人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

「現実」を観てないのは誰か?──石井裕也『月』批判

本作の感想を目にした。案の定「深い」とか「重い」とかの定型句に「考えさせられる」という定型句を繋いだ感想が予想どおり散見され、「一生考えてろ」とキレ散らかしている。そもそも、相模原障害者殺傷事件があったやまゆり園は森深くに隠されていた施設ではなく民家の隣にあった。初手から誤導だと思う。二階堂ふみが「都合の悪い現実は隠されるんです」と言ってるが、本作で隠されている都合の悪い現実は、やまゆり園が森深くではなく民家の隣にあってしまうことではないか。様々な撮影編集手法を駆使し、端的に脚本で「現実」を捻じ曲げて、バイアスを思いっきりかけた上で、「さとくんが障害者の殺害に至ったことを我々は非難できないよね?」と、観客の内なる優生思想、意思疎通ができない障害者は殺されても仕方ないという「さとくん」の思想に誘導するような、宮沢りえ宮沢りえの対話をさせるのもどうかと思う。ひろゆきレベルの拙劣な自己問答で誘導をかけるんじゃない。こういう方向に誘導しようとする映画は、はっきり言って障害者差別の固定化、分断の固定化を促進し、ともすれば危害を加えることさえ正当化しかねないプロパガンダになりうる。そういう危険を製作側がどれだけ自覚しているか甚だ疑問である。

 

本作の鑑賞にあたっては、以上の問題を十分踏まえたしっかりとした批評や、相模原障害者殺傷事件のルポライトや裁判記録、実際の事件を扱ったたとえば立岩真也の障害者殺しの系譜を踏まえた論考などを読むべきであり、映画単体だけ観て済ましたり白地から考えたりするのは危険である。そうすれば、根源的解決はともかく、「今、なぜあなたに殺す権利があるのか?」(立岩真也)は問えたはず。

 

一点だけ──ただ一点だけ──「おお」と思ったのは、死刑囚の死刑執行時の首の骨が折れる音や糞尿を漏らすかどうかについての噂が「現実」だとされるが、でもそれが本当に「現実」なのか我々はわかってないんじゃないか、という点。死刑の運用については秘匿性が極めて高いので情報公開が必要。

 

こういう、実際にあったショッキングな事件をベースに作りました、しかし、文学的昇華はおよそできていません(ドキュメンタリーの方がマシ)みたいな作品を観ると怒りがふつふつと沸いてくる。

 

本年6月の『ルックバック』も、最初の公開以降の批判や修正の経緯が経緯だけに、こうならないことを祈っている。

ただ、隣に立つことを──成島出監督『52ヘルツのクジラたち』評註

これは今、なるべく多くの人に観てほしい映画。

 

2024年日本の『アンティゴネー』と言ってもよい作品。

 

こんなことは、もう繰り返しちゃいけない。

 

書いていてハッと気付かされたが、「信仰」も「性自認」も目には見えないという共通点があった。

 

いやー、しかしこう、「自分は相手を好きだが、相手は自分以外の人間が好きなので、相手の意思を尊重して身をひく」系統の話(たとえば末期ガンとか)かと思いきや、「自分は相手を好きだが、自分はトランスジェンダー(MtF)だから相手を幸せにできない、だから身をひく」という話だったとは。

 

児童虐待モラハラDV、ヤングケアラーに共依存など、トランスジェンダーも含め、「声なき声」あるいは「聲なき聲」がかき消される社会から、ようやく声をあげられるようになりつつあるのが、2024年日本社会の現在地かもしれない。

 

同じく杉咲花が主役を演じた『市子』とも共振する。

 

また「娘でも息子でもいい。ただ生きていて欲しかった。」は、『ミツバチと私』とも共振する。

 

『映画 聲の形』における、花火大会の直前、浴衣姿で日が暮れつつある空を一人でぽつんと眺める西宮硝子を背後から撮影した3秒長回しの異様なショットが入る。一番最初の堤防に一人でぽつんと佇む愛を背後から撮影したショットは、同じ意味を持つのだと思う。

 

さらに、予告でも出てくる「新しい人生を生きてみようよ」の話と、「新しい名前」が絡むこと(きなこ、あんご、いとし)は、人格の象徴として名前が持つ重要な価値(「名は体を表す」)を髣髴とさせる。それは、一方で『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が「武器」と呼ばれた少女に大切な人から与えられた「ヴァイオレット(スミレ)」の名前、「その名が相応しい人になる」ことを描いた作品であったこと、そして当該シリーズの当時の最新作『永遠と自動手記人形』が、まさに「名前」の公表を巡って揺れた京都アニメーション放火殺人事件後初の公開作となったことと、緩く連帯する関係にある。もちろん、名前の人格象徴価値の話は、現在第三次訴訟が進行中の夫婦別姓訴訟で扱われている問題でもある。

 

アンさんが繋いだきなこが愛を助ける。この構図はよく見るが、近時だと『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』のメイおばさん、あるいは『Sonny Boy』最終話のツバメの雛を既に救っている希、あたりが思い浮かぶ。

映画とプラネタリウムの相似性──三宅唱『夜明けのすべて』評註

うまくやりたいのに、うまくやれない。

現代社会は非常に高度なコミュニケーション能力ないし素質が必要となり、その能力を欠く人間を社会の外に弾き出す。特に、長引く経済不況と新自由主義的思考様式・行動様式の浸透と自己責任言説の流布・繁茂により、その傾向は極めて強くなっている。

瀬尾まいこか、三宅唱か、あるいは双方の力かはわからないが、あまりにもうまくピースをはめすぎていて、あまりにもきれいにまとまっている。

PMSパニック障害。他人にはちょっと言いづらいが、他方で配慮がないと日常業務がままならない。そういった特性は個人の生きづらさに繋がる。あるきっかけがあり、秘密を共有するようになった男女二人。しかし性愛には至らない。そういう、ぎこちない、おそるおそるコミュニケーションをとる、そうした若者たちの、ちょっとした気遣いの話。ここまでは同じだけど、ここからは違う、そういった違いを、分断(「かわいそうランキング」トップは私の方だ!)ではなく、連帯に繋いでいく。この会話のぎこちなさや間、あるいはPMSがつらくていきなりキレたり無気力になったりする様子、パニック障害の様子は、言葉で説明するよりは映像化になじむ気はした。

PMSパニック障害も、規範的・理想的に措定される完璧な近代的個人のモデルからは外れる存在である。特にパニック障害に苦しむ青年は、それまではバリキャリで意識高い職場にいたようであり、お菓子コミュニケーションを嫌っていた。

本作もまた近時のケアの倫理よろしく、現実の弱い個人を軸にした連帯の話である。そして近親者が自殺した遺族や、母子家庭、足を負傷し介護が必要になった親の介護(介護離職)の話もまた、本作の重要な要素として描かれる。

コンステラツィオンは星と星の関係性の話だから、人間と人間の関係性、つまり人間関係の比喩としても多様される。

「髪を切りすぎる」エピソードは、ともすれば踏み込みすぎてコミュニケーションの失敗になりえたのだが、たまたま今回は二人が深いコミュニケーションをとるようになるきっかけになった。『響け!ユーフォニアム』1期のサンフェスで、北宇治吹奏楽部員の動揺を抑えるために、禁止されていたトランペットの音出しを1年であえてやってのけた高坂麗奈の賭けによく似る。

ただ、中小企業でおじさんおばさん主体でパワハラセクハラや陰口がおよそないのはある意味ファンタジーではと思わないではない(まぁそれ故に観る側の心理的安全性もまた担保されていたわけであるが。「大きな声出さないでよ…」(千早愛音))。

しかし、「明けない夜はない」という「色即是空空即是色」ないし「万物流転」的考え方から、苦しみはいつかは寛解する(希望はある)、という方向のまとめよりは、「ずっと真夜中でいいのに」の方が好みではある。社長の弟があれだけ素晴らしい言葉を残しながら、結局自殺したことには違いないのだし。

 

ただ、ラストの栗田科学のある一日の長回しショットはとてもよかった。あの直前にある子どもたちによる栗田科学インタビューの映像に、皆と一緒に朝の体操を行う藤沢さんが映っていたことと、パラレルである。

夏目漱石『それから』に言う、「自分ができあいのやつを胸にたくわえているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花の出るように、相手次第で摩擦の具合がうまくゆけば、当事者二人の間に起こるべき現象である」(夏目漱石『それから』37-38頁)、その火花が散った一瞬を捉えられるのが映画なら、星々の一瞬の瞬きを捉えられるのがプラネタリウムである。

自由・ケア・愛──『ガンダムSEED FREEDOM』評註

遺伝子操作せず誕生したナチュラルと、遺伝子操作して誕生したコーディネートという、二種類の人間が居る世界。かつてキラ・ヤマトラクス・クラインは、かつて人類の争いに辟易したデュランダルが示したディスティニープラン(全ての人間をコーディネートにし、生きる意味と役割を事前に決めることで紛争を阻止し調和の取れた平和な世界を作る)を阻止し、デュランダルを討った。現在はナチュラルとコーディネートは暫定的に停戦中であるが、本作ではコーディネートの一派がナチュラルに対し和平破壊工作を仕掛け戦争を開始する、という場面から事態が大きく動き始める。

 

実はラクスもコーディネートであり、それはファウンデーションの女王・アウラ・マハ・ハイバルの設計のたまものであって、オルフェ・ラム・タオと互いに惹かれ合い、二人で平和な世界を統治するために作られたのであった。

 

しかしラクスは、タオに魅了を感じつつも、タオではなく出来損ないのコーディネートとタオに罵られていたヤマトを選ぶ。

 

ヤマトは、デュランダルを討って、ディスティニープランを否定し、自由な世界(これがまさにタイトルのfreedom)を選んだがラクスが望む平和な世界をタオに与えられていないこと、それどころかラクスに笑顔すら与えられていないことを後悔していた。しかし、それは旧友アスラン・ザラが喝破したように、「自分のことばかり」の視点から、ラクスの内心を勝手に慮っていたにすぎなかったのだ。「どうして助けを求めない?」。ヤマトはたしかに、デュランダル殺害の責、ディスティニープランに従わない道を示す責任全てを自分一人でかかえこんでいた。やさしいから。それはラクスもわかっていた。だがそのやさしさはどうすることもできなかった。しかし、これもアスランが言うように、「ラスクは、何かができないと一緒にいちゃいけないと、そんなことを言う」人ではない。かくして、ヤマトはラクスにただ助けを求めればよかったのだ。そして、その前提にはコミュニケーションが欠かせない。ケアの倫理。前半のヤマトとラクスの夕食の、あるいは睡眠時間のズレは、そのままこの「コミュニケーション不足」に、ヤマトがシン・アスカやルマリナ・ホークに後衛守備だけ任せ自分だけが前線で戦うスタイルが「一人で抱え込むこと」を示唆している。

 

この以前のヤマトとラクスの関係と同様、克服すべき対象として描かれるのが、タオとイングリッド・トラドールである。遺伝子操作の力に溺れ自由あるいは人の意思の力を信じずただ優秀なつがいとして優生学的に設計された事実にすがり、自分の本当の意思を欺き続け、なぜか優秀なはずなのにラクスに相手にされなかったことから承認欲求に駆られ、ラクスに執着し、ラクスの意思を決めてかかり、トラドールの好意にも気づけなかったタオは、トラドール共々戦死するが、最後、トラドールが「私はそばであなたを見てました」と伝え、それを受け入れてから死ぬのは救いだったか。承認欲求、存在証明は、優生学的な優秀性ではなく、愛がないとダメで、しかしその愛には、優生学的な条件などないのである。優生学的な価値評価を人間関係における絶対的な指標として見る視点を強固に内在化しているタオらのような人間は、2024年1月現在の日本にも沢山いる。経済的価値(しかも往々その経済的な評価すら偏狭な視野に依拠している)に全ての価値、殊に人間関係での承認をも織り込もうとする新自由主義的思考様式に囚われた人間であり、そういう人間は、本来価値評価になじまない、人の価値を、必要性でしか測定できない。まさにタオやトラドールがラクスに告げたように。しかし、それは間違いなのである。全ての価値が経済的価値に還元されるわけがない。「必要だから愛するのではないのです。愛するからこそ必要なのです。」

 

「優秀なはずの自分が自分の好きな人に振り向いてもらえないのはおかしい!」から「優秀でないあいつが自分の好きな人に好かれているのはおかしい」という主張まではほぼ一直線である。そして、この主張は、愛の条件に優秀性は入っていない以上、端的な誤りである。指標が違う複数の価値が世の中にはあるのだ。

 

かくして、ラクスはヤマトと共に戦場に出て、その手を平和のための血に染めるという決断をする。遺伝子操作による調和のとれたハーモニーの世界(伊藤計劃『ハーモニー』かよ)ではなく、自由な、しかし失敗も悲惨もある世界へ(『地球外少年少女』の主題でもある)その自由な世界で、対等なコミュニケーションにより、男の側が女の側に助けを求めてもよい。早く男性性から降りて、周りを頼れ。ディスティニーを超える関係構築の話は、『輪るピングドラム』の主題である。

降りて傷ついたその先に──尾石達也『傷物語 こよみヴァンプ』評註

1 近代的個人主体から降りること

 

権力あるいは近代的個人主体から「降りること」は、そのあとの苦難苦渋を考えると、潔く「自殺」した方が楽かもしれない。

 

ちょうど『君たちはどう生きるか』の地下の「我を学ぶ者は死す」の引用元である、林房雄の短編に出てくる南京政府の元大臣のように。

 

武士の切腹、一億玉砕、そしてそれをすることこそが、「責任」の取り方なのだ、そういったヒロイズムにあこがれてしまう気持ちは、よくわかる。

 

繰り返し現れる日章旗のモチーフは、(太陽の直喩あるいは吸血鬼の換喩を超えて)まさにこのことを指摘しているのであろう(もっとも、旧三部作の総集編『傷物語 こよみヴァンプ』のOPで出てきた仏像、日本刀、そしてOP直後の桜…と観ていると、単に雰囲気でやってるわけでは?と疑問になり、そうであれば実は日章旗についてもあまり深い意味合いはなかった、それこそ太陽の直喩くらいの意味しかないと解釈することにはそれなりの説得力がある。)

 

すなわち、戦前の(あるいは戦後も継続して、というべきか。『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』が鋭く突いた。)日本の軍国主義体制における反省は、それこそ敗戦時の阿南惟幾陸軍大臣切腹や、東条英機元首相の拳銃自殺未遂、近衛文麿元首相の服毒自殺などに代表される、「責任」の取り方であった。

 

しかし、本作は、観客である我々一人ひとりに、そういったヒロイズムを捨てて、無様に生きていくことを要請している。

 

阿良々木暦が口にする、(直接にはドラマツルギーの死についてであるが、潜在的には全人類に対して)キスショットを助けた「責任」として「僕が死ぬべきだ」という意識、あるいは、キスショットの、阿良々木暦に殺されることで阿良々木暦を人間に戻すという「責任」を果たそうとしていたことを踏まえれば、吸血鬼ないしその眷属(つまりは吸血鬼であるが)には、「死んで責任を果たす」という意識を持たされている。

 

そうであれば、キスショットは日本人ではなく、外国人であることが明示され、しかもその外見や吸血鬼モチーフを踏まえれば、おそらくは西洋人であることが明らかであるにも関わらず、吸血鬼に仮託されているのは、その外見が提示するものとは異なって、戦前の日本の、そして戦後も継続する日本人の精神構造である。

 

もっとも、そのような「死んで責任を取る」ことは、実際は「責任」を取ることとは真逆の、「責任からの逃避」ないしは「無責任」(丸山真男)にすぎないことは、羽川翼が体育倉庫で阿良々木暦に鋭く説くとおりなのである。

 

「そうあれないなら死んだ方がマシである」完璧な近代的主体であることを諦めて、それでも隣にいてくれる人と、みじめで弱く醜くであれ、連帯して生きていくこと。

 

『映画 聲の形』で、自分の存在が周囲の迷惑になるからと死を選んだ西宮硝子の代わりに、しかしマンションから落ちたのは石田将也である。「自殺」は「責任」を採ることではなく「無責任」に投げ出すことの、「解決」ではなく「解決の放棄」であることが示唆されていた。

 

そういったヒーローから「降りたあと」の「連帯」構築のスタートラインが、本作のラストの、キスショットの隣に無言で座る阿良々木暦の、少し逡巡したのちの、微笑みかけなのである。

 

(近時、ヒーローの弱さ、降りる話を描く作品には枚挙にいとまがないが、さしあたり堀越耕平『ぼくのヒーローアカデミア』をあげておく。)

 

2 他者/共存

本作は、それぞれの仕方で孤独な個人(阿良々木暦、キスショット、羽川翼)が、受け容れ難い他者と、ただ「お前に生きていて欲しい」というその一点のみから、どうにか共存していく、という話である。

 

自己にとって他者とは、本質的にリスクなのである(ウルリヒ・ベック『危険社会』)。

 

わかりあえることもあるが、わかりあえないことの方が多い(しかし、だからといって悲観する必要はない。決定的にすれ違ったままでも、友達ではあれることを描いたのが2024年現在でも以前アニメーションの一つの到達点である山田尚子監督『リズと青い鳥』であった。)

 

特に、食欲や性欲を含む極めて原初的な欲求についてはなおさらそうである。

 

他方でまた、自己は一人では生きていけないのは自明であるから、他者はリスクであると同時に必要な存在でもある。

 

近代個人主義においては、依存関係の遮断が目指されるが、それは方法論的個人主義の認識が影響しているからにすぎず、現実には、個人は社会からおよそ自由ではないように、ホーリズムの視点を欠いたアトミズムは、現実を見ていないことを帰結する(小林正弥『政治的恩顧主義論』)。

 

他者から完全に自立・自律した近代的個人主体なるものは、現実には存在せず、常に誰かにはなにがしかの依存をしている。

 

そもそも、『傷物語』の話自体が、「熱血にして冷血にして鉄血の」吸血鬼・キスショットが、ヴァンパイア・ハンター3人に追いつめられ、弱々しい人間・阿良々木暦に助けてもらうところから始まる物語であった。

 

完璧で最強に「見える」キスショットが、この物語を駆動する一番最初には、他者を必要とした事実こそが、自立・自律した近代的個人主体なるものは、幻想にすぎないことを雄弁に物語っている。

 

人は、自己一人では生きていけない、根源的に他者に依存している存在である事実はまた、「人間強度が下がる」から友達を作らなかった阿良々木暦が、羽川翼のおせっかいによって羽川翼と友人となり、そして現にエピソード戦で勝利できたのは、羽川翼の(結果的に命を賭けることとなる)助言ゆえである。

 

しかし、やはりそれは同時に「人間強度が下がる」ことでもあり、現にエピソード戦では羽川翼に瀕死の重傷(というか阿良々木暦に吸血鬼の力がなければ死んでいた)を負わせたエピソードを殺すほんの一歩手前まで阿良々木暦を狂わせたし(忍野メメの介入がなければあっさり殺していただろう)、ドラマツルギー戦では(「高校生」の阿良々木暦羽川翼に対するところの)「大人」であるドラマツルギー羽川翼を拉致され、負けたと宣言しなければ殺すと脅迫されることとなる。

 

「弱点」は言い方を変えれば「リスク」である。

 

このように、「他者」は、「自己」にとって、「必要不可欠」な存在でありながら「リスク」であるという両義性を、本質的に持つ。

 

そうであるから、ラストにおける「みんなが不幸になる選択」は、実はこの「他者」が存在すること自体は認める、つまりジェノサイド等を否定し、結果として多様である現代社会のありかたそのものなのであり、「キスショット」及びキスショットの眷属である「阿良々木暦」が、人を食べるかもしれないリスク、羽川翼を代表とする「普通の人」が負うべきリスクは、我々が常日頃負っているリスクをフィクショナルに極大化したものにすぎず、本質は変わっていない。

 

むしろ、キスショットが、権力を持つ自立・自律した近代的個人主体の地位から「降りる」くらいなら、愛する人のための「死」を選びたい、という、権力と結びついたヒロイズム幻想からいかに「降りられる」かこそが、真の意味で問われていた事柄である。

 

権力や地位の外装に彩られた、しかし本当は弱い自分自身と向き合うには勇気がいる。

 

もっとも、キスショットは既に、自分が阿良々木暦を人間に戻すために、阿良々木暦に殺されるという選択を、覚悟を決めるまえに阿良々木暦と話していた自身の昔話、最初の眷属・死屍累生死郎(もっとも、この名前は『続・終物語』になるまで出てこないが)との話をし、そしてまた生死郎が自殺する前に、あるいは自殺したときに、自分が死ねなかった後悔をずっとかかえてきたこと、そしてそれはこれまで400年間眷属を作らなかったことからも明らかであること、翻ってキスショットは、確かに人間を、ドラマツルギーを殺害し食べたけれども、まだ人間の心を、さらに言えばその心の中でも他者に対しての繊細さを依然保持し続けていることが示される。

 

権力から「降りる」、しかしその後を生きていける前提条件を十分に満たしていた(だからこそ、これは結果論であるとも言えるが、キスショット=忍野忍の「降りた」後の阿良々木暦を中心とした様々な出来事との関わり合いが生まれ、元カレどころかいわば元夫・死屍累生死郎との決着もつけることができた)。

 

だから、阿良々木暦は、権力者としての、あるいは自立・自律した近代的個人主体としてのキスショットは「助けない」。

 

しかし、「助けない」ことによって、その奥の、本来の、繊細で他者をおもんぱかることができそして400年間ずっと一人の人間に対しての後悔を抱え続けたキスショットを「助けて」いる。

 

3 傷

 

傷物語』における「傷」とは、阿良々木暦の首筋に残るキスショットの二本の八重歯による噛み跡である。

 

それは、阿良々木暦がキスショットを、その意に反して殺さず、ただ権力の座から引きずり降ろしたにとどまること、そしてキスショットはかつての人間、かつての自己の眷属の血がなければ生きていかれず、依存していることを意味する。

 

この「傷」は、したがって、自立・自律した近代的個人主体が、その地位から降りて、弱さと向き合うための刻印である。

 

それは隠すべきものでも、治癒するものでもない。

 

また、その傷は決して弱者に貼られたスティグマではない。

 

本当は弱い個人が、権力から降りて、真に水平な連帯を構築するための、第一歩なのである。

縦と横、あるいは住居と階層──『コンクリート・ユートピア』評註

占有原理から持家制度=所有原理に象徴される貧富の格差を批判する作品で、特に災害時にこそその支配意識が顕在化する様を精緻に描き出す(文学は社会構造をなす亀裂を極大化しえ、それにより人々の意識を明瞭にし、可能な限りよい選択をなさしめる)。最愛の妻を守りたいがために暴力を行使する住民代表に追従し、選択を間違い続けてしまう夫は、結局マンション外部の襲撃者から受けた傷が原因で死ぬが、その死はこれまで色彩を失っていた世界で唯一カラフルなステンドグラスの下で生じる。その死はさながら人類の悲劇を背負っているようでもある。これらはその直前の妻の瞳のアップと落涙を含め、キリスト=マリアの奇跡を連想させるが、果たしてそれは、「縦のままのマンション」を死守しようとした皇居マンション(皇居マンション!笑)の住人たちとは異なり、「真横に倒れたマンション」(つまり縦の支配従属ではなく横の水平連帯)で暮らす人々の園に導く。水平連帯だから「天井が高い」!。「タダで居てもいいんですか?」と問う妻に「生きている限り、当たり前に居ていい」と返す。加えて「あそこのマンションの連中は、化け物だって噂だ。人を食べるとか?」と訊かれて、「いいえ、普通の人たちです。」と返すやりとりが、くどいようだがまたよかった。そう、皇居マンションの住人は、どれだけ飢えても、人だけは食べなかった。ただ、住人以外を武装して締め出し、規律違反に制裁を与え、だんだんカルト化していっただけであり、その根っこには、一国一城の主=有権者意識と、皇居マンションに逃げ込んできた部外者はかつて皇居マンションを見下していた隣のマンションの住人たちであったことの不信とリベンジが背景にあったわけだが、それらは全て『普通の人々』(クリストファー・ブラウニング)がなしたことなのである。

 

災害パニックジャンルに見せかけた、おそらくは現在の韓国の厳しい経済格差と居住環境による階層化(たとえばマンションの格とマンション内部での持家か借家かなどの微細な分節ラインが住民たちの意識にあることが示されている。ウァレリウス・プーブリコラの範(木庭顕『笑うケースメソッドⅡ 現代日本公法の基礎を問う』226-228頁)や、山本理顕『権力の空間/空間の権力』も手がかりになる)に対する極めて鋭い批評になっているのだが、202411日の能登半島地震でまさに現実に多数の死傷者や長引くであろう避難生活があるだけに、15日現在の日本ではちょっと薦めづらい作品ではある。

どん底の2023年日本にあらまほしきEpicureanism!──ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』評註

'Perfect days', la película de Wim Wenders que triunfó en Cannes ...

 

ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』は、2023年東京の無口で独身高齢の清掃作業員・ヒラヤマ(役所広司)の日々の暮らしをドキュメンタリー風に撮影した作品である。

 

描写の細やかさ、あるは些細な日常性(everyday communism)は、『リズと青い鳥』や『花とアリス殺人事件』にも通じる。

 

描写の細やかさについては、とくに最後に長映しで映るヒラヤマの豊かな表情や、戦闘でのたるんだ肉体の描写など、これは役所広司だからこそできたものだろうか?

 

些細な日常性は、タカシとのやりとりや、駅構内の小さなカウンター居酒屋、コインランドリー、神社の昼のランチ、ホームレスの田中泯らとの出会い。

 

そして、その細かさこそがまたEpicurianismの主題系に通じることも、このブログの読者であれば既に十分承知していることであろう。

 

hukuroulaw.hatenablog.com

 

***

 

さて、本作についてそんなにたくさんの解説は必要ない。

 

なぜなら、ヒラヤマの2週間の生活をつぶさに、朝起きてから寝るまでを、そしてたまの休みにコインランドリーに行き洗濯し、小料理屋で過ごす日々をひたすら撮影しているだけだからである。これらすべてを書くとすれば、それは2時間の映画の事実の列挙になってしまう。

 

本作の主題(というか訴えかけている価値観)はEpicreanismであろう。

 

日本版のキャッチコピーの「こんなふうに生きていけたなら」は、インターネット・SNSの発達で情報が並列化し、加えて一億総貧困化でもはや時間すら売り物にせざるを得ないタイパ・コスパなる語が流行り、情報商材ビジネスやブラックバイトが流行る嫌な2023年日本の世相において、このヒラヤマのような生き方、「虚栄を捨てて自然に生きる」(木庭顕)ことがそれなりに人間らしい生活だと訴えかけているようである。

 

本作がEpicreanismを主題に据えていると言い切れるのには、2つのポイントがある。

 

一つは、ヒラヤマがなけなしの金で育てている盆栽である。

(しかも、これは神社など野生の植物をもらってくるもののようである。)

 

二つは、ヒラヤマの妹はさながら仕事のできるセレブ然とした女社長?あるいは政治家?であり、高級車に秘書まで帯同している。このような生き方の対極がEpicureanimである。

 

ラスト、日本以外の国の人間に向けてではあろうが、どう考えてもくどい「木漏れ日」の説明が入る。

 

これは言うまでもなくラスト付近の友山(三浦友和)との影の濃さの観察実験からの影踏みであり、そのような人間関係の在り方はまさに「自分ができあいのやつを胸にたくわえているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花の出るように、相手次第で摩擦の具合がうまくゆけば、当事者二人の間に起こるべき現象である」(夏目漱石『それから』37-8頁)、という夏目漱石の捉え方に繋がる。

 

馴れ合いや支配従属ではない(世間で言う「コミュ力」は、こちらを指すことが多い)、適切な時に適切なコミュニケーションができる人間は、日ごろから自然を観察し、本を読み、いろいろと思索にふける、そういう人間である。

 

これこそがEpicureanismの理想とする人間関係である。

 

林芙美子『放浪記』の雰囲気もある。

 

***

 

最後に、これはフィクションである。

 

現実の2023年東京の清掃作業員が、現にこういう理想的な状況に置かれているという話ではない。

 

そのことは、汚物が一切描かれないことで明らかであろうが。