人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

ただ、隣に立つことを──成島出監督『52ヘルツのクジラたち』評註

これは今、なるべく多くの人に観てほしい映画。

 

2024年日本の『アンティゴネー』と言ってもよい作品。

 

こんなことは、もう繰り返しちゃいけない。

 

書いていてハッと気付かされたが、「信仰」も「性自認」も目には見えないという共通点があった。

 

いやー、しかしこう、「自分は相手を好きだが、相手は自分以外の人間が好きなので、相手の意思を尊重して身をひく」系統の話(たとえば末期ガンとか)かと思いきや、「自分は相手を好きだが、自分はトランスジェンダー(MtF)だから相手を幸せにできない、だから身をひく」という話だったとは。

 

児童虐待モラハラDV、ヤングケアラーに共依存など、トランスジェンダーも含め、「声なき声」あるいは「聲なき聲」がかき消される社会から、ようやく声をあげられるようになりつつあるのが、2024年日本社会の現在地かもしれない。

 

同じく杉咲花が主役を演じた『市子』とも共振する。

 

また「娘でも息子でもいい。ただ生きていて欲しかった。」は、『ミツバチと私』とも共振する。

 

『映画 聲の形』における、花火大会の直前、浴衣姿で日が暮れつつある空を一人でぽつんと眺める西宮硝子を背後から撮影した3秒長回しの異様なショットが入る。一番最初の堤防に一人でぽつんと佇む愛を背後から撮影したショットは、同じ意味を持つのだと思う。

 

さらに、予告でも出てくる「新しい人生を生きてみようよ」の話と、「新しい名前」が絡むこと(きなこ、あんご、いとし)は、人格の象徴として名前が持つ重要な価値(「名は体を表す」)を髣髴とさせる。それは、一方で『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が「武器」と呼ばれた少女に大切な人から与えられた「ヴァイオレット(スミレ)」の名前、「その名が相応しい人になる」ことを描いた作品であったこと、そして当該シリーズの当時の最新作『永遠と自動手記人形』が、まさに「名前」の公表を巡って揺れた京都アニメーション放火殺人事件後初の公開作となったことと、緩く連帯する関係にある。もちろん、名前の人格象徴価値の話は、現在第三次訴訟が進行中の夫婦別姓訴訟で扱われている問題でもある。

 

アンさんが繋いだきなこが愛を助ける。この構図はよく見るが、近時だと『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』のメイおばさん、あるいは『Sonny Boy』最終話のツバメの雛を既に救っている希、あたりが思い浮かぶ。