人文学と法学、それとアニメーション。

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「現実」を観てないのは誰か?──石井裕也『月』批判

本作の感想を目にした。案の定「深い」とか「重い」とかの定型句に「考えさせられる」という定型句を繋いだ感想が予想どおり散見され、「一生考えてろ」とキレ散らかしている。そもそも、相模原障害者殺傷事件があったやまゆり園は森深くに隠されていた施設ではなく民家の隣にあった。初手から誤導だと思う。二階堂ふみが「都合の悪い現実は隠されるんです」と言ってるが、本作で隠されている都合の悪い現実は、やまゆり園が森深くではなく民家の隣にあってしまうことではないか。様々な撮影編集手法を駆使し、端的に脚本で「現実」を捻じ曲げて、バイアスを思いっきりかけた上で、「さとくんが障害者の殺害に至ったことを我々は非難できないよね?」と、観客の内なる優生思想、意思疎通ができない障害者は殺されても仕方ないという「さとくん」の思想に誘導するような、宮沢りえ宮沢りえの対話をさせるのもどうかと思う。ひろゆきレベルの拙劣な自己問答で誘導をかけるんじゃない。こういう方向に誘導しようとする映画は、はっきり言って障害者差別の固定化、分断の固定化を促進し、ともすれば危害を加えることさえ正当化しかねないプロパガンダになりうる。そういう危険を製作側がどれだけ自覚しているか甚だ疑問である。

 

本作の鑑賞にあたっては、以上の問題を十分踏まえたしっかりとした批評や、相模原障害者殺傷事件のルポライトや裁判記録、実際の事件を扱ったたとえば立岩真也の障害者殺しの系譜を踏まえた論考などを読むべきであり、映画単体だけ観て済ましたり白地から考えたりするのは危険である。そうすれば、根源的解決はともかく、「今、なぜあなたに殺す権利があるのか?」(立岩真也)は問えたはず。

 

一点だけ──ただ一点だけ──「おお」と思ったのは、死刑囚の死刑執行時の首の骨が折れる音や糞尿を漏らすかどうかについての噂が「現実」だとされるが、でもそれが本当に「現実」なのか我々はわかってないんじゃないか、という点。死刑の運用については秘匿性が極めて高いので情報公開が必要。

 

こういう、実際にあったショッキングな事件をベースに作りました、しかし、文学的昇華はおよそできていません(ドキュメンタリーの方がマシ)みたいな作品を観ると怒りがふつふつと沸いてくる。

 

本年6月の『ルックバック』も、最初の公開以降の批判や修正の経緯が経緯だけに、こうならないことを祈っている。