしまう。いや、これが死の定義です。いずれにせよ、精神を殺すことは大変遺憾なことでした。

 しかるに、いまや主体は精神と身体の二分節ではなく、精神とその先でその主体に帰属する占有、という三分節形態で登場するようになっている。そして、犯罪に対処するのならば、精神と身体の切断は、十分であっても必要ではない、と考えられはじめる。政治システムの全体を破壊する巨大実力組織が形成されたわけではない。領域の上に小さな渦巻きのようなものを発生させた者がいる。実力はなによりも占有原理によって判定され、そして占有原理に違背した事態であると捉えられるようになっている。ただ、領域上の実力で主体を破壊した。ならば犯行に及んだ主体とその領域上の基盤を切断すれば十分である。刑罰はそれ自身危険な自由の剥奪であるから、ミニマムであることが要請されます。反射的に、主体つまり精神と身体に分節した複合体そのものを切断しない、つまり生かすということになります。ただし追放する。領域に占有を維持することを認めない。裏返せば亡命権が認められた。いまや主体たるは領域に基盤を持つことを要件としている。ならば領域から追放するだけで十分である。脳死ではなく、領域死が刑罰になった、といっておきましょうか。」[29]

 

 「この結果、精神と身体の結合を、侵害してはならないものとして概念するようになります。被告人について以前に、そもそも個人についてそのように概念される。だからこそ単純な殺人が犯罪となる。こうやって論理が循環します。具体的には、主体=精神がみずからの身体をかけがえのないものとして大事にする、このことがアプリオリな要請とされる。主体がみずからの身体を大事にするよう要請されるばかりか、他者が彼の身体に手を触れることも許されなくなる。このような意識が生まれ定着します。

 これは広い意味のデモクラシーのコロラリーです。刑事法的にいえば、身体刑の禁止です。切断といいましたが、実際には身体を傷つけて実行される。身体刑、つまり体を苦しめる行為はスップリキウムsuppliciumといいますが、死刑は「最高の身体刑」スップリキウム マークシムムsupplicium maximumといわれました。これが禁止されるに至る。

 残虐の意味はここにあります。身体をいたぶる、その苦痛を指します。本人にとってばかりか、見る者にも耐えがたい苦痛を与えます。身体は子供と同じです。親をいたぶるならばその子を目の前で傷つけるに如くはない。子供を人質にとって切り裂いてみせる。たまらない拷問ですが、残虐には、そのようなことが大変に卑怯であり人道にもとるという感覚がこめられています。体罰が違法であるのはよく御存知のとおりです。家庭や教育現場での体罰など、最も残酷な裏切り行為です。

 かくして、死刑が違法である所以は憲法36条の残虐である、というのは平凡ながら正しい答えであり、無期懲役のほうが残酷だというような心理的な話ではありません。手を切り落としたり鞭打ちにしたりすることが違法であるというのは全員が認めると思います。死刑はこれと同じことです。否、その究極のものです。

 人々の意識の変化によって耐えがたくなるという認識は真理を含みます。ただしそれはデモクラシーの意識です。だから、日本国憲法がデモクラシーを採用している以上は、死刑は違憲です。そこまでの感覚が定着していないとすると、デモクラシーが未熟だからです。しかし、意識が未熟だから死刑を続けてよいということにはなりません。」[30]

 

私自身、事件後は2日間文字通り食事も含め何もできなかったし、今もふとした瞬間に故人たちの写真とアニメ映像が浮かび涙が出てしまう。追悼セレモニーにも出た。しかし、ここでいくら私が衝撃を受け、悲しみ、涙を流したかを書いたところで、ファンでない人からは「はいはい」「大げさな」と流されるのが大半の人の受け止めであろうし、むしろこれから述べる話を読んだ上で読み返した読者は、あるいは「なるほど、これから述べる話についての批判をかわすためにわざわざ大袈裟に書いたんだな」と思われるかもしれない。しかし、これは偽らざる事件当時の、そしてそれから今に至るまでの、私の嘘偽りない内心であると、無駄ではあろうが一応弁明はしておく。

犯人の死刑に反対するのは理想あるいは偽善かもしれない。京アニファンと思しき人のうち幾人か、しかし決して僅かとはいえない人たちが「青葉を火あぶりにして殺せ」「青葉には地獄の苦しみを味わわせてから処刑するために治療してもらわないと困る」という発言を目にした。また、36人の遺族には自然な反応として死刑を望む人もいるだろう。

しかし、私はすでに述べた理由から死刑には反対せざるをえない。「お前の家族が殺されたときに死刑廃止と同じことが言えるのか?」という批判は、死刑廃止論に対しよくなされる批判だが、それは逆なのであって、家族をはじめ大切な人が殺されたときに憤激に任せて何をやらかすかわからないからこそ、平時に冷静に議論をしておく必要があるのである。そして、この絶望的な日本社会で、誰よりも理想を目指した京アニのファンだからこそ、生き残ってしまった我々は理想を掲げなければならない、それを実現しなければならないと強く思う。理想の真価は最も苦しいときにこそ問われるのであって、理想は遍く平時の自己拘束で危機時期を縛る痩せ我慢である。あまりにも理不尽な、あまりにも不条理な出来事が現実である。しかし、その現実を前に、自然に抱いてしまう怒り、復讐心、憎悪、そういうものをどうにか抑えることができるのもまた、フィクションなのである[31]

青葉の部屋から京アニ作品が押収されたというニュースがあり、なにより京アニ大賞に2作品応募していた。京アニ代理人弁護士によれば、そもそも形式審査で落ちたということであるが、一通り作品を完成させ、投稿するのは、通常並大抵の熱意ではできない。青葉も本来はこちら側で連帯していた小さな小さな個人だった、はずである。なぜこのようなことになってしまったのか。そこに、青葉の個人的な問題以上の構造的な問題があるのであれば、それに対処することが、生き残った我々の役目である(もちろん、これは刑事司法手続における動機解明のための自白獲得を目的とする捜査機関の動きを肯定するものでは全くない)。

青葉を死刑にしても、おそらくどうにもならない。

私は、2019年7月18日の、死者の数が次々増えていく報道を見ながら、これ以上犠牲者が増えないでくれと祈りながら、そして犠牲者数が悲劇的な数に上り始めた続報の絶望に浸りながら、しかし、それでも、後追いで死ぬことはなかった、あるいは、できなかった。これだけ凄惨な事件が起こっても、しかし、我々の人生は続いていく(続いて行ってしまう)のである。であれば、我々にできることは、祈り――#Pray for Kyoaniと、そして志半ばで亡くなった36人の遺志を継いで、理想=フィクションを現実にしていくくらいしかできない。

それ以外の道を私は(あるいは、「我々」は)採用できないのである。

森鷗外山椒大夫』について、死刑廃止は当然の前提にした上で、しかしなぜ、悪人の山椒大夫一派が懲罰も受けずに儲かる、通常の感性では耐え難いラストになるのか、そういう方向での思索を継続し、積み上げていかなくてはならない[32]

 

6 おわりに――「志を繋ぐ」こと

娯楽に政治を持ち込むな、という話はよく理解できる。不要は対立は避けるに越したことはない。しかし、普段ならフィクションとは切り離しておける創作者自身の政治的立場の問題(死刑の可否)に、今回の事件は代表的には刑事事件の被害者証人という形で直面させる。今回の事件は現行犯事件であり犯人性に問題はなく、(依然鑑定留置さらには判決前であるから諸々を軽々に予断すべきではないが)盗作という妄信を安易に信じて一方的に殺意を募らせた動機にも酌量の余地は乏しく36人死亡33人負傷という結果も重大であり、およそ死刑回避が考えられない事案である。従って、ここでは、抽象的な死刑制度一般の賛否が、ダイレクトに青葉の死刑の賛否に繋がる構造となっている。創作者たる京都アニメーション、あるいは個々のアニメーターは直面している以上、その回答を回避することは不可避になった。黙っていることすら何らかの意味を持ってしまう。現行法をそのまま追認することすら何らかの意味を持ってしまう。そういう地平である。

 

***

 

事件が生じた時点を基準に考えれば、もはや取り返しはつかない。

青葉を死刑にしても、何も取り返せない。

刑事司法は、そのどうしようもないところからはじまる。

 

***

 

 我々は理想が理解できたのなら、そのように行動すべきである。

 それがいままだ生きている者の務めである。

 

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』の中で、ヴァイオレットはイザベラに語った。

「私はただ、真似をしているだけです。」

 

ヴァイオレットが少佐の真似をしたように。

 

 そして今回亡くなった36人のスタッフがそうしてきたように。

 

 それが理念として正しいと考えるならば、

 

我々もそう実践しなければならない。

 

 そして、おそらくは証人尋問で、検察側証人として出廷されるであろう八田社長には、青葉は恨んでも恨み切れないが、それでも、京アニの理念や亡くなったスタッフをはじめ京アニの社員が作品で描いてきた理想からすれば、青葉に死刑を求めることはできない、と言ってほしいと思う。

 

 それが社長個人の心情としても、他の多くの遺族や社員を代表する立場としても、ファンを慮る立場としても、非常に困難を極める選択であることは想像に難くないことは理解しているつもりである。

 

しかし、それでも、私は、京都アニメーションに生きる希望をもらった者として、そしてまだかろうじて(しかし、かろうじて)繋がりから切断されてない人間として、そう願わざるを得ない―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

令和元年7月18日に京都アニメーション第一スタジオで発生した放火殺人事件で亡くなられた36人のご冥福をお祈りし、事件によりもたらされた肉体的精神的苦痛に苦しんでおられる被害者、遺族、そして京アニ関係者に平癒の祈りを捧げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※本稿はアニメクリティークvol10(アニメクリティーク刊行会、2019年12月)に寄稿した拙稿(フクロウ「フィクションと現実のパラレリズム――それを理解してしまったら、そのようにせざるを得ませんね――」同78頁以下)にある程度の規模の改訂を加えたものである。元の原稿の作成にあたってはアニメクリテイーク刊行会編集のNag(@Nag_Nay)さんに助言と加筆修正をいただいた。この場で感謝申し上げる。

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[1] むしろ、今回の事件までは団藤重光が微温的には死刑に反対しつつも態度を決めかねていたという状態に私自身近かった。団藤が明確に死刑廃止論に立つようになったのは、最高裁判事時代にある死刑事件の上告審で、「合理的な疑いを容れない程度」の立証はなされていると評価できるが、しかしそれでもなお絶対に間違いがないとはいえない事件にぶつかった際に、傍聴席にいた被告人の家族と思しき人たちから「人殺しっ」と罵声を退廷時に浴びせられたからだそうである(団藤重光『死刑廃止論 第6版』(有斐閣、2000年)8-9頁)が、私の場合は今回の事件が契機になった。

[2] その意味で団藤・前掲注1)10-11頁は、団藤の思索の積み上げからすればギリギリ許されるものの、なお死刑を望む遺族の、あるいは苦悩の末に死刑を望まないとした遺族の、心情への評価介入が過剰であるように感じる。「もちろん、殺人の被害者の遺族でも、犯人を死刑にしたからといって、それで気が済むものではないでしょう。犯人が死刑になっても、殺された人が生き返るわけではないし、遺族には虚ろな気持ちが残るに違いありません。だから、殺された人の遺族の中にも、非常に悩んだ末に、最後には、犯人を死刑にしないでほしいと言って、むしろ、それを機会に死刑廃止論者になった人さえあります。これは、まことに感動的な尊いことです。応報感情もこうした形で昇華されることがあり得るのです。」

[3] 木庭顕『政治の成立』(東京大学出版会、1997年)18頁。

[4] 木庭顕「政治的・法的観念体系成立の諸前提」山之内靖ほか編『社会変動のなかの法』(岩波書店、1993年)232頁。

[5] 木庭顕「東京地判平成25年4月25日(LEX/DB25512381)について、遙かPlautusの劇中より」『新版 現代日本法へのカタバシス』(みすず書房、2018年)145頁〔初出:2015年〕。

[6] 『映画 聲の形 Making Book』(京都アニメーション、2016年)(以下「MB」とする。)56 頁の「映画『聲の形』の制作フロー」によれば、シナリオ、絵コンテ、劇判・音響、レイアウト、原画チーフチェック、演出チェック、レイアウト作監チェック・総作監チェック、原画、原画チーフチェック、演出チェック、原画作画監督チェック、動画、動画検査チェック、背景、仕上げ(色指定・特殊効果)、撮影・3D、編集と制作段階のみでこれだけ複雑な過程を経る(編集の後、音響制作の工程へ)。

[7] http://www.kyotoanimation.co.jp/company/philosophy/〔2020年7月12日最終閲覧〕。

[8] MB54頁。

[9]京アニの功績を振り返る、働き方改革と細部へのこだわり」2019年8月31日 https://www.news-postseven.com/archives/20190831_1441413.html〔2020年7月12日最終閲覧〕。

[10] 同上。

[11] 「民主的で年功序列を廃した意見形成や作品作りも、特徴的だった。京都の商店街が舞台の『たまこまーけっと』(25年)の制作時のこと。「舞台のモデルである出町桝形商店街(京都市上京区)に私を含めスタッフみんなで取材に行ったのですが、取材中、監督にみんながどんどん意見するんです。全員で寄ってたかって作品をつくるという印象でした」(岡田敏一「“全員一丸”が生む職人技 学芸員語る「京アニ」の強さ」2019年7月20日https://www.sankei.com/affairs/news/190720/afr1907200009-n2.html〔2020年7月12日最終閲覧〕)。

[12] デジタルアートで快進撃を続けるチームラボも似たような仕組みであり、なればこそ快進撃を続けられるのだと考えられる。「徹底したチーム制で個の能力を引き出し、組織全体の力を上げる。」「「管理しない」ことが、妥協のないこだわりを実現。」(pen54号(2018年)46頁)。また、武藤北斗『生きる職場 小さなエビ工場の人を縛らない働き方』(イースト・プレス、2017年)も参照。

[13] 幾原邦彦監督『輪るピングドラム』。

[14]京アニ放火犯、下着泥棒やコンビニ強盗から放火に至るまで」2019年7月26日https://www.news-postseven.com/archives/20190726_1419294.html〔2020年7月12日最終閲覧〕

[15]リズと青い鳥』パンフレット(『響け!』製作委員会、2018年)(以下「リズPF」とする。)5-6頁〔吉田玲子〕。

[16] リズPF5頁〔山田尚子〕。

[17] 同上。

[18] 「『リズと青い鳥山田尚子×武田綾乃 対談 少女たちの緊迫感はいかにして描かれたか」2018年4月27日(https://kai-you.net/article/52799〔2020年7月12日最終閲覧〕)〔山田尚子〕。

[19] 木庭顕『笑うケースメソッドⅢ』(勁草書房、2019年)13‐14頁。

[20] 同24頁。

[21] 「令和元年7月18日、弊社第一スタジオ放火・殺人事件から3か月余が過ぎ去りました。私たちは、一日たりともこの事件について忘れることはありません。一瞬にして失くした「日常」に思いを致すばかりです。」「この間、世界中の皆さまから義援金、温かいメッセージやご献花をいただき、私たちを励ましていただきました。私たちが仲間と共に作ってきた作品が、こんなにも世界に届いていたことを知りました。」(八田英明「ご挨拶」株式会社京都アニメーション「お別れ そして志を繋ぐ式」実行委員会『お別れ そして志を繋ぐ式』(2019年))。

[22] 紙谷あかり「京アニ義援金32億円 遺族と負傷者に1回で全額配分へ」2019年11月12日https://www.asahi.com/articles/ASMCD4GDGMCDPLZB00N.html〔2020年7月12日最終閲覧〕。

[23] 遺族の心の静謐について、ソポクレース〔呉茂一訳〕『アンティゴネー』(岩波書店、1961年)及び最大判昭和63年6月1日民集42巻5号277頁参照。

[24] 「お別れ そして志を繋ぐ式」において配布されたポストカード。

[25] 実はこれは完全に誤解なのであるが、しかし、カントのテクストに誤解を誘発する短絡があるのも事実ではある。詳しくは、木庭・前掲注19)5頁脚注5。

[26] 同5頁。

[27] マーサ・ヌスバウム河野哲也監訳〕『感情と法』(慶應大学出版会、2010年)297頁。

[28] 同303-304頁。

[29] 木庭・前掲注19)35‐37頁。

[30] 同37‐39頁。

[31] 丸山真男「肉体文学から肉体政治まで」『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社、1996年)375‐394頁〔1964年初刷〕〔1949年初出〕。

[32] 菊池寛恩讐の彼方に』、そしてそれを範に取る塩谷直義監督『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__』も未だ超えられなかった境地である。他方で、谷口悟朗監督『コードギアス』シリーズは、まさに(過失とはいえ)ユフィイをイレブン虐殺犯に仕立て上げた上に殺害した、恋人の仇敵であるルルーシュとスザクが手を結ぶのは、そのユフィの描いた理想の「未来」のためであった。