人文学と法学、それとアニメーション。

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名前と媒介性――『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』評註――

0、三つ葉の結び目 

 

 本作はフィクションであるから、イザベラがヴァイオレットと「牢獄[1]」たる女学校(さらにはそこに放り込んだヨークの父)から逃亡し、テイラーに会いに行き二人で暮らす、というシナリオだって作ろうと思えば作れる。しかし、それはできない。その限界ラインが本作の設定したリアリティ、所与なのである。このことは、「二人でどこか遠くへ行こうよ」と言うイザベラに対し「どこへも行けません」と返すヴァイオレットの会話から把握できる。

 

 なぜか。ヴァイオレットの「二本だとすぐほどけてしまいます」「三本ならばほどけないのです。」この発言が鍵となる。イザベラはagent(あるいはletter)といった媒介なしにはテイラーとコミュニケーションが取れない。ここで解けることを拒否する三者関係の構築がテーマとしてせり上がってくる。

 

 これが本作の設定する課題である。単にイザベラとテイラーの間にbona fidesを作ればよい、というだけではない。2個人間でbona fidesを作出することだって難しいのに、それが3人になるのだから、課題はより高度になる。つまり、イザベラとテイラー2人の間にagentたるヴァイオレットが入り、イザベラ‐ヴァイオレット関係とヴァイオレット‐テイラー関係の双方をbona fidesで繋ぎ、その上でイザベラ‐テイラー関係をbona fidesで繋がなければならない。この達成がヴァイオレットに、あるいはイザベラとテイラーとヴァイオレットの3人に与えられた課題なのである。

 

 

1、roll: 交換の秩序からの距離

 

 本稿においても、これが人間同士の関係を描くアニメーションであり、自然ドキュメンタリーなどではないことをまずは確認しておく必要があろう。そしてこのアニメーションはあるべき人間関係について描くものであることが一回見れば明らかである(イザベラ、テイラー、ヴァイオレットの三者の関係は好ましいものであろう)。

 この物語の主題は、イザベラとテイラーという二人の離れ離れになってしまった姉妹の絆を、ヴァイオレットが再び繋ぎなおすというところにある。

 もっとも、その絆は巷の義理人情(つまり見返りを期待している利他にみせかけた利己、あるいは利己と利他の融解・未分離)というわけではない。むしろ真逆であり、それは西洋古典伝統の独立した2個人間における高度な信頼関係(bona fides)であると同定できる。

 物語は、大きく分けてイザベラ‐ヴァイオレットパートとヴァイオレット‐テイラーパートに分かれるが、以上の2つのbona fides構築をするという構造を反映してヴァイオレット・テイラーパートではイザベラ・ヴァイオレットパートをちょうど折り返したような行動(ヴァイオレットが何かを教える、一緒に入浴・シャワーを浴びる、一緒のベッドで寝る、ヴァイオレットの両手を取り「ありがとう」と言うなど)が執拗に繰り返される(réputation)。イザベラ・ヴァイオレット間でbona fidesを構築したのと同じようにヴァイオレット・テイラー間でもbona fidesが構築できていることの明示である。

 イザベラ・ヴァイオレット間でのbona fides構築は、イザベラとヴァイオレットの別れ際の「お代はいただけません。なぜだかわからないのですが、いただきたくないのです。」から明らかであり、これは実は先の

 

 イザベラ「君の髪ってビロードみたい。高く売れそう。」

 ヴァイオレット「売るんですか」

 イザベラ「ううん。売らない。」

 

 というやりとりの繰り返しである。

 奇しくも、髪の単位は「枚」、すなわちrollである。rollはrole、つまり役割を表す語と同じ語源(rot: 回転の意)を持つが、2人とも、2人の関係をいわゆる経済的交換にしたくないのである。しかしそれは義理人情(単純な社会的交換)でもないのである。

 

 

2、role: 交換不可能なもの/交換の前史

 

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズは、主人公が手紙を代筆する自動手記人形(ドール)であることから明らかなように、「手紙」による間接的な、媒介的な、そしてそれゆえにこそ丁寧なコミュニケーションが通奏低音として流れている(だから「普段は言えない心のうちも、手紙なら届けられるのです」とヴァイオレットはよく言うのである)。

 

 「手紙」は自筆の場合は書くことで、そして自動手記人形に依頼する場合には自動手記人形とのやり取りで、必然Critiqueが生じる。この媒介により生じるCritiqueこそが丁寧なコミュニケーションの鍵であり、それがひいてはbona fides構築のための鍵になるのである。

 

 そして、このような媒介的なコミュニケーション、つまりCritiqueを、あるいは想像力を伴う関係性は、何も「手紙」だけによって行われるわけではない。テイラーが肌身離さず持っている汚いクマのぬいぐるみ。ヴァイオレットの緑のペンダント。イザベラがデヴュタントで着用していた衣装や赤い宝石。すべて「だいじだいじ」なのであり、それは翻って物ですら大切にできるのなら人ならばなおさらである、ということを示すとともに、それらの物の想起させる無数の思い出、そしてその思い出の中でその人に「だいじだいじ」にした/してもらったという記憶を想起させるのである。

 

 あるいは、ヴァイオレットの義手である。「イザベラ様は私に初めての“友達”をくださいました。また、手をつなげば心が温かくなることも教えてくださいました。」ヴァイオレットの義手に温感センサーがついているという描写はない。したがって、ここでの「温かくなる」は(直前に「心が」とついていることからある種明らかではあるが)イザベラとの肉体的接触によりイザベラの体温が伝達する、ということを言っているのではなく、イザベラがヴァイオレットの手を取る、その行動からヴァイオレットへの信頼を読み取ることができる、ということを言っているのである。デヴュタントにおいても、イザベラとヴァイオレットはずっと手を取りあってはいるが、しかし、直接相互の肉体には触れていない。イザベラが、(ちょうど『リズと青い鳥』の希美とみぞれの生物室での描写を想起させるような夕暮れの中で)ヴァイオレットに告げたように、「君と僕とは全然違う」のであり、これはイザベラとヴァイオレットが截然と分離された2個人であることの示唆である。

 

 

3、end roll: 名の役割/終わり(end)の繰り延べ、その永遠性

 

 そして、「手紙」「ぬいぐるみ」「宝石」などの物、さらにはヴァイオレットの義手と並んで、本作の媒介コミュニケーションの中で極めて大きな比重を占めるのが「名前」である。

 

 劇中で2回出てくる黒背景に白抜きの字幕で「寂しくなったら名前を呼んで」と「君の名前を呼ぶ それだけで二人の絆は永遠になる」。また、2人の手紙でのやり取りも「エイミー これはあなたを守る魔法の言葉です」「だから私はテイラー・バートレット。エイミー・バートレットの妹です」というものである。エイミーとテイラーは自由には会えないが、互いの名前を呼ぶことだけでも相手を大切に思い、そして周りの人間にも優しく振る舞えるのである。

 

 そしてイザベラの認識では「僕の家柄しか見ていない」ミス・ランカスターが、デヴュタント後に「アシュリーとお呼びくださる?」とファミリーネームではなくファーストネームで呼ぶように申し入れてきた描写も(その直前の「私、家柄なんて関係なく、あなた自身とお話をしてみたかったの」という発言と相俟って)、名前(あるいはその呼び方)の喚起する2個人間における親密な関係性の描写である[2]

 

 「氏名は……人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であ」る(最3判昭和63年2月16日民集42巻2号28頁)という一文を想起せざるをえない。先に述べたように、名前が象徴するものは人格に限られない。過去の思い出やそのときの感情だって名前により想起されるだろう。ヴァイオレットのヴァイオレットという名前はかつてギルベルトが他の多くの思いやりと同時に与えてくれた名前である。

 

 放火殺人事件後、被害者の「実名」公表・報道を巡って揺れた京都アニメーション。その事件後一作目が「名前」を主軸とし「永遠」を副題に持つこの作品であったのは間違いなく偶然だが(本作完成は事件の前日である)、藤田春香監督が通常は表示されない1年目未満のスタッフの「名前」もエンドロールに出すことを希望したのはこの作品の監督の選択としては必然だったと思われる。そして、この作品はある意味作品外の事情が生じたことでエンドロールをも事後的に作品本体に取り込んでしまったのだとも言える。毎回茅原さんの「エイミー」が流れエンドロールが始まったらどうしても涙が出てしまう。そこに映る今はもういない人たちの「名前」を呼ぶ、それだけで彼ら/彼女らが「永遠」になることを願って。

 

※本稿はアニメクリティークvol.4.6(アニメクリテイーク刊行会、2019年11月。なお、同vol.10に再掲)に寄稿した拙稿(フクロウ「名前と媒介性――『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』評註)を編者の許可を得て転載したものである。作成にあたってはアニメクリテイーク刊行会編集のNag(@Nag_Nay)さんに助言と加筆修正をいただいた。この場で感謝申し上げる。もちろん、それでもなお残る文章の至らなさは全て私の責任である。

 

[1] デヴュタントの際にイザベラが見上げた天井に描かれた青空に舞う1羽の白い鳥はイザベラである。イザベラはテイラーと一緒に居たときには2羽で並んで空を飛ぶ白い鳥=自由かつ連帯していた。牢獄たる全寮制女子校に入ってもなお白い鳥には違いないが…それは天井に描かれたニセモノの空しか飛べない鳥籠の鳥に過ぎない。ヴァイオレットと共に過ごし、友を見つけたことで自由になった気になっていたが、それは幻想に過ぎなかった。現実のイザベラがヴァイオレットとどこかに行こうと言い空に手を伸ばしたときには木々の緑に遮られ青空は見えなかった。対してデヴュタント入場前に並び立つヴァイオレットとイザベラ(さらながら新郎新婦=自由な2個人の連帯である)のバックには無数の鳥が現実の空を飛んでいた(さらには、テイラーが冒頭に登場した際に海鳥の多く飛ぶ青空に手を伸ばしているシークエンスも現実の空でありこちら側である=テイラーは自由になれた)。これと天井に描かれたニセモノの空に舞うニセモノの1羽の白い鳥は対比関係にある。だから天井の鳥を見つめた後、イザベラは自身の現況を再認し自嘲するのだ。

[2] 本作のもう一つの主題である女性差別への批判の観点からするならば、女性は小さいときは家長の名字(ヨーク)を名乗らざるをえず、結婚後は夫の氏を事実上名乗らざるをえないこと(ネビル)に対する批判もあると考えられるが、本作における女性の解放の話は本稿の主題ではないためここではこれ以上踏み込まない。エイミー(イザベラ)、テイラー、ヴァイオレットの3人が孤児になり貧困に喘いでいたその理由は戦争であり、つまり戦争のしわ寄せが女性の子供に行っているという背景についても同様にこれ以上は踏み込まない。