人文学と法学、それとアニメーション。

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令和元年日本のマニフェスト――『天気の子』評註

0 はじめに 忘却、象徴、祈りと解釈学

 

 本作は現代の日本を舞台とするフィクションであるのみならず、現実の日本の裏面を画面に克明に記録するとともに、象徴天皇制を持つ日本に内在する制度的強制/忘却を如実に示している。

これは牽強付会として一蹴できる解釈ではない。

例えば、晴れ間を望んで「オカルト」や「神頼み」でも軽々しく手を出す人々は、中継までされた一人の少女(=晴れ女)が天に昇っていく同じ「夢」を見ても、何らの疑問も呵責も負わない。文字どおり一夜の夢のように、朝日とともに日常生活が始まるのと同時に忘れ去る。「ありがとう!」と彼らが手を合わせたのは基本的には卑近な願い[1]のためであり、願いの裏でのしわ寄せが具体の他者に降りかかっても、それは自分のせいではないし、その帰結は「自分の知ったことではない(神のみぞ知る)」と嘯くだけであろう。忘却癖(あるいは「過ぎたこと」として儀礼に落とし込んでしまう非解釈=解釈回避)と当人の良心の痛みのなさとは、表裏一体をなしている。

さらにこの忘却癖は、雨が東京を覆い、地形を変えてしまったとしても変わることはない。ちょっと前、具体的には3年前と全く違う世界が眼前に広がっているというのに、「いま」の東京に住んでいる人が気にしているのは「次のお花見」のことなのだから。この社会[2]に生きる人の多くは、個別的な事象(世界がおかしくなった日に起きた出来事と「夢」)にかかわりすぎないことによって、自らのシステムを変えることなく、日常を過ごしてしまいうる。地下鉄テロだろうが、自然災害だろうが、おそらくはなんであろうと。つまりは、この社会に住まう人々は異常さを(スマホに映り込む、あるいは「記念日」として)ネタ的に受け入れることに慣れきってしまっており、いかなる事態も「次」の瞬間には当たり前のものとして適応しえてしまうのだ。忘却によって「いま」の全てが「平常」になる。

これは、即位の礼や国民祭典という「祭り」を前に浮き足立つ今日の日本との構造的類似を持つ[3]。つまり令和という新たな時代の幕開けの裏でなお一人の人間を「象徴」へと粛々と「祀り」上げ、制度的強制の下で一個の身体を土地へと縛りつける裏面で、本来は個人が果たすべき負担を局所化し、忘却させる日本の天皇制についての戯画なのだ。

もう多くの人の頭からは消えているかもしれないが、2016年8月8日の「おことば」を思い出してみよう。そこで語られているように、天皇は、国政に関する権能を有しない(憲法4条1項[4])。にもかかわらず「象徴としての務め」を果たさねばならない。天皇は「社会に内在」し「人々の期待に応えていく」ための「天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務め」を果たさねばならない。それゆえに、天皇の死去による社会の停滞や「途切れること」なく象徴を保持するために、「こうした事態を避けること」、すなわち生前退位が必要である[5]、ということである。

しかし、これに対しての反応は、一般市民による感情的な同情(ある種のアイドルと同様に「もう高齢なのにかわいそう」といったもの)から承詔必謹ゆえの意思尊重、あるいは、主として憲法学者によりなされた天皇の「公的行為」に由来する違憲性を指摘し「天皇は自分で自らの首を絞めている」[6]というものまで、「象徴」たる義務の強制性については口を閉ざしたままで[7]、なんらかの形で「象徴」にふさわしい振る舞いを強いるものに誘導されているように見える。

もっとも、だからといって上皇が嫌々、あるいは渋々天皇としての職務を遂行している/していたというわけでもあるまい。生き甲斐と天皇となり天皇として生きる運命からくる重責のストレス、プレッシャーは往々にして表裏一体である[8]上皇生前退位に向けての「おことば」には、その人生をかけて従事してきた日本の象徴たる天皇としての圧倒的矜持が滲む。上皇はなにより自分の父の名をもって開始され、そして自身の青春時代すべてを戦争一色で過ごし、敗戦後には廃墟と数多くの国民の死体、そしてボロボロになった国民の姿を帝都東京で目の当たりにしたことからくるきわめて深い反省に立ち(あるいは立たざるを得ず)、そうであるからこそ平和主義、基本的人権の尊重、国民主権を三本の柱とする戦後の日本国憲法の象徴・実践として高齢になっても慰霊の旅、そして被災地訪問とその身体をもって象徴としての行為に対する尽力を、象徴的行為に対する憲法学説側からの違憲の疑い[9]をものともせずに重ねてきた。そして、その圧倒的矜持に基づく象徴としての行為こそが摂政(憲法5条)では代替履行が不能な、象徴としての行為という(法的)カテゴリーを導くのである。

しかし、その役目がいくら日本の伝統に根付き重要な役目であり、それについて本人が意欲的に、生きがいを感じつつ取り組んでいるとしても、やはりその任務を憲法1条からし天皇個人に強制することは許されないのではないか?そこからの脱却のためには、天皇の人権論と一般人の憲法尊重義務とをつなぐパスを構築する必要がある。すなわち、個人を剥奪された「象徴」には個人としての尊重を、そして、逆に個人にあぐらをかいた者へは公共を担う責務への道筋を。一方で天皇を「個人」として尊重するとともに、もう一方で一般人「個人」の尊厳(義務)[10]として責任主体を立ち上げる必要がある。

以上より、令和元年日本のマニフェストとして、本作を読み解く必然が、ここに現れる。

本作の読みのためには、まさに前半における「象徴としての務め」からの退却としての陽菜の棄世のことを思い出さねばならない。一身に「願い」を受けたことで「自分の役割」を見出したと誤信し、その身を他者のために供しつづけた少女のことを思い出さねばならない。

ほとんど全ての人にとって、彼女は単に忘れられる。あるいは、少しばかりは近しい人には不思議で不遇な事故として処理される。しかし、一人だけは確実に覚えているし、この世ならざる「世界の秘密」に触れたいと願うし、少女もまたそのように願うだろう。しかしここで、「祭り」で終わりにする態度とは異なる、陽菜と帆高の間に成り立つ「祝祭」[11]が、今一度のこの世界変動の契機となることをここで思い出さねばならない。すなわち、雲の上での陽菜救出時のやり取りのことを。

 

帆高「自分のために願って、陽菜」

陽菜「うん!」

 

ここからすると、ラストシーンの陽菜は「社会=世界のため」に祈っているのだが、それはしかし「自分のため」でもある。自らのなすべきことを選択した上で、その負担を強固な紐帯の下で分かち合い、その負担の上で、公共のための「祈り」を分有する。記憶するとともに、記憶から漏れ出たはずの、歴史的に「穴」に落ちたかもしれない存在を、不断に(解釈学的に)立ち上げる。それこそが、本作が描く、「象徴(としての務め)」からの脱却と、それにもかかわらず「社会に内在」しながらなされる「祈り」の形なのだ。

その意味で、本作も災害の記憶と表象を描く自然ドキュメンタリーにとどまるものでは全くなく、人と人との関係を描いているアニメーションである。そこでは、むしろ自由で独立した2個人間での連帯bona fidesの成立を正面から捉え肯定され、歴史的忘却に抗した「祈り」の形が提示されている。

 

 

1 ありのままの日本の現在を――「ワクドナルド」嫌いの新海誠のリアリズム――

 

(1)批判性:アニメーションによる「美しさ」の裏の「美しくなさ」

 本作がアニメーションの形態をとっているからには、まずは、画面から始めなくてはならない。本作で最初に驚くのは、帆高が初めて降り立った東京は新宿の実写的な(リアルな)描写である。もっとも、これ自体は新海誠の前作『君の名は。』において、瀧と入れ替わった三葉が初めて見た東京の描写(特に「バスタ新宿」が目立っていた)からそうであり、それだけであれば本作についてことさら強調すべき話ではない。

 しかし、主題とも絡んで、実は『君の名は。』以上の意味がそこにはある。つまり、『天気の子』においては、画面上の「美しさ」とともに、描写上の「美しくなさ」が奇妙に同居しているのである。ギスギスしてストレスまみれの社会人=大人が沢山いるという現状の描写は、実写映画とは異なり偶然何かが映り込むことはないアニメーションにおいて、本来画面から外したい「美しくない日本」の景色であるにもかかわらず、あえて細部まで描写している。歌舞伎町の「バーニラ、バニラ高収入!」のトラックも、帆高に舌打ちをする多数の大人も、フリマ会場で陽菜に2万円を渡したセクハラおじさんの発言も、未成年の女性を夜の水商売に勧誘するヤンキーも、そのヤンキーとズブズブの警官2人(安井と高井)も、そのためにあえてそのまま描かれている。

新海は、ありのままの現在(2016~2019年)の東京(物質的なものだけでなく、人が人に対してどのように接しているか、も含め)をアニメーションで「正確に」描写する。それはなぜだろうか。それは、本作の主題が「かけがえのない個人を犠牲にしてまで社会の利便性を守る必要はない」という点にあるからである。「美しくない日本」の執拗な描写、それ自体が、鋭い現状批判そのものになっている。

 おそらく新海は『君の名は。』に対する「東日本大震災をなかったことにしている」という批判(もっとも、この批判はやや誤解に基づくものであるようにも思われる)を受け止め、より明示的に、2016~2019年には存在したが、これから先なくなっていく東京の景色[12]を「記録」として殊更に描写しているのであろう。それは、たとえば2019年8月1日から解体工事が始まった陽菜が天と繋がった代々木の廃ビルであったり、解体中の明治神宮外苑であったりするわけである。[13]

 

(2)陽菜は「何を」祈っているのか?

ではこうして析出された主題系を扱うにあたり、ラストシーンについて述べておこう。

 JR田端駅横の小道を、3年ぶりに会う陽菜にどんな言葉をかければよいか、そしてそのための手がかりとして立花冨美と須賀からかけられた言葉を反芻しながら、帆高は歩いて登っていく。その岡の頂上付近で、水没した東京に向かって祈っている姿の陽菜を帆高は見つける。そのとき、帆高はそれまでの冨美や須賀の話とは明確に異なった認識を持ち、ゆえに「違ったんだ」と確信する。

 ここで「違ったんだ」との確信をもたらした陽菜の祈りの内実がまず問題になる。

 遡るべきは、帆高が天の上から陽菜を取り返し落下していく際に、「自分のために願って、陽菜」と帆高は陽菜に言い、陽菜は「うん!」と笑顔で返していた瞬間のことだ。この解釈にあたっては、直前の「私が戻ったら、また天気が……」とみんなの心配をする陽菜に帆高が「もういい!もういいよ。陽菜はもう、晴れ女なんかじゃない!」「もう二度と晴れなくたっていい!青空よりも、俺は陽菜がいい!」というやりとりを踏まえる必要がある。それゆえ、この時点以降(つまりラストシーン)で陽菜が「自分のために願う」以外の選択はない。つまり、ラストシーンでの陽菜の祈り(願い)は、「自分のため」である。

 ここまでを踏まえたうえで、どのように解釈すべきか。2通りの可能性が考えられよう。まずは、陽菜が「帆高に会いたい!」ということを祈っている、つまり、まさに自分のために自分の幸福を祈っているパタンである。そして、もう一つは、晴れ女なんかじゃなくなったとしてもなお、自分のためにみんなの幸福を祈っているパタンである。

 どちらとも解釈は可能であると思われるが、帆高が陽菜を見ての「違ったんだ」の気づきを踏まえると、これは後者に軍配が上がるだろう。

帆高は「違ったんだ」と言う。何と何が違うのか。直前まで考えていたのは冨美と須賀からの話であり、「もともとは、海だった」「世界なんて、最初から狂ってた」「この世界がこうなのは、だから、誰のせいでもないんだ。」陽菜に対してそう言えば、いいのかな?ということである。これとは「違ったんだ」ということなのだから、これの否定であるはずである。つまり、もともとは海だったから、世界は最初から狂っていたから、帆高と陽菜に責任がない。というわけではないということ。「僕は選んだんだ。青空よりも陽菜さんを。大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を。」選択したのは、帆高であり、陽菜である。これはもともと狂っていた世界をそのままにした、誰のせいでもない、というわけではない。

要するに、ここでのパラデイクマの対抗軸は、個人がみんなの犠牲になることを見て見ぬふりをして放置する大多数の大人と、それをしない帆高と陽菜(さらには須賀であり夏美であり凪)である。「違ったんだ」というのは「選択」をするかどうかという決定的な分岐の認識を帆高が欠いていたことの明示である。そして、帆高は「選択」をした、だからこそ「僕たちは、大丈夫」なのである[14]

 

(3)陽菜は「どのように」自分のために祈っているのか?

もっとも、一つ留意しておく必要があるのは、何でもかでも「選択」すればOKというわけではない。陽菜を切り捨て、みんなの幸福を選ぶ、そういう「選択」だってあり得た。しかし、それはアプリオリに「選択」から外されている。

というのも、ここでは「選択」しないことは個人を犠牲にする(に任せる)こととイコールでつながっているためだ。つまり、échangeあるいはréciprocitéに彩られた自然状態こそが所与であり、「選択」は常にそれを変える、つまりアプリオリにかけがえのない個人を守る側につく(古代ギリシアの原義での「デモクラシー」である)ことを意味するのである。

 ここから見れば、「晴れ女」の役目としてみんなの期待に応えてなされていた、かつての陽菜の「祈り」は、実は純粋なものではなかった。なぜなら、晴れることが保証されているからである。つまり、見返りが明確にあるためである。そして、実は「晴れ」の対価は、祈るだけではなく身体の透明化、さらには天への幽閉≒死であったのであり、極めて露骨なéchangeであった。雲の上の世界の陽菜の指から指輪が滑り落ちるのは、みんな=全体の期待に応えて犠牲になった、それを拒否しなかった者は、全体=自然と一体化するため、エンゲージリングのような個人と個人との間でのみ結ばれる絆の象徴物などは原理的に身に着けられないことの示唆である。

 その「祈り」が見返りを期待しない(できない)純粋なものとならないのであれば、陽菜は誰とも信頼関係(bona fides)を構築できない。「祈り」を(通常人がそうであるように)見返りの連関から絶つこと、それが陽菜と信頼関係を構築するために必要な第一順位の行為である。そして、帆高は、天に陽菜を迎えに行き、「陽菜はもう、晴れ女なんかじゃない!」と力強く告げ、晴れ女の能力の剥奪を後押しするのである。

 であればこそ、最後のシーンでの陽菜の祈りは、もはや何の見返りも保証されていない祈りである。見返りがなくてもなおみなの幸せを「祈る」その行為は、純粋なものである。だから帆高がこの晴れ女の能力を失った陽菜がそれでもなおみなのために晴れになることを祈っているのを見たときに、「違ったんだ」「選んだんだ」「大丈夫だ」という言葉が連続して出てくるのである。

陽菜は、晴れ女の能力を失ったくらいでは、みなの幸福を願うことをやめたりはしない。そういう人なのである。思えば帆高との最初の出会いのマクドナルドの時からそうだったのである。陽菜は、決して何か見返りを期待して帆高にタダでビッグマックを渡したわけではないのである。そして、それこそが晴れ女の能力など持たない物語外の現実の我々がなすべき事柄である。現状を「風化weathering」させることなく「なんとか風雨を凌ぐweathering」ことができるのは、こうした所作・態度による。[15]

 

 

2 実力に抗う実力と社会の選択 「大人」の責務

 

(1)若者の労働と貧困――これもまた現在の日本のリアル――

 冒頭の船内での帆高のバイト募集への投稿、陽菜のマクドナルドでのバイト、晴れ女という仕事のサイト、初代プリキュアのお姉さんが依頼の際にコスプレのためにブラックバイトに耐えて耐えてという訴えをし、帆高に3千円しか払っていない須賀を夏美が「超ブラック」と叱責し、夏美は就活で思ってもいない「御社が第一志望です」を繰り返させられ嫌気がさし、「私、好きだな。この仕事。晴れ女の仕事。私ね、自分の役割みたいなものが、やっと分かった」という神宮外苑花火大会で陽菜が語るセリフ。本作では執拗なまでに労働の話が描かれる。

 そして、ブラック労働とセットである若者の貧困もまた執拗に描かれる。陽菜と凪の二人で暮らす子供の貧困。凪の帰宅シーンは「今日はイワシが安かったから…」から始まり、帆高と陽菜の「ご馳走」ランチはチキンラーメン、ポテトチップスを組み合わせたチャーハンとラーメンであり、最後三人で池袋のラブホテルでの晩餐はカップラーメンやたこ焼きなどラブホテルの自動販売機にあるスナックこそがこれまたご馳走として描かれる。

 ルカーチマルクスの意味での「疎外」されてない「労働」たる“晴れ女”ですら、他人のための祈り=感情労働で徐々に疲弊し最後には死ぬ=過労死ならば[16]、結局あらゆる児童労働に反対するのが『天気の子』であり、そうするとパンフレットの「若者の貧困」という文字がすんなりと飲み込める。

 

(2)あるべき社会の姿

「雨の降り続く東京」を陽菜や帆高を犠牲に「晴れの東京」にすることで助けるのではなく、「雨の降り続く東京」を前提に陽菜や帆高(や凪や須賀、夏美、須賀の娘)誰一人欠けることなく困難だが対処していく、それが本当の「大人」。だから陽菜を地上で見つけた帆高は確信するのである。「僕たちは、大丈夫だ。」

陽菜は自分が弱い(子供=15歳、女性、両親がいない)上に凪までいる。やはりポイントは凪なのだ。弱い者のその庇護下にさらに弱い者がいる。ここを守らないでどうするのか。この構造自体はやや緩くだが須賀―喘息持ちの娘(萌花)にもそして実は須賀―帆高にもさらには帆高―アメ(猫)にもあてはまる[17]

人はなぜ猫(あるいはペット)を飼うのか。それは、猫は人と違って嘘ついたり裏切ったりしないからである[18]。自分の食費を削ろうかというときに、野良猫(アメ)にカロリーメイトを分け与える帆高は、「東京って怖えな」と(これまで大人たちから受けてきた嫌がらせを前提に)アメに語りかける点も相俟って、ストレスを伴う輝かしい政治的連帯(あるいは虚栄か?)を避け、自然に生きるエピキュリアンの側に立つことを示唆する。「愛にできることはまだあるかい」の冒頭の歌詞もこのことを強く示唆する。「何も持たずに 生まれ堕ちた僕永遠の隙間で のたうち回ってる 諦めた者と 賢い者だけが勝者の時代に どこで息を吸う 支配者も神も どこか他人顔だけど本当は 分かっているはず 勇気や希望や 絆とかの魔法使い道もなく オトナは眼を背ける」。

本当の「大人」は陽菜を救済した上で「雨の降り続く東京」という「自然」を前提に知恵を出し合い暮らしていく人たちのこと。一番弱い陽菜を犠牲にして万々歳などという解決策はそもそもその資格の前提を欠く。そんな社会は須賀の娘もいずれ犠牲にするだろう。

本作は「世界はそう簡単に滅びない(滅びてくれない)」という3.11後のリアルな認識を前提に、そんな世界を救う=弥縫策のために社会によってかけがえのない個人が犠牲にされるという選択はありえないという価値判断を示したものであり、現実には個人の犠牲で確実に救われる事態なんてないのだからなおさらそうである[19]

セカイ系」の概念がよくわかってないが、かりに「1人の少女かセカイかのどちらかを選べばどちらかは必ず失われる構造を持つパラデイクマ」と定義し、その中に『天気の子』を位置づけられるとするならば、セカイ系自体について、現実に「1人の少女か、セカイか」になってる時点でそんな脆弱なセカイは滅びてもよいのではないかと思う(セカイの滅亡について少女に責任はないと思う)。それよりも、そのセカイ滅亡間際まで1人の少女=かけがえのない個人を尊重できる社会の構築の方がよっぽど大事ではないか[20]。若年労働者の精神的ストレスが極めて高く、過労死も多いこの日本ではなおさらそうだろう。

陽菜をみんなの利益のために決して犠牲にはしない、というその限りでは正しい結果を「選んだ」から「大丈夫」なのである。つまり結果の妥当性と選択の意思両方が必要で、それをすることこそが「世界の形を変えてしまった」こと。東京の水没のことではない。

 

(3)拳銃と落雷――実力行使

 本作では帆高が2回拳銃を発砲し、陽菜が1回トラックを爆破するという実力行使がなされる。実力行使は自由な個人の対極にある観念であるから、安易な実力行使の描写は本作の主題にふさわしくないようにも思える。

 もっとも、新海の前作『君の名は。』では、糸守町の住人を避難させるために瀧が入った三葉は勅使河原と早耶香と組んで変電所を含水爆薬で爆破するという実力行使に出させている。しかし、結局のところは三葉の実父たる宮水俊樹の避難勧告をあてにしていたのであり、実力行使が役に立ってはいないようである。つまり、安易に実力行使が選択されている。そういう意味で、所詮は新海のエンタメ趣味の一環で主題との関係をよく考えずに安易に実力行使をさせた、という可能性も完全にぬぐい去ることはできない。

 しかし、全体にわたり極めて精緻なテクストで構成されている『天気の子』であるから、やはりしっかりとバックの理論に基礎づけられて必然的な形で3回の実力行使が描かれているとみるべきであると私は考える。

 そこで、実力行使が向けられた相手について考察を加えると、帆高の1回目の発砲は未成年女子をも勧誘する水商売のチンピラスカウト、つまりヤクザに対してであり、2回目の発砲は帆高のためと言いつつ(それも嘘ではないだろうけれど)一番は自分の保身のために警察とつるむ須賀に対してである。要するに警察の協力者に対してである。そして陽菜の落雷はいわゆる「転び公妨」に近い形で警察官に身柄を拘束された帆高を救うためタックルした直後に「お願い!」と祈ってなされたものであり、警察に対してである。以上からすると、帆高と陽菜の実力が向けられるのはヤクザと警察であり、日本社会において枝分節体segmentationを構成する二大組織である。しかも、帆高の第1発砲現場に居合わせたチンピラと安井・高井の両刑事が「なんだスカウトの件じゃないんですか。俺ァてっきり…」「ったく、無駄な体力使わせやがって」と、未成年スカウトの違法行為を見逃してつるんでいるさまが描かれている。『相棒season17』第4話「バクハン」で描かれたように、警察とヤクザは社会学的にはよく似た枝分節体segmentationを持つ実力組織であるから、ヤクザに実効的に対抗するために警察が違法行為をするようになる=適法性という要素が抜け落ちるとそのままヤクザに転化するのである。武輝会のチンピラにかつて妻が階段から落とされ、自分の子が流産し離婚に至り、武輝会に対する復讐に燃える源馬は、今ここで息子として扱っていた和気を自分のために危うく犠牲にしかけたのである。このように、ヤクザと警察は極めて相似形であり[21]、両者がつるむときには最悪のsegmentationが生じ個人が犠牲にされる事態に至りうるのである。新海は厳密に(威嚇)攻撃の対象をこの二大segmentation組織に絞っているのである。

つまり、本作において拳銃が出てきてしかも発砲する(さらに陽菜が意図的でないとはいえ落雷でトラックを爆破する)のは「日本社会を個人の尊重ができる方向に変えるためにはヤンキーや警察といった実力組織に対して個人が対抗するためには実力行使(軍事革命)も仕方ない」という新海誠覚悟の若者への訴えかけである。

 

 

3 weathering with you――祈り、天皇、人柱

 

(1)風化と風化批判の二重性

『天気の子』の直訳で“weathering with you”は出てこない。つまりこの英語選択にはただの直訳に留まらない別の意図がある。Nag氏が早くに指摘したように、weatheringには他動詞の「風雨を凌ぐ」以外に自動詞の「風化する」の意味もある。

新海の前作である『君の名は。』に対する批判として「東日本大震災がなかったことになっている」といった批判があげられ、これは震災の記憶の風化への批判でもあるとすれば、かかる批判を乗り越えようとした今作では、やはり東日本大震災のことが念頭に置かれていることもまたほぼ間違いない。

では、東日本大震災の記憶が風化する、そして、震災復興が進まないのはなぜか。

それは、皆が祈らないからである。

そして、その傾向に拍車をかけているのが、皮肉なことに、天皇の祈り、なのである。

以下で詳しい説明を加える。

 

人身御供譚を批判していけば、そして我々が『天気の子』の帆高が青空よりも陽菜を選ぶという選択をよしとするのであれば、同じ構造を持つ天皇制も批判の射程に確実に入ってくるはずである。そうでなくてはそれは欺瞞である。人類の叡智は無批判な伝統ではなくそれに批判を加えていく文学や芸術そしてアニメーションの側にあると考える。無批判な伝統に組み伏せられるとしたらそれは叡智が足りないからであり、翻って組み伏せられることを是認諦観することは実力跋扈で個人に犠牲を強いる日本社会の現状追認そのものである。ある災害につき、天皇が全国民のために、つまり他人のために代行して祈っているからこそ、国民各人が各々で祈ることをせず、なればこそ風化する(weathering)のではないか。そして、それは災害以外の政治課題全てで実はそうではないのか。これは天皇制に対する極めて重大な批判であるように感じる。

 

(2)風化をもたらす「祈り」から風雨を凌ぐための「祈り」へ

『天気の子』における反天皇制の内実は「王殺し」ではなく「王の解放」であって、名誉革命フランス革命とは共和政樹立を志向する点では同じ(王政の廃止)であるものの、共和政の理念がより徹底されている(王にも人権がある!)点で違いがあるといえる。風化に対抗できるのは個々人の祈り。天皇ひとりの祈りではない。そして、これは東日本大震災だけでなく、先の大戦についても、他の社会問題・政治課題についてもそうである。

古代ローマの共和革命やフランス革命のように「王を処刑しろ」という形の共和政樹立パラデイクマを提示するのではなく、『天気の子』のように「王を解放せよ」という形のパラデイクマを提示する方が「天皇の人権」侵害に加担し続ける一般国民の加害性や意欲[22]がはっきりと示されているといえる。

ちなみに『天気の子』では、3年後の帆高に移る直前の東京が水没したシーンで皇居が水没している様が明示的に描かれている。これは『シン・ゴジラ』には天皇・皇族が登場せず、また皇居についても冷却されたゴジラが最後に向いている方向に存在していることで暗示されていたのみであることからすると極めて対照的であって、新海が天皇制のことを明確に認識していることは明らかである。また、新海は『君の名は。』は東日本大震災の被災地を見て思いついたと言っていたし、それへの批判を意識して作ったのが、『天気の子』である。新海が古典国学に精通しかつ上皇が被災地訪問を繰り返していたことは公知の事実だから、新海が『天気の子』を作るにあたり天皇制を認識していないわけがない。

雲の上で陽菜救出時の

 

帆高「自分のために願って、陽菜」

陽菜「うん!」

 

というやりとりからすると、ラストシーンの陽菜は「社会=世界のため」に祈っているのだが、それはしかし「自分のため」でもある。

ここには、「皆のために祈ることを(制度的に)期待され強制された状態で皆のために祈るのは、その人の自発性を認めず、尊厳を毀損し、いわば祈りを祈りたらしめない仕組みなのではないか?」という疑念が見え隠れする。

つまり、ラストシーンの陽菜はもう「晴れ女」ではない=「祈り」が実益に直ちには繋がらない。であるのになお社会=世界のために祈っている。これこそが本物の祈りだろう。

そして、この祈りを個々の国民がするのではなく天皇が独占し(させ)ているがために、震災の「風化(weathering)」が進むのではないか。

つまり本物の「祈り」がないから「風化」する、という関係にあるのである。

 

(3)責任をともに引き受ける「祈り」

帆高が「大丈夫」だと確信するのは、陽菜が今ここにいること、そして、「晴れ女」でなくなってもなお自発的に社会=世界のために祈っているのを見たからである。

だから現状を「風化weathering」させることなく「なんとか風雨を凌ぐweathering」ことができるのである。

「日本国」及び「日本国民統合の象徴」(憲法1条)として日本社会の「分裂」の契機になりうる障がい者や被災者のもとを訪れ再「統合」しなければならない。また長時間のにわたり肉体的負担のある儀式も行わねばならない。それを生身の人間にさせるのはその一人に過度の犠牲[23]を強いる意味でも、そして他の国民にその一人が払う犠牲を意識させない点でも妥当でないのではないか(国民主権のはずなのに!)[24]

「日本国」及び「日本国民統合の象徴」(憲法1条)が不自由な人権剥奪状態に置かれているのだから、戦前の若者の特攻よろしく戦後あるいは現代の若者の過労死がなくなるわけがないのである。[25]

『天気の子』という共和政樹立パラデイクマの眼目は、王家の打倒とはいえ王家を滅ぼせ、という話ではなく、むしろ「日本国民の総意」により人権剥奪がなされている天皇ないし皇族を解放するためにこそ革命がなされるというところにある。陽菜のように、誰か一人が犠牲になってみんなのために祈る、その構造はそのまま天皇制の構造である。そしてその「祈り」はその前提となる祈りの対象の認知・把握を含め「主権の存する日本国民」(憲法1条)個人個人の「責任」のはずである。しかし、天皇が「情念」の領域を代行してくれている[26]ために、日本国民は本来自分たち自身、あるいは自分たちの「代表」(憲法43条1項)がシリアスな社会問題、政治課題を「認知・把握」すらしなくてもよい状況なっているのではないか?だから震災復興が進まず風化する(weathering)のではないか?

天皇制こそは「全体のためにかけがえのない個人を犠牲にする」制度であって、だからこそ憲法13条の定める「個人の尊重」の貫徹の可否が、いわゆる「天皇の人権」の問題として前景化する[27]天皇制の問題の本体は統治機構ではなく人権の問題である[28]。 「天皇に支配されてるようで嫌だ!」というのは全国民の平等性からくる尊厳の毀損の問題であり、この話は「天皇をみんなのために犠牲にしている」から天皇の(平等な市民としての)尊厳を毀損しているという話でもあって、結局は身分制のコインの両面の話ではあるのであるが。

 

 

おわりに 令和元年日本のマニフェスト――希望ある未来としての個人の尊重/尊厳

 

『天気の子』の世界において、帆高が天空に陽菜を助けに行かず晴れに感謝するような社会が現在の日本社会なので若者が自殺したくなるのはよくわかる。現在の日本社会も日本国も若者が未来に希望を持って生きるに値する将来を用意できていない。

「そもそも、大人になるって実際はどういうことなんでしょうか。僕自身が最近思うのは、歳を取って人生を締める方向に向かっていくに従って、人はいろんなことを諦めていくわけですよね。老化とともにかつてできていたことができなくなることもあれば、新しくやれることも減っていく。それを受け入れて諦めるしかない状態が、単純ですが大人になるということの本質のような気がするんです。」[29]大人とは諦めること。であれば大人に「政治」を任せるべきではない。

 

「大人たちは“四季がなくなってしまった”あるいは“昔はよかった”と言って嘆くけれども、今の四季しか知らない子どもたちにとっては“そんなの知らない、関係ないよ”って感じだと思うんですよ。大人たちの憂いや心配、後悔のようなものを軽々と飛び越えていく可能性が、若い世代にはある。」[30]

 

 かけがえのない個人を犠牲にして、そしてそれを見て見ぬふりをして過ごしていく日本社会をどうにか変えなければならない。

 新海誠はそのために、文学的な主題=非従属・不服従という意味での自由な個人の実現としては陳腐すぎて笑いが出てくるレベルの古典的な志向性であるが、しかし現在の日本社会はこの最低限のラインすら満たせていないとしてその陳腐な主題をわざわざ提示しているのである。

 興行130億円を超え大ヒットを続けるその理由は右向け右(あるいは左向け左)の国民性であろうが、その内容はまさにその右向け右をこそ批判する真逆の内容である。『天気の子』の提示するパラデイクマに共感し自身のそして社会のこれまでを反省し、空気を読んで諦観し陽菜をみんなのために犠牲に供するような社会ではなく、真に陽菜を守れるような仕組みづくりに向けて、これからの令和[31]日本の子供たちは邁進して欲しい。

 

※本稿はアニメクリティークvol4.6Ⅱ(アニメクリティーク刊行会、2019年)という論集(発刊趣旨はhttp://nag-nay.hatenablog.com/entry/2019/08/12/225430)の一環として執筆された拙稿(フクロウ「令和元年日本のマニフェスト――『天気の子』評註」)に加筆修正を加えたものである。元の原稿の作成にあたってはアニメクリティーク刊行会編集のNag(@Nag_Nay)さんにきわめて多くの示唆に富む指摘と、加筆修正をいただいた。この場で感謝申し上げる。

 

 

 

 

[1] フリマの売り上げ増加、(その当人にとってでしかない)「一生に一度」の結婚式、視聴率確保のための花火大会の開催…といった事柄は、本人たちにとっては重大事だろうが、仮にそれが実現しなかったとしても、(例えば陽菜の母親の死といっただいたい不能なもののように)個人に局所化される負担が大きいものとは言えない。

[2] 阿部勤也が同『「世間」とはなにか』(講談社、1995年)で指摘するように、日本には「社会」などなくあるのはただ「世間」だけであるというべきなのであるが、ここでは通常の慣用に従い「世間」の意味でも「社会」を使う。

[3] おそらくは大嘗祭よりも、国民的アイドル「嵐」が歌う祭典の方がメディアを賑わすだろうことは確実なように思われるが、こうしたこともこの社会に住まう多くの人々にとっての歴史の解釈回避癖=非解釈癖を示しているように思われる。

[4] 日本国憲法4条1項「天皇は、この憲法に定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」

[5] 「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(ビデオ)(平成28年8月8日)」https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12(2019年10月16日最終閲覧)

[6] 横田耕一ほか「[座談会]憲法から天皇生前退位を考える(上)」法学セミナー745号(2017年)15頁〔西村裕一〕)。

[7] 「この点、これまでの憲法学の考え方は、制度としての側面を強調し天皇はできるだけ籠の鳥にするという方向だったと思うのですが、それに対して、奥平先生は天皇の「人間」としての側面を強調しているように見えますので、その点で憲法学のこれまでの在り方とは少し異なるように見えます……このように、象徴天皇制の趣旨については、天皇人間性を否定することが憲法の趣旨だと理解する見方が一方ではあり得るだろうと思います。それに対して、象徴天皇制と矛盾するというか、それを超える日本国憲法本来の趣旨――それはリベラリズムでも個人の尊厳でもいいのですが――を強調する見方がある。そこに奥平説とそれ以外の学説との対立点があって、通説も制度の論理の枠内で議論をしているという点では変わりがないのかなと思っています。」(長谷部恭男ほか「日本国憲法研究 座談会21・完 天皇生前退位」論究ジュリスト20号67‐68頁〔西村裕一〕)。

[8] 前掲注5)参照。もっとも卑近な例になるアニメとして、『プリンセスプリンシパル』(橘正紀監督)8話(2017年)参照。

[9] 「公的行為も本当はやってはいけない。やってはいけないけれども、現天皇がそれを少しづつ少しづつ拡大させてきた。」(前掲注6)9頁〔西村裕一〕)。

[10] 蟻川恒正「講演録 「個人の尊厳」と「個人の尊重」」東北学院大学法学政治学研究所紀要25巻(2017年)1頁以下、同「第2分科会「個人の尊厳」」樋口陽一ほか『憲法を学問する』(有斐閣、2019年)137頁以下参照。

[11] このことを歌詞につなげて解釈する高橋秀明「せめて、よい夢を。 代々木会館から考える『天気の子』論」アニメクリティークvol4.6Ⅱ(2019年)を参照。そこでは三浦透子が歌う「祝祭」の歌詞、「キリがないがいうよ 君がいい理由を 2020番目からじゃあいうよ」を、想定された歴史から複数の分岐と可能な歴史とを取り出すための解釈学的視線として取り出している。

[12] もっとも、『天気の子』のように描写こそされなかったとはいえ、この観念をすでに『君の名は。』の時点で新海が持っていたことは、瀧が就活の面接で「東京の景色だっていつ失われてしまうかわからない」と言っている点から明らかである。

[13] この点について高橋・前掲注11)を参照。

[14] この大丈夫は、陽菜・凪の家出直前の、「帆高はさ、補導される前に実家に戻った方がいいよ。ちゃんと帰る場所があるんだから。私たちは、大丈夫だから。」に対照的に対応する「大丈夫」なのだから、単に他人が本当はしんどくてたまらないのに口だけで言う「大丈夫」とは違う、心からの「大丈夫」になっているはずで、ではなぜ心からの「大丈夫」なのか、という話である。

[15] 問題を放置するのでもなく、しかし、見返りを求めて何かをするのでもない。2019年7月18日に発生した京都アニメーション第一スタジオ放火殺人事件に際しての#Pray for Kyoaniは、神ならぬ我々ができる唯一の、そして精いっぱいのことである。そしてこれと同じ京アニを思うことが総計30億円を超える、しかも大部分が小口による「寄付」というこれまた純粋な贈与につながったことも銘記しておくべきであろう。

[16] もっとも、陽菜が人柱化していく過程についての新海の描写の仕方はこのような単純化を許さないほど精密である。陽菜は母子家庭(母、陽菜、凪)だったところで母が死に、子子過程(婦警佐々木が言うようにこれは現代日本では法制上あり得ないのであるが…)となり、15歳なのに年齢を偽って働き、水商売をもしようとしていた。それは凪のためで、嫌なことも多かったに違いない。しかし、スカウトマン木村の手から帆高により解放された陽菜は、さらに帆高により晴れ女の「仕事」を見つけてもらった。「私、好きだな」「この仕事。晴れ女の仕事。私ね、自分の役割みたいなものが、やっと分かった。」という花火大会時の発言から、この晴れ女の「仕事」が、陽菜自身の本心から見ても好ましいものであることがわかる。社会的な弱者(子子家庭、未成年、女性、貧困etc.)であった陽菜は、しかし、官僚の娘であるものの一般就職を行い面接に落ち続ける夏美が羨むような自分の社会における居場所=「仕事」を見つけた。晴れ女の仕事は、みんなが喜んでくれる仕事である。しかし、このみんなの喜び=期待が、暗転する。みんなの期待を受けてしまうと、容易に断りづらい空気になる。自分が背負い込まないといけない流れが作られてしまう。陽菜は、自分が天上に昇る犠牲を払ってまで晴れ女の「仕事」をしたかったわけではない。しかし、周囲の期待は、そして周囲の期待に応えたいと考える陽菜の心が、「仕事」から抜けることを許さない。何より花火大会で言った自分の「好きだな」というのも嘘ではない。一度言ったことを覆るのは難しい。いつしか自分でも諦め、「私が死ねばみんなが幸せになるならそれもいいかな…」と考え始める。須賀が夏美に言った「でもまあ、仮にさ、人柱一人で狂った天気がもとに戻るんなら、俺は歓迎だけどね。」という台詞の意味は、陽菜自身だってわかっている。それを否定するのが帆高である。天上での「陽菜、一緒に帰ろう!」「でも、私が戻ったら、また天気が……」「もういい!もういいよ!陽菜はもう、晴れ女なんかじゃない!もう二度と晴れなくたっていい!青空よりも、俺は陽菜がいい!天気なんて、狂ったままでいいんだ!」というやりとりは、この文脈の上のものである。陽菜は帆高のおかげで社会的な居場所を(も)見つけた。それはやりがいを伴うものであるが、それはみんなの期待と表裏であり、それが次第に重荷になっていった。しかし、ここで投げ出すのは無責任である。だったら最後までやり切って死のう、と陽菜は考えていた。そこに帆高が手錠をつけて=罪を犯して現れる。「本当にそれでいいのか?」と、陽菜の本心を確かめるために。帆高の手錠があるからこそ、本気度が、つまりみんなを敵に回してでもなお私(陽菜)を取ってくれるという帆高の覚悟がわかる。そして、であればこそ、当の晴れ女の仕事をくれた帆高その人に対して、はっきりと「人柱になるのは嫌だ」と、(直接の言葉ではないが、涙を含めた態度で)伝えられるのである。周囲の期待に外在的に、あるいはさらにそれを内面化しもはや内在的に「本心」を抑圧してしまうことは往々にあり、それこそが鬱や過労死の原因になっている部分があると考えられる。その意味でこの陽菜が人柱化を受容していく過程はリアリステイックでありおぞましいものであるが、真に迫る繊細なものがある。なお、これは本作で初めて出たわけではなく、直近では『言の葉の庭』(新海誠監督、2013年)の雪野百香里が学校に行けず新宿御苑で朝からビールを飲んでいる理由もこの「期待に応えられない」であろう。だからこそ生徒との恋愛に走る(社会的規範の拘束を破壊できる)素質がある。また、他の監督のアニメであれば、たとえば山田尚子監督『たまこまーけっと』(2013年)10話で振付を思いつかないものの、引き受けた手前みんなを頼れないみどりの心境も参照。

[17] 夏美が須賀に言う、帆高が「捨て猫みたい」という比喩もこの構造を持つ。つまりは、エウリピデスの子であると共に鶴の恩返しの鶴である、そういう役目を「猫」は背負う。帆高(をはじめ人一般)は隠喩、アメは直喩。だからこそ、3年後の世界で須賀のオフィスででっぷりしたアメが登場することは、我々を安心させる。

[18] 『鶴の恩返し』で主人公のさえない男が弦を助ける理由は見返りを期待してのものではなく、ただかわいそうだと自然に思うからである。

[19] 「何故ハリウッド映画にしても何にしても、世界の命運をかけた戦いなのでしょうね。世界の命運や滅亡をかけた戦いでなければ燃え上がれないというのは、ただの不感症なんじゃないかなあ。自分なんか死んだあともまったく無関係に世界は続くんですよ。世界は広い。それはもっと広い。世界は続く。それはもっともっと長く続くのです。われわれが死んだ後にも、世界は変わる。われわれの時代こそ新しい時代などと言うことが、笑止な駄弁であるような未来が来る。たったこの程度のことが耐えられないのですか。」(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010年)124頁)

[20] もっとも、この観点から見たときに容易に陽菜を犠牲にする選択をすることが見通せる日本社会において、奇跡的にも労働者を尊重することで成功しつつある冷凍食品会社があることは、一種の希望としてここで特筆しておくべきである。詳しくは武藤北斗『生きる職場 小さなエビ工場の人を縛らない働き方』(イースト・プレス、2017年)。そして、この武藤北斗こそは新海誠が文学、その延長たるアニメーション映画で対抗し解体しようと目論む枝分節体segmentation及びそれにより基礎づけられる精神性を、雇用方式で打破することを目論む貴重な「実践」である。

[21] 軍隊というものは全てこの実力組織の特徴を備えるため相当慎重に扱わなければ危険であるという認識がパリ不戦条約から憲法9条まで続く思想史的系譜を貫く。

[22] 「というわけで、「人類普遍の原理」(憲前文)に基づく新国家を建設するためには苛烈な人権侵害をも厭わなかった「日本国民の総意」は今なお健在であり、これからも日本国民は祭壇に我々の王を生贄として捧げ続けるのであろうというのが、本稿の展望である。」(西村裕一「「国民の代表者」と「日本国の象徴」」法律時報86巻5号(2014年)28頁)。

[23]「そもそも憲法第1章は、制憲者国民が特定の家系に属する人々に対し、新たに創設された象徴職機関への就任を依頼するというものであり、要するに、天皇は主権者たる日本国民によって隷従的存在であることを命じられた生贄に他ならない。」(西村・前掲注22)28頁)、金井光生「八咫鏡に映るオイディプス」名和田是彦編『社会国家・中間団体・市民権』(法政大学出版局、2007年)275頁以下、蟻川恒正「立憲主義のゲーム」ジュリスト1289号(2005年)77‐79頁。

[24]「一般論としては、憲法国民主権原理を採用しているわけですから、被災地の問題にしても戦争責任の問題にしても、国民自身が決着をつけないといけない。これは当たり前のことなのですが、それが本当にできているのかという問題があります。」(前掲注6〔西村裕一〕)。「要するに天皇という世襲の制度自体が、日本国民が主体的に何かをやっていく上において、悪い影響を与えているというのが私の理解です」(同10頁〔横田耕一〕)。

[25] 「けれども、世襲的特権身分への帰属もさることながら、そのように人間性を疎外され抑圧された天皇という存在を、「個人の尊重」を基本原理とする「日本国」の尊重として定めるということ自体、日本国憲法が抱える根源的な矛盾と言わざるを得ない。」(西村・前掲注22)27頁)。

[26] 西村裕一「情念の行方:象徴・代表・天皇制」論究ジュリスト13号(2015年)100頁以下。

[27] 石川健治『自由と特権の距離―カール・シュミット「制度体保障」論・再考 増補版』(日本評論社、2007年)235-237頁、西村・前掲注22)参照。

[28] 奥平康弘『「萬世一系」の研究』(岩波書店、2005年)参照。

[29]ダ・ヴィンチ』305号(2019年)85-86頁〔新海誠発言〕。

[30] 同85頁。

[31] 元号天皇制と表裏一体なのであり(元号法2条参照)、その初年(令和元年)であることをもって「新たな時代」とし、その新たな時代だからこそ個人が尊重され、若者が実力を使ってでも天皇が個人にされなければならない(制度の束縛から天皇を救済せよ)、というのはいささか倒錯のようにも思われる。しかし、令和元年は天皇制との関係での時間測定であるとしても新しい時代には違いない。また、新時代は『プリンセス・プリンシパル』(橘正紀監督)12話(2017年)でプリンセスが明言したように、「自身が皇位を継承する目的は、自身が王国最後の女王になること」を導くかもしれない。