人文学と法学、それとアニメーション。

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自由・ケア・愛──『ガンダムSEED FREEDOM』評註

遺伝子操作せず誕生したナチュラルと、遺伝子操作して誕生したコーディネートという、二種類の人間が居る世界。かつてキラ・ヤマトラクス・クラインは、かつて人類の争いに辟易したデュランダルが示したディスティニープラン(全ての人間をコーディネートにし、生きる意味と役割を事前に決めることで紛争を阻止し調和の取れた平和な世界を作る)を阻止し、デュランダルを討った。現在はナチュラルとコーディネートは暫定的に停戦中であるが、本作ではコーディネートの一派がナチュラルに対し和平破壊工作を仕掛け戦争を開始する、という場面から事態が大きく動き始める。

 

実はラクスもコーディネートであり、それはファウンデーションの女王・アウラ・マハ・ハイバルの設計のたまものであって、オルフェ・ラム・タオと互いに惹かれ合い、二人で平和な世界を統治するために作られたのであった。

 

しかしラクスは、タオに魅了を感じつつも、タオではなく出来損ないのコーディネートとタオに罵られていたヤマトを選ぶ。

 

ヤマトは、デュランダルを討って、ディスティニープランを否定し、自由な世界(これがまさにタイトルのfreedom)を選んだがラクスが望む平和な世界をタオに与えられていないこと、それどころかラクスに笑顔すら与えられていないことを後悔していた。しかし、それは旧友アスラン・ザラが喝破したように、「自分のことばかり」の視点から、ラクスの内心を勝手に慮っていたにすぎなかったのだ。「どうして助けを求めない?」。ヤマトはたしかに、デュランダル殺害の責、ディスティニープランに従わない道を示す責任全てを自分一人でかかえこんでいた。やさしいから。それはラクスもわかっていた。だがそのやさしさはどうすることもできなかった。しかし、これもアスランが言うように、「ラスクは、何かができないと一緒にいちゃいけないと、そんなことを言う」人ではない。かくして、ヤマトはラクスにただ助けを求めればよかったのだ。そして、その前提にはコミュニケーションが欠かせない。ケアの倫理。前半のヤマトとラクスの夕食の、あるいは睡眠時間のズレは、そのままこの「コミュニケーション不足」に、ヤマトがシン・アスカやルマリナ・ホークに後衛守備だけ任せ自分だけが前線で戦うスタイルが「一人で抱え込むこと」を示唆している。

 

この以前のヤマトとラクスの関係と同様、克服すべき対象として描かれるのが、タオとイングリッド・トラドールである。遺伝子操作の力に溺れ自由あるいは人の意思の力を信じずただ優秀なつがいとして優生学的に設計された事実にすがり、自分の本当の意思を欺き続け、なぜか優秀なはずなのにラクスに相手にされなかったことから承認欲求に駆られ、ラクスに執着し、ラクスの意思を決めてかかり、トラドールの好意にも気づけなかったタオは、トラドール共々戦死するが、最後、トラドールが「私はそばであなたを見てました」と伝え、それを受け入れてから死ぬのは救いだったか。承認欲求、存在証明は、優生学的な優秀性ではなく、愛がないとダメで、しかしその愛には、優生学的な条件などないのである。優生学的な価値評価を人間関係における絶対的な指標として見る視点を強固に内在化しているタオらのような人間は、2024年1月現在の日本にも沢山いる。経済的価値(しかも往々その経済的な評価すら偏狭な視野に依拠している)に全ての価値、殊に人間関係での承認をも織り込もうとする新自由主義的思考様式に囚われた人間であり、そういう人間は、本来価値評価になじまない、人の価値を、必要性でしか測定できない。まさにタオやトラドールがラクスに告げたように。しかし、それは間違いなのである。全ての価値が経済的価値に還元されるわけがない。「必要だから愛するのではないのです。愛するからこそ必要なのです。」

 

「優秀なはずの自分が自分の好きな人に振り向いてもらえないのはおかしい!」から「優秀でないあいつが自分の好きな人に好かれているのはおかしい」という主張まではほぼ一直線である。そして、この主張は、愛の条件に優秀性は入っていない以上、端的な誤りである。指標が違う複数の価値が世の中にはあるのだ。

 

かくして、ラクスはヤマトと共に戦場に出て、その手を平和のための血に染めるという決断をする。遺伝子操作による調和のとれたハーモニーの世界(伊藤計劃『ハーモニー』かよ)ではなく、自由な、しかし失敗も悲惨もある世界へ(『地球外少年少女』の主題でもある)その自由な世界で、対等なコミュニケーションにより、男の側が女の側に助けを求めてもよい。早く男性性から降りて、周りを頼れ。ディスティニーを超える関係構築の話は、『輪るピングドラム』の主題である。