人文学と法学、それとアニメーション。

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完全映画の理想の現実化としての『映画「五等分の花嫁」』(第2稿)

1.完全映画たる結婚式馴れ初めムービーとしての『映画「五等分の花嫁」』

 本作は一言で言えば結婚式で流れる新郎新婦の馴れ初めから結婚までのムービーと言えなくもない。

 しかし、四葉以外の一花、二乃、三玖、五月の姉妹同士の小さい頃から今までの関係、風太郎との関係、姉妹と母・零奈の関係や、中野マルオや上杉父の話まで含め、本来記録し得ない事柄が記録され、さながら人生そのものの記録、つまり完全映画の神話の完成型と言える。

 結末、つまり最後誰を選ぶかに至るその直前の手前にある、六人が六人とも相互に取り替えがきかない特別な存在になった──たとえ恋愛や性愛で名指される関係ではないとしても──関係に至る道程あるいは積み上げが全て記録できているという現実では望むべくもないが成就しているのである。

 その、一つ一つは偶然の上に成り立つ六人それぞれの関係の積み上げが、この結末しかあり得ないという必然的な結末を生み出しているのである。

 この積み上げが十分になされているからこそ、本作で頻繁に使われるセリフや状況の繰り返しが効果を発揮するのである。たとえば、三玖の「変な意味」(誤解を解くためと恋心をまともに伝えるため)、四葉が寝ている風太郎の頭側から覗きこむ状況(本心を隠した嘘の「好きです」と本心からの「好きです」)、五月の「そうだいいことを思いつきました。上杉くん、勉強を教えてください。」(最初初対面のとき風太郎にすぐ断られた申込みと、すぐにOKされた申込み)。

 まさに私がかつてバザンの理論を再構成しつつ剔出した、名作映画の理論に合致する。

 

映画の出来事・展開は、予測不能でなければならないが、かといって終幕時に物語になっていないと映画にならない。

 

名作映画は、「リアリズム」と「物語」の矛盾の弁証法的発展の上にある。

 

そしてそのためには出来事の積み上げがなされている必要がある。

 

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 だからこれだけ面白いのだろう(ちなみに、私は本稿を書いている2022年7月29日の段階で既に20回映画館で鑑賞している。『君の名は。』『映画 聲の形』『リズと青い鳥』『天気の子』『劇場版少女歌劇レヴュー☆スタァライト』以来、1年ぶり6回目の非常に夢中になっている映画である)。

 

 「二乃と上杉さんのこれまでの関係を……三玖や一花、五月と上杉さんがこれまで過ごした日々を無視なんて私にはできない」(『五等分の花嫁』14巻・四葉)

 

 

 映画は、ほぼ完璧と言ってよいのであるが、正直原作のこのセリフを落としたのは痛恨のミスである。

 このセリフこそ、『五等分の花嫁』という作品の核心だからである。

 

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「運命の人かなんてねすぐ分からない変わってゆくから好きなんだそれが永遠の合図」(内田彩Sign』アニメ『五等分の花嫁』1期ED)


 運命の人かどうかが大切という点は運命論者と変わらないように見えるが、もはや反運命と言ってもよい主張内容である。大切なのは関係の積み上げであり、運命の人かどうかではないのである。

 

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 そして、これは原作からしてそうであるが、風太郎と四葉を繋いでいるのは「写真」である。

 6年前の京都で撮った、風太郎と四葉の写真。

 そして、6年前の京都編は全体にわたり風太郎が父から貰ったカメラの存在によって縁取られる。

 また映画のエンディングも6人と関係者の写真で彩られる。

 アンドレ・バザンがミイラコンプレックスから説き起こし、現代における不死へのフェテッシュが写真、そして映画へと転位したことを的確に見抜いた人間の心性からすれば、かかる記録の積み上げこそは完全映画に極めて近い映画であろう。

 写真が鍵になる映画において、バザンの理想が描かれるのはある意味必然であった。

 

2.特別、承認、アイデンティティ──中野四葉についての覚書

 四葉の中学生編、五人の中で一番であった成績が30点、31点、そして29点と変化する中で、自分は何のために勉強をしていたのか分からなくなった四葉の、母の過去回想が以下のものである。

 

 「特別じゃなくていい。大切なのは五人でいることですから。」(『五等分の花嫁』11巻・零奈)

 

 

 これは、映画でもそうである。

 最初、(私は映画初回観賞段階でアニメはおろか原作も未読であった)映画を観た段階で、四葉のこの回想は間違いだと思ったのである。なぜなら母はそんなことは言っていないからだ。正確には、「一番にならなくても、あなたたちは一人一人が特別です。母として、五人で居てくれることを望みます。」である。まあ意訳の範疇ではあるので、映画に翻案する段階でスタッフの誰かがミスないし大胆な省略をしてしまったのだろうと思ったのである。しかし、原作でもこう書かれているのである。そうなると、これは原作者・春場ねぎが要約を間違えたという他ないだろうと当初は思っていた。しかし、原作を読んでいくうちに、これだけ精緻な段取りをして、展開を考えている春場が作中で最も大切なセリフを大分疑わしい形でこのように要約するはずがないと思い至り、これは意図的な間違いである可能性に思い至った。

 すなわち、客観的な事実とは異なる、四葉の競争バイアスがかかった主観的記憶としての母の言葉であると解釈すれば、全て筋が通るのである。

 

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 四葉は「そっくりさん」の「見分けがつく(identify)」という意味での「特別」を、競争で「一番」になることだと全く疑いなく信じ込んでいる。

 だから、母が四葉に言った「一番」でなくていい、という言葉を(その後明確に「あなたたちは一人一人特別です」と続いていたのに)勝手に捻じ曲げ「特別じゃなくていい。大切なのは五人でいることですから。」と言われたのだと思い込んでいたのである。

 その結果、高校での一人だけの追追試不合格となり一人だけ転校の憂き目に際し、他の姉妹が自分たちのカンニングの事実を告白し、一緒に転校してくれた際に、「誰が特別かなんて競い合うのはもうやめよう。私はみんなのために生きるんだ。」という決意をするに至ってしまうのである。結果、「特別」すなわち「個人」になることを厳禁し、主体性を無くし、ひたすら他の姉妹のために振る舞う日の出高校転校以降の四葉という人間の人格が完成してしまう。

 だから他でもない風太郎から告白された際にも本心である「好きです」がどうしても伝えられず、「ほら、みんなとか…」「上杉さん、私だけが特別であっちゃいけないんです。こんな私なんかが…」という形で、告白を断り、逃げることになる。

 それはエンゲージリングを嵌める資格の否認であり「特別」な「個人」となることの否認の自己暗示である。さながら『天気の子』において雲の上で帆高からもらった指輪をもはや身につけられなかった陽菜のように!

  この文脈でのエンゲージリングはレヴィ=ストロース的な部族社会における女性の交換ではなく、個人の相互尊重の象徴であり、なればこそ水平連帯による責任分有を拒否し、(女)王になることを(幾分不明瞭にではあるが)決意した陽菜はそのリングをはめる資格がないのである(このみんなから見放されるのではないかが怖くてその地位から降りられない話は『キズナイーバー』ののりちゃんもまたそうであった)。

 

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 この四葉の呪縛、自己暗示を解く鍵が、これまで積み上げてきた風太郎の四葉への信頼、もっと言えば恋心である。「みんな?今はお前に訊いている。」「だから嫌いならそれでいい。お前の気持ちを聴かせてくれ。」

 こうして、一花が「誰も選ばない」と言った風太郎に「素直な気持ち」を大切にして選んで欲しいと言ったことで生まれた風太郎から四葉への「素直な」告白となり、その解答の際に四葉は「嘘がつけない」のである。虚飾を避けて自然に生きること、つまり“自分の本心に”嘘をつかないエピキュリアニズムを前提に、その本心に従って行動している。

 そう、「愛があれば、見分けられる」のであった。

 これに対し「私、上杉さんには、嘘がつけません」と言って四葉が紡ぐ言葉が「好きでした」である。これがまごうことなき四葉の本心であり、つまりこの四葉はもはや「みんなのために生きる」四葉ではない(ちょうど竹林の挑発にのって、三玖の前であるにもかかわらずまんまと「私の方が上杉さんのこと(好きです!)」と言いそうになったように!)。風太郎の告白に応える四葉は「特別」な「個人」である、しかし、これは競争で「一番」になったから四葉が選ばれたという話ではない。四葉が、6年前に、そして転向して風太郎が姉妹の家庭教師になってから以降ずっと、勿論それは6年前の思い出があったからでもあるが、しかし理由はどうであれ風太郎を助けてきた、その事実の積み上げこそが決定打だったのである。

 だからこそ、結婚式後ロビーで、係の人が持ってきた緑の(悪目立ち)リボンを「もういらないので捨てておいてください」と言って手放すことができるのである。そして、そのシーンでようやく母の真意がわかり、正しく母が言っていたセリフ、「あなたたちは一人一人特別です」を“正しく”回想することができ、そしてリボンを捨てるのを止めようとする風太郎に「いいんだよ。どんなにそっくりでも、ちゃんと見つけてくれる人がいるから。」と返せるようになったのである。

 

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 四葉のコンプレックスの原因は、現代人のほぼ全て、つまり我々と共通する、自分の代わりはいくらでもいる=必要とされないことからくるアイデンティティの不安定さ(危機)である。

 前近代では移動の自由や職業選択の自由はなく、だいたい生まれてから死ぬまで同じ村で暮らすのが当たり前であり、そこでは「私が何者か」は自明であった。問う必要すらなかった。 

 しかし、近代に入り土地と労働が市場化され、移動の自由や職業選択の自由が保障されると、「自分が何者か」は自明ではなくなった。アイデンティティの危機である。

 そして、そのアイデンティティの危機を克服する鍵は、市場や労働といった取り替えがきく関係ではない、取り替えがきかない関係、端的に言えば「愛」関係からの「承認」である(たとえばアクセル・ホネット〔山本啓・直江清隆訳〕『承認をめぐる闘争〔増補版〕』(法政大学出版局、2019年2刷))。

 6年前の四葉から、あるいは風太郎から出てくる「必要とされる」人になる、という課題は、新自由主義的規範の内面化の可能性が高く、それは容易に「必要とされない」人の社会からの排除や抹殺に結びつく思考たりうるが、他方で、社会からの排除や抹殺に結びつけない形で「必要とされる」人になることは──最低限の他者との差別化と排除がなされることにはなるものの──アイデンティティ形成のために必要なことでもある(『輪るピングドラム』におけるテーマがまさに、「選ばれないことは、死ぬこと」、反転としての「見つけてくれて、ありがとう」「生存戦略、私を離さないで」だったのと同じように)。

 本作中で繰り返される、よく似た五つ子を見分けられるかどうかは「愛」があるかどうかによる、という五つ子の母や祖父からなされる指摘はまさにこのことにかかわる。

 アイデンティティの危機を乗り越えて生きていくためには、「愛」されること、すなわち「承認」されることが必要であり、その前提には「アイデンティティ」(identity)の「同定できる」つまり「見分けられる」(identify)ことがある。

 本作は、見た目がそっくりで喜びも悲しみも5等分の教条を持つ5つ子の中の1人の内心問題とすることで、現代日本人がみんな少なからず持っている「取り替えが利く存在」「かけがえがある存在」であることからくる「アイデンティティ」の危機という問題を、極大化しているといえる。

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 以上を要すれば、長い長い時間がかかったが、四葉の「特別」さの意識の獲得、すなわち「アイデンティティ」獲得の物語は23歳で達成されたといえるのである。そのためには風太郎の「愛」による識別(identify)が必要であった。

 中野四葉の特別=アイデンティティを巡る物語、これが一つ、『映画「五等分の花嫁」』の完全映画の中で展開されている主軸の物語であることは間違いないだろう。

 

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 この「愛」に基づく「特別」さの「承認」が生きていく上での鍵であり「アイデンティティ」を形づくる、という問題系は、『クズの本懐』『輪るピングドラム』『やがて君になる』など枚挙にいとまがない。

 かつて前述のアクセル・ホネットなどに言及しつつ論じたところである。

 

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 そして、これは竹林が「本当に大きくなったね、風太郎」という言葉を感慨を持って告げたように、「俺には誇れるものがない」「いらないのは俺だ」という自意識を持っていた6年前の風太郎が、もう「全員が特別に決まっている」「数少ない友人」を持っていることを何の衒いもなく竹林に告げることからうかがえるように、風太郎の課題とパラレルであった。衒いなく「好きだ」や「特別だ」と言えるのは、信頼関係があり、同時にそれが自身の自信、自己承認にもなっているからであり、またそれがあまりにも「自然」なことだからである。これもまたエピキュリアニズムの例証でもある。

 このことは結婚披露宴で四葉から一花、二乃、三玖、五月に向けられた言葉と前後して流れる風太郎の一花、二乃、三玖、五月への言葉の最後の「お前たちの家庭教師をやれたことは数少ない俺の自慢だ」というセリフが、四葉の「私は五つ子として生まれることができて幸せでした」というセリフと等価なものとして示されていることからもうかがえる。

 

3.良き平岡としての二乃──そして一花、三玖、五月

 夏目漱石『それから』の肝は、主人公・長井代助が、かつて自分自身が相思相愛であった三千代を親友・平岡に周旋して結婚の仲を取り持ったことで、自分が批判している父・長井得あるいは日本の社会通念が、実は自分自身の過去の行いそのものであったことが判明した後に、平岡との間でbona fides(高度な信頼)の関係を紡ぎなおせるかであった。その大前提には、平岡のプライドを叩き潰した上で三千代との離婚を呑ませ、しかるのち自分が三千代と再婚することを平岡が認めるという「茨の道」を進むことになる。もちろん禁反言に抵触する行いであり、integrityに欠ける行為とも見うるが、しかし自然の、あるがままの状況──エピキュリアニズム──を実現するには、こうするより他ないのである。しかし、明治日本のレベルに、あるいは明治以降の日本のレベルに相応しく、結局平岡は代助の裏切りを怨み、長井得に代助の(肉体的ではない精神的なものではあるがあまり関係はない)不義密通を告発し、心臓が悪く瀕死の三千代を代助に請け出させることをのらりくらり慇懃無礼にあしらい、自身の占有下に置いたまま死なせようとする(そして明確には描かれないが、三千代は鳥籠の中で死ぬのであろう)。これは明治日本から見た太平洋戦争の、日本の人民及び日本に侵略されたアジアの人民の塗炭の苦しみへの暗示に満ちたほの暗い未来を予期させるものであるが、作品そのものの結末としても悲劇である。

 この代助と平岡の間のbona fides成就という課題を、性別を逆転させて、平岡の数を増やし、しかも喜劇として描ききったのが『映画「五等分の花嫁」』である。

 すなわち、四葉が代助、平岡が二乃、三千代が風太郎なのである。

 しかし、四葉は代助の轍を一旦は踏みかけたものの、三玖に気づかされたこともあり、二乃と真っ向勝負という代助がかつてやりそびれたやるべきであったこと──平岡に三千代への好意を告げられたときに、友情だ義侠心だを持ちだして三千代との間を取り持つ、というのではなく、「僕も三千代さんが好きだ。」と告げて正々堂々勝負すべきであったこと──をやったのである。

 その四葉の「茨の道」を進む「覚悟」を聴いた結果、二乃も(これからの四葉風太郎を見ていくという)条件付きながらも、四葉風太郎が付き合うのを認めるという素晴らしい返しをする。

 

 「私は上杉さんが好きなのと同じくらい、姉妹のみんなも好きだから!」

 

 結局、一花、二乃、三玖の風太郎への恋は成就しなかった。しかし、それは無しにしていいものではないし、五月も合わせた六人がこれまで積み上げてきた関係がなければ、風太郎と四葉のこの形でのハッピーエンドはあり得なかった、ということである。この六人の関係は、誰か一人でも欠けたら成り立たなかったものであり、皆が皆にとってかけがえのない存在なのである。「この関係は、無駄じゃなかった」(風太郎)。だからこそ風太郎も姉妹も空間的には離れていても「一人じゃない」と、心からそう思えるのである。そして、これこそが母が四葉に言った、「大切なのは、五人でいることですから」の真意である。

 そうであるからこそ、最後の五つ子ゲームで四葉以外の全員、一花、二乃、三玖、五月がウエディングドレスを着ても惜しくはないのである。むしろ着ない方が不自然である状況になっているのである。

 事実を積み上げることで、これ以外にないかけがえのない関係を作出することは、それがいかようにでも操作可能なフィクションであるからこそまさに逆説的に重要になるのである。

 個人の「かけがえのなさ」は、基底的事実、つまり経験した事実を容易に変動させうるところには生じ得ない。「他でもありうる」ことは「かけがえのなさ」の反対である。私がラブコメのマルチエンドに極めて批判的であるのはこの理由からである(幸い、『五等分の花嫁』は『僕は勉強ができない』と異なりマルチエンドを採用しなかったから良かったですが…)。生の一回性が支配する基底現実では、失敗した経験(恋での失敗なら失恋の経験)も含めて「かけがえのなさ」なのであり、どこかだけを都合よく取り出してはならないのである。

 

4.依存と自律━━なぜ二乃vs四葉なのか?

 映画含め『五等分の花嫁』を、五つ子と風太郎の成長譚として見れば、成長、すなわち各人の課題(コンプレックス)を乗り越える話が描かれているはずである。その観点から見るならば、鍵は「将来の夢」になる。文化祭での風太郎から五つ子への告白前に、自身の夢を既に見つけているのが女優を目指した一話、調理師を目指した三玖、教師を目指した五月である。つまり、風太郎がいなくても叶えられる夢を持っている、要するに風太郎から自律して生きていけるのがまずはこの三人である。

 一花は風太郎が来る前から自身で女優の道に進んでおり、一番依存度が低かった。

 三玖は風太郎の四葉への告白後の四葉とのカラオケ後に明言していたように、「私は四葉になれなかったけど、四葉だって私にはなれない。そう思えるほどに、私は私を好きになれた」のである。もちろん内気だった三玖が5年後、ヘッドホンを捨て前髪で右目を隠していないのは、風太郎と出会い、さまざまな関わりをし、恋をし、風太郎のために料理を作り、そうした経験の積み上げによって自信を得たからである。その意味で風太郎は特別で大切な人には違いないが、しかし、それは性愛、あるいは結婚の形で成就しなくとも特別で大切な人には変わりないのである。かくして、三玖のコンプレックスは解消された。

 五月についても事情は同じで、特に母になり代ろうとずっと母の役回りを演じてきた五月が、母と自分は違う(人格な)のだという簡単なことに気づけ、教師になる夢を維持できたのは、風太郎のおかげである。「この先どんな失敗が待ち受けていたとしても、この学校に来なければ、あなたに出会わなければなんて、後悔することはない」のである。しかし、これは性愛や結婚の形で成就しなくとも、相互に特別で大切な人であることは動かない。かくして、五月のコンプレックスは解消された。

 そして将来の夢を持たないのが二乃と四葉である。つまり、二乃と四葉が最後まで自分の存在意義を風太郎に依存させていたからこそ、この二乃と四葉が最後まで残り激しい対決となるのである。そしてそれは単に将来の夢がないというに留まらず、今の自分に自信がないからでもある。

 しかし、四葉は、文化祭で竹林と会話した時点まででのかつての自分の認識では「無駄なことに執着した意味のない6年間」を、その後の竹林の言葉と風太郎との会話で、「無駄ではなかった」と捉えなおすことができ、「今では誇れることになった」結果、将来は人を助ける仕事(スポーツ選手のトレーナー等)になる、という将来の夢を語れるようになった。

 二乃は自律にはもう少し時間がかかりそうであるが、23歳現在、さしあたり三玖の夢(喫茶店)を手伝っている(「私にも見つけられるのかしら・・・あんたたちみたいに」と文化祭後卒業までの間に三玖にこぼしていた)。

 

5.おわりに

 訂正2稿を書いているうちに鑑賞回数がまたプラス5されてしまった・・・そろそろやめないと労働、家計、生活ありとあらゆる面に支障が出てくるし、他の映画が見れなくて困るのだが、しかし、やめられない。

 まだ何かが引っかかっているということなのだろう。

 おそらく今後も加筆することになるような気はするが、さしあたりここで筆を止めることにする。