1 社会
人間社会の基本的基盤は集団、徒党である。
徒党形成の鍵は贈与交換(échange)である。
2以上の集団間で財やサービスを恒常的にやったりとったりし、損得を曖昧で不透明な状況にしておくというものである。
この徒党、集団、あるいは社会が、個人を追い詰める。
個人の従属や服従を要求し、ストレスを与え、それを拒む者を徹底的に追い詰める。
時には、個人の内心にまで入り込み、自己犠牲を自発的に行わしめたりする。
その遍在性からいえば、これは病理ではない。
常態である。
学問・芸術(特に人文学)、アニメーション、憲法の人権規定、全ては反徒党、反集団、反社会の共同戦線に立っている。
学問・芸術は、社会を基盤にとる時の政治権力との間での戦いに常に敗北し続けてきた。
それは、「今度は負けないからね」、「次こそは必ず」の積み重ねであり、よりまともな明日、すなわち理想を願った過去の人々の願いの継受と、素晴らしい未来を作ることである。
大切な人を守れなかった、あまりにもあっけなく、無残に死なせてしまった、
そのどうしようもない後悔や懺悔の総体。
反省(顧みること)の積み上げ。
そのためには、過去の事実がきちんと確定される必要がある(歴史学の役割)。
私がもう少し頑張っていれば、彼は、彼女は、今生きて目の前にいられたかもしれない。
彼や彼女らのパートナーや子どもたちと今も幸せに過ごせていたかもしれない。
できることなら時を巻き戻してやり直したいという切実な願い。
しかし、それはどれだけ願ってももう叶わない。
憲法の人権規定の目的も、学問・芸術と同様、理想の実現にある。
アニメーション、ことに京都アニメーションが作り、作ってきたアニメーションもまた、かかる理想を共有している。
徒党は、あるいは権力は、反省を嫌う。
自分たちの全能性を感じていたいからミスは認めたくないし、
人を支配し服従させるのは気分がいいし、
自分が支配する集団が大きい方が権力が大きくなるため、
なるべく多くの味方を贈与交換によって生み出そうとする。
常識に逆らい、社会通念に逆らい、国民感情に逆らい、人々の自然な感情を逆撫でする理念を提示する憲法の人権規定の観念体系はシンプルに狂気の沙汰のようにしか見えない。
しかし、それが、今日まで受け継がれ、往々破られる場面はあるものの、実定法として概ね保障され、実際に裁判所が国家権力を統御しているのを見るにつけ、これは人類が成し遂げた一種の奇跡なのではないかと思う。
権力組織を実定憲法で封じ込めるのと同様の強制力はないものの、学問・芸術やアニメーションにおいてもかかる観念体系が発明され、今日まで受け継がれているのは、同じく奇跡であろう。
学問・芸術、アニメーション、憲法の人権規定は徒党という、歴史や社会のメインストリームの伏流に位置する。
2 歴史
山田尚子監督が2021年9月放映というこのタイミングで監督作品を作っていたということについて、京都アニメーション放火事件という文脈は外せないように思う。
既に事件前から、京都アニメーションを去ることが決まっており、また事件前から『平家物語』の監督が決まっており、既に企画がそれなりに動き出していたとしても、である。
2016年の『聲の形』では硝子が死ぬ、あるいは将也が死ぬという結末が十分にあり得た。
現に原作の大今良時が、読み切り連載時には、硝子が飛び降りて自殺し、将也がそのことを考える話にするつもりだったと書いている。
フィクションだったので、あるいはフィクションだったからこそ、悲劇は回避できた。
他方、2021年の『平家物語』では、物語とはいえベースが歴史であるから、平家一門の多くに訪れる非業の死、つまり悲劇は回避できない。
いかようにでも動かせるフィクションの中の事実と、動かせない歴史的事実。
2019年7月18日は歴史的事実となり、不動点になった。
山田尚子は、あるいは京都アニメーションは、もはや2019年7月18日を動かせない。
2019年7月18日の悲劇が起きなかった世界を描くことはできない。
現実に悲劇が生じると、我々は悲劇が起きない世界に至るための分岐点を探そうとする。
どうすれば防げたかを考える。
これは願いである。
しかし結局、過去は変えられない。
変えるとすれば未来しかない。
起きてしまった悲劇は定義上防げない。
しかし、これから起きる数多くの悲劇は防ぐことができるかもしれない。
大きな期待は禁物だ。
しかし、それでも。
歴史的事実とその犀利な分析は、幾許か心許ないものの、その手がかりを示してくれる可能性がある。
3 事件
青葉もまた、我々京都アニメーションのファンと同じように、徒党に対峙し、こちら側で連帯していた、小さな個人だったのだと思う。
そして、ともすれば連帯から切れかかったところで、その精神がなんとか切れないように、京都アニメーションの作品で繋ぎとめていたのだと思う。
私のように。
そうでなければ、京都アニメーションの作品は見ないだろうし、あまつさえ、京アニ大賞に応募したりはしないだろう。
何らかの文学作品を書いたことがある人ならわかると思うが、文学作品というものは何とか読めるものをひととおり完成させるだけでも大変である。
そこに、刑務所の中で苦労して書いた作品であろうこと、
大好きな京都アニメーションへの投稿であろうこと、
社会から孤立しつつある中での起死回生の一手だったであろうこと、
こういったことから、
「これで落ちたら人生おしまい」という強迫観念を持っていたとしても、不思議はない。
にもかかわらず、自身の期待と裏腹に落選してしまった。
自分の作品とほんの少し被った作品を見て自分の盗作だと思ってしまった。
文学作品を書いて何かの賞に応募し、そして落選したことがある人間であれば、その後たとえば選考委員が似たような作品を出したりすれば、「あれは俺の盗作だ」と思ってしまった、言いたくなってしまったこともないではないと思う。
いや、もとより客観的に似たような作品かどうかが問題なのではない。
その作品にほんの少しでも自分の作品と類似する要素があったならば、
それは一定の、しかしある程度高い確率で主観的に盗作として認識してしまう。
自分の応募作について、自分自身が素晴らしい作品である、唯一無二の作品であると期待をかけていればいるほどにそうである。
これは、確かに認知がゆがんでいる。
しかし、ことさら青葉に特有のものではないように思う。
創作者ならば誰だって一度は通る道であろう。
ただ、それを認識し、矯正する機会に恵まれなかったというだけのことなのだ。
それらが少しづつ積み上がったその先に、
自分の人生に落胆し、京都アニメーションに絶望し、スタジオに放火し、スタッフを殺傷しようと考えたことは、不自然なことではない。
盗作であるという誤解があったとしても、普通は人を殺そうとは思わないこと、
それは確かにそうなのであるが、
しかし、盗作を理由とする殺人はありうることではある。
ただ、犯行動機が青葉の一方的誤解であることが、あまりに悲劇的である。
もっとも、この誤解は本来解きえたものではある。
しかし、青葉にはもはや誤解を解こうという気力はなかったのであろう。
解いたところで出てくる事実は、単に自分の自信作が落選した事実だけである。
これは、もはや、孤立した窮境において、最後まで隣にいてくれたからこそ、その隣人にしか憎悪を向けられなかった、そういうような話に思えてならない。
そして、そうであればこれは、今の政権与党がわかりやすく例示している徒党の側が、小さな孤立した個人各々を追い詰め、悲劇に至る線路を敷いた、内ゲバであるように思われてならない。
弱い者がより弱い者に、より濃縮されより先鋭化された憎悪や暴力を向けていく。
そしてときには、最後まで支援してくれていた身近な人に憎悪や暴力を向ける。
この構図は、「津久井やまゆり園」における殺傷事件でも、
登戸の小学生女子殺傷事件でも、
あるいは秋葉原での通行人殺傷事件でも、
繰り返されてきた構図そのものではないか。
何度も何度も何度も繰り返されてきた構図である。
4 死刑
八田社長は、放火された建物を所有する法人の代表者であり、死亡した三十六人、負傷した三十三人の雇用者でもあるから、青葉の情状判断の証人としてまず間違いなく法廷に呼ばれるだろう。
八田社長に、第一スタジオに放火し、家族同然の社員を一方的な思い込みで三十六人殺害し、三十三人負傷させた青葉を、本気で死刑から救って欲しいのである。
ここで私が言っていることは、もちろん、青葉はどうせ死刑なのだから、だったら京都アニメーションはポーズだけでも死刑反対といっておけばいいのに、という話ではない。
誰がどう考えても死刑になるほかないからこそ、そして自分たちが一番青葉に憎しみを抱いて当然の被害者だからこそ、京都アニメーションには、八田社長には、青葉の死刑に反対して欲しいのである。
もちろん、青葉を許す必要はない。
死刑にしないことと、許さないことは両立する。
許さなくても、死刑を求めないという選択肢はありうる。
「なんでウチなのか。なんでウチの社員なのか。憎くて憎くて仕方がない。でも、それでも青葉の死刑には賛成できない。今まで作ってきた作品を、そして犠牲になった彼ら彼女らの思いを、裏切れない。」、と。
単純に法律の範囲内だから、といって、極刑たる死刑が科されることを普通のこととして見過ごしてはならないと思う。
殺人で贖罪はできない。
死んだ人は絶対に帰ってこない。
原理的に贖罪はできない。
一人でさえそうなのに、
三十六人も犠牲になった。
負傷した三十三人の中には、四肢切断や火傷による外貌醜状が残った人もいる。
青葉は一生この責任からは逃れられない。
たとえ死刑が回避されたとしても、
青葉自身が自分を心底許せる日はおそらく来ない。
だからこそ、死刑を科す必要はないのではないか。
もう絶対に許されないのだから。
青葉に死刑を科すこと、それは事件に関わる死者の数を、三十六人から三十七人にすることでもある。
死刑は、徒党の象徴である。
そのことは、オウム真理教関係事件死刑囚の一斉死刑執行における、
さながら「祭り」のような過熱報道と国民の熱狂に記憶に新しい。
私自身もやや興奮気味に報道を見ていた、
正義の権力が一方的に強大な力で悪人を殺すというエンターテイメント。
パンとサーカスは伊達ではない。
死刑は権力による暴力の極致であり、ゆえに「野蛮の遺風」(最1判昭和24年8月18日刑集3巻9号1465頁)の象徴に他ならない。
国権がそのような暴力の極致、野蛮の遺風といった象徴性を帯びるとき、果たして、国民ひとりひとりの意識に影響が及ばないなどということがありうるだろうか。
死刑は集団間での復仇の制度化である。
背景には部族の贈与交換がある。
やられたのでやりかえす、である。
それはもらったのでおかえしをするという贈与の、ちょうど矢印を反対にしたやりとりそのものである。
だからヤクザは報復と手打ちが大好きなのである。
そして、それはヤクザに限らず、人にとって極めて自然な感情である。
親近者が殺されれば、犯人に同じ目に遭ってほしいと願うのはとても自然な感情である。
道徳的、倫理的に正しいことですらあるかもしれない。
しかし、それだけがとりうる選択なのではない。
それはおそらくよりよい未来の作出に役立たない。
死者はもう戻ってこないのだから、
生き残った我々に死者のためにできることがあるとすれば、
それはよりよい未来を作ること以外にない。
現代日本の刑事裁判は個人責任を問う場である。
当然、青葉は刑事責任を問われ、そして三十六人の死者という犠牲者の多さの点だけから見ても、まず間違いなく死刑になるだろう。
しかし、青葉一人を吊るして果たして何になるだろうか。
将来の悲劇を防げるだろうか。
なぜイエスは右頬をぶたれたら、左頬も差し出せと言ったのか。
ともすれば「お花畑」だと嘲笑侮蔑されそうな、
しかし、
その真の意味。
それこそがリアリズムなのではないか。
軍事力がなければ抑止できない、憲法9条は国際政治の「リアリズム」を理解していない。
そこで言う「リアリズム」は、
本当にリアルなのだろうか。
それはある特定の偏狭で特殊な意味なのではないか。
「青葉にただの死刑は甘い。最も苦しむ形で、残虐に焼き殺せ」、と言うファンの気持ちはわからないではない。
「どうしてこんなひどいことができるのか」と憤るのがむしろ当然である。
しかし、ファンが青葉への憎悪を持つに至ったのは、京都アニメーションの作品を、そしてまたその作品を作ったスタッフを愛していたからだろう。
であれば、自分たちが愛してきた京都アニメーションの作品やスタッフの思いを裏切ってはならない。
それらと照らし合わせたときに自分の言動が誇れるものか顧みるべきだと思う。
少なくも、自身の怒りにまかせ残虐刑を求めることは、京都アニメーションが提示し、そして実践してきた理念とは大きな齟齬があるのではないだろうか。
5 理想あるいは未来
理想を描いてきた京都アニメーションが、その自身が示してきた理想を裏切らないで欲しい。
理想とは、自分や味方がやられたからといって、やすやすと捨てていいものでも、捨てられるものでもない。
私は、『聲の形』に理想を見た。
これは実現可能なのですよ、というメッセージを受け取った。
救われた。
硝子か将也どちらかは必ず死ぬ、それが現実である。
現に毎年何十何百人といじめで自殺している。
しかし、『聲の形』が描ける、
すなわち、こういう奇跡はあるのだと、
ありうるのだと、
そして、
あっていいのだと、
不条理な現実に立ち向かえるかもしれないのだと、
教えてもらった。
どうか、そこで提示した理念を裏切らないで欲しい。
どうか、その奇跡は実現可能なのだと示して欲しい。
その夢を見せた責任を取って欲しい。
事件の翌日、2019年7月19日。
まさに日本社会を変えうると期待をかけ、そこに希望を見た京都アニメーションがピンポイントに放火され、数十人の、身元判別すらできない死者が出ている。
ただでさえ時の政治権力、徒党に勝つのは困難で、日本の経済状況、社会状況も悪化し、余裕がなくなり、人心も荒廃していく困難な状況の中で、よりにもよって象徴ともいえる場所が残虐な仕方で攻撃された。
これは、私の心を折るのに十分であった。
しかし、まだ、諦めるには早いぞと。
まだやれることはあるのではと。
それを事件の翌日に伝えてくれたのが、『天気の子』であった。
一度は流されて陽菜をみんなの犠牲にする選択をした帆高でも、
陽菜を助けていいいのだと。
そして、今からでも陽菜は助けられるのだと。
大丈夫。
そう、我々の戦線は常に敗北からはじまるのであった。
我々は常に敗者の側なのであった。
果たせなかった。
救えなかった。
これからも悲劇は起きる、起き続ける。
しかし、それでも。
次こそは。
***
しかし、そのために必要な第一歩は、青葉を死刑台に送ることではないだろう。
それどころか、それは後戻りに向けた一歩になりかねない。
もちろんフィクションはフィクション、現実は現実である。
だから、京都アニメーションはフィクションとして素晴らしい理想を描くが、反面、現実は現実なので党派性を帯びかねない政治活動は行いたくないし、行わない。
特に死刑制度の存否という極めて政治的な争点に対して明確な意思表明はしたくない。
そういう考え方はよくわかる。
しかし、そんなに都合よく切り替え可能だろうか。
フィクションの作り手が、
スタッフが、
ファンが、
フィクションの力を、
フィクションによって考え方は変わるのだと、
フィクションによって現実は変容できるのだと、
信じないで、一体誰がフィクションを信じるというのか。
他ならぬ京都アニメーションがフィクションの力を信じないでどうするのか。
八田社長が、証人尋問で、青葉の死刑を積極的に支持する、あるいは今まで出された声明のように現行法の枠内での最大の刑罰を望むといった形で消極的にであれ支持するとすれば、それ以降、私自身が京アニ作品を楽しめなくなるかもしれない可能性があるととても怯えている。
フィクションはフィクション、現実は現実と、そううまく切り替えられる自信が私にはない。
言行不一致は「肉体文学から肉体政治まで」(丸山眞男)の日本社会で珍しいことではない。
しかし、どうかそれを他ならぬ京都アニメーションがしないで欲しい。
彼ら、彼女らが作ってきた作品を、
京都アニメーションが作ってきた作品を、
これから作る作品を、
そしてファンが信じてきた作品を、
どうか、嘘にしないで欲しい。
どうか、信じさせて欲しい。
どうか、フィクションは現実を変えられるのだと示し続けて欲しい。
青葉に死刑を望む姿勢は、京都アニメーションがこれまで作ってき、いま作り、そしてこれから作っていく作品の姿勢や提示する理念と絶対に相容れない。
そして、その姿勢や理念は青葉に刑責を科す、その瞬間にこそ問われている。
日本社会の現実に対抗できる拠点はここ、京都アニメーションにしかない。
過剰な期待であることも理解している。
それでも、
願わずにはいられない。
どうか、
どうか、
どうか、