人文学と法学、それとアニメーション。

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小石を只管に積み上げ続けること──細田守『果てしなきスカーレット』評註

 

1 はじめに
 細田守『果てしなきスカーレット』が2025年11月21日公開された。
公開直後から自称批評家たちによる酷評が相次いでおり(もっとも、私は当日観た上に、基本的に事前に他者の判断・評価を介在させない状態でファーストインプレッション形成を行うことを信条にしているため、かかる酷評は鑑賞後に伝え聞いた次第であるが)、これまでの細田作品、特に『未来のミライ』(2018年)と『竜とそばかすの姫』(2021年)、あるいは『サマーウォーズ』(2009年)については、虐待親(しかも男親)を止めるために高校生のすず一人のみが駆け付け登場人物の誰もそれに付き添おうとしない、その申し出すらないなど異常な挙動をしていたり、保守的・伝統的家族観や男尊女卑的観念が随所に垣間見えるなど無自覚にしろ自覚的にしろ当然に批判されるべき内容を持っていたと私も考えている。
 しかし、本作『果てしなきスカーレット』にはそれはあてはまらず、むしろ『時をかける少女』(2006年)の主題系の正統発展(そして『竜とそばかすの姫』の“自己実現”の主題系の正統発展でもある)であったと位置づけることができ(だからこそPVでは宣伝で参照する過去作の起点を『時をかける少女』から19年ということにしたのであろう)、個人的には大傑作であったと評価しているところである。


正直、スカーレットに対するむごたらしい取扱いがなされたり、ある台詞と同じ言葉を連想(もはや批評家の妄想である)することで、監督が声優を性的に虐待したいというような願望が秘められているのではないか?などという妄言に対しては、「かくして、グリューンヴェーデルの名声は地に堕ちることになります。何故か。彼が解読したと言うテクストが、すべてある種の悪魔や呪術をめぐる荒唐無稽な幻想や、ありとあらゆる性的倒錯の巨大な一覧表のようなものだったからです。それは全く学術的にも常識的にも受け容れられない内容であり、グリューンヴェーデル個人の妄想を投影したものとしか考えられませんでした。今でも、エトルリア語はその一部しか解読されていません。 ですが――彼は自分の仕事が正しいと思い込んだまま死んで行きました。私を狂人扱いする学会は、私に嫉妬しているのだ、と言いつつね。どういうことでしょうか。」(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』28頁)という言葉が相応しいと思う。要は作品や監督の思想を分析しているつもりでただ自分の醜い願望(それは批評にかこつけて公然露悪的な言動をとることも含まれる)を発露させているだけではないか、と。

切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話(佐々木中) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 以下、作品内容を踏まえつつ、批評を行う。

 

2 ファースト・インプレッション、あるいは、PVからの予断
 実は事前のPVを観た感想と、今回の本体はほとんど変わっていない。

 PVに出てくる台詞で、注目していたのは以下の台詞たち。

 

聖「また闘うのか?」

スカーレット「それが私の人生だから。」

 

スカーレット「もし、別の時代に生まれていたら、今とは違う自分がいたのかな。」

 

スカーレット「どうしても復讐を、復讐を果たせなければ、終われない。」

 

聖「スカーレット、生きろ!」

 

 かつて、復讐は遺族の義務であり、復讐を成し遂げることは名誉であると同時に、それをしないことは不名誉なことであった。
 もちろん、封建制下である。親や主を殺された者でなくても、生き方は制約されている。
 しかし、それでもやはり、復讐者としての人生、そういうアイデンティティのもとで生きないといけない負担は極めて重いであろうし、これは特定の属性(被害者遺族)を理由として特定の生き方を強制するものであるから、憲法13条の「個人の尊重」原理に反する。
 百歩譲って、封建制下でないたとえば現代としても、大切な人間を殺されたとき、復讐「しなければならない」心境になるのは本当によくわかる。だが、それはしかし生き方を限定されることになる。
 以上を踏まえると、スカーレットは、これまで日本の保守的な家族の絆の話を描いてきた細田守が、保守的な家族の絆の一部である(殺された父親の)敵討という生き方=アイデンティティを背負わされた中世デンマークのスカーレットを、「あわいの国」で現代日本看護学生と出会わせることで、敵討をやめて自分の人生を生きるという話になると予想された。
 そして、PVで期待を裏切るようなことはせず(もちろんそれが常に悪いことであるわけではない。笑)、そのままの本編がお出しされた形である。

 

3 生き直しの奇跡と、召命
 ラストで明らかになるのであるが、実は「あわいの国」で一人だけ元の世界に戻れる、つまり重傷を負い生死の境を彷徨ったが生き返ることができる人間は、「俺は死んでない」と言っていた聖ではなく、スカーレットであった。一度死んだからこそ、果敢に決死の覚悟を持って、生きることが、生きて使命感を持って世界を変えることができる。大今良時聲の形』(山田尚子『映画 聲の形』)の「奇跡」の主題系である。

映画 聲の形 : 作品情報・声優・キャスト・あらすじ・動画 - 映画.com
 聖は、死んだ瞬間の記憶が、あまりにも自然にそうなってしまったために抜け落ちていただけで、実際は死んでいた。なぜ聖が死んだのかというと、それは無差別殺傷犯から子供を護ろうと盾になり、刺されて死んだのであった。
 スカーレットは、超が付くほど甘い聖の理想論や看護(ケア)に最初は嫌悪感を示していたが、最終的には受け容れて共感していた。そして、そういった聖のあり方は、(「あわいの国」で出会った歯の抜けた少女、さらには生前のクローディアスのクーデター後、親を奪われた少女を助けたいという切実な願いと共に)スカーレットの考えのコアになっていた。そして、「あわいの国」で聖と共に旅をするうちに、聖に惹かれ、愛するようになっていた。それは、父親の復讐のみを念頭に生きてきたスカーレット生き方を変える、あるいは、変えたいと思うには十分なきっかけであったし、聖という2025年の日本の男性看護師の価値観と、16世紀のデンマークの王女の価値観の違いは、否が応でも「歩み得た異なる人生」を想像させる。渋谷でのダンスはこれである。そして、父の「赦せ」という言葉は、(当初スカーレットと聖が到達した「汝の敵・クローディウスを赦せ」という解釈ではなく、)復讐をしないor諦めた自分自身を赦せという意味であったと地獄の門の前でわかるが(もっとも、父親の幻覚を出したのはやりすぎ、しゃべりすぎである)、それもこの復讐者アイデンティティからの解放の話に繋がる。そして、これも非常に正確なことであるが、この「自分を赦す」形での「赦し」は、クローディウスを赦す必要がないのである(もちろん、殺すな、とまでは言えるのであろうが)。
 しかるに、既に述べたように、物語のラストで、生き返るのは聖ではなくスカーレットであることが判明する。
 愛する聖は助からない、いや、とうの昔に死んでいた。
 そうであれば、生きるスカーレットにできることは────。
 世界を少しでもマシにする、そしてその小さなマシの積み重ねを、聖が生まれる後世に残して、聖が、あるいは誰でも、理不尽に死ななくてよい(それは、必然的に聖の死因である無差別殺傷が起きない社会でもある)世界を作る以外にない。従って、引照されるべき宮崎駿の作品は、『風の谷のナウシカ』でも『もののけ姫』でもない。明らかに『君たちはどう生きるか』である。あの小さな小さな「石」を、(さながら賽の河原のように)崩されても崩されても、諦めず積み上げ続けることなのである(そして、現在の日本では自力救済が禁止されており(民法197条)、殺人も犯罪であって(刑法199条)、もし一人でも死者が出ようものならすさまじい費用と人員をかけて捜査と裁判が行われる。そういう意味では、中世デンマークより、あるいは中世日本より、2025年現在の日本は遥かに、人が理不尽な暴力で死ぬことは少なくなっており、これはもしかしたらそれこそ中世から続く人類の理不尽な暴力への対抗の取組みが(まだまだ不完全ではあれど)結んだ実のひとつなのかもしれない(ただ、現下の高市・自民維新連立政権下で状況は日ごとに加速度的に悪くなっているように思われるので、いつまでもつかはわからない)。そして、それはまたスカーレットがこれから取り組むべきことでもあるし、2025年を生きる観客たる我々が、500年1000年後の未来の人びとに、どのような積み上げを残してあげられるかという問題にもかかってくる)。

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 「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」(マタイによる福音書)。


 ロシアによるウクライナ侵攻は継続され死者も出続けており、またイスラエルによるパレスチナ侵攻と虐殺ののち停戦合意がなったものの依然イスラエルによるミサイル攻撃で今日も子供がバラバラにされている2025年11月において、その理想世界にはまだまだ遠いのであるが。心底暗澹とする。
 そういえば、そんな救いようのない絶望に覆われた未来世界から、一縷の希望を観るために一枚の絵を見るために、千昭は未来からタイムリープしてきたのであった(細田守時をかける少女』)。

 

4 日本国憲法とフィクションのゼロ距離、そして2019年7月18日

 

 スカーレット「もしわたくしをこれからの国の責任を担う者として選んでくださるなら、みなさんの幸せのため、最善を尽くし奉仕します。隣国とは友好と信頼を。子供は絶対死なせない。たとえ苦しみながらでも、もがきながらでも、もう争わないで済む道を諦めずに探すことを約束します。これまで争いがなくなるように願って亡くなった、全ての人々のために。これから幸せを願い生まれてくる、全ての人々のために」

 

 聴衆の一人「ほんとうに、争いがなくなる世界がやってきますか?」

 

 スカーレット「はい。あなたが賛同して、協力してくれたら」

 

 聴衆の別の一人「それなら私たちも、あなたを信じて、諦めずに努力します」

 

 かくして、日本国憲法で描かれる理想が現実化できるかがかかる「共感」は、実はアニメ映画で描かれる理想が現実化できるかがかかる「共感」とパラレルである。デンマークは、もちろん『ハムレット』の舞台ではあるが、同時に、北欧福祉国家の代表格である。

 そして、この映画は、2019年7月18日に発生した京都アニメーション放火殺人事件をどうすれば防げたのか、これから起こり得る事件と悲劇をどうすれば防ぐことができるのかを考えることを、観客に要請する。『ルックバック』同様、無差別殺傷犯の背後が描かれることは本作でもない。

ルックバック : 作品情報・声優・キャスト・あらすじ - 映画.com

 しかし、スカーレットが挙げた諸々の課題が、特に社会が弱った者に手を差し伸べるのではなく、むしろ嵩に着てさらによってたかって痛めつけ搾取する現状(たとえば派遣契約制度など)が、大きな原因になっていることから目を逸らすのは、そろそろやめるべきではないだろうか(京都新聞取材班『自分は「底辺の人間」です 京都アニメーション放火殺人事件』参照)。死刑判決が抑止になるとは思えない。

自分は「底辺の人間」です 京都アニメーション放火殺人事件 | 京都新聞取材班 |本 | 通販 | Amazon

 

 スカーレットが目指す、聖が理不尽に死ななくていい世界は、京都アニメーション放火殺人事件が起こらなかった世界でもまたあるのだから。

でも、殺しちゃダメなんだよ────『小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜』評註

2025年6月27日午前、座間の9人殺害事件の死刑囚・白石隆浩の死刑執行がなされた。

 

そのニュースを見ながら、私は公開初日となる『小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜』を観るために劇場に向かっていた。

 

京都アニメーションが手掛ける劇場版アニメとしては、2019年7月18日の京都アニメーション放火殺人事件以降、初の完全新作ということになるのではないか(おそらく)。そうであれば、公開初日に観たいと考えて、観に行ったのである。

 

***

 

予告PVを観たイメージだと、カンナの父・キムンカムイが、戦争に勝利するために、竜玉(どうせハガレンの「賢者の石」みたいなもんでしょ)が必要で、そのためにカンナを犠牲にする、それを血がつながっていないが今は一緒に生活している小林さんやトールが防ぐ…という筋立てなんだろうな、とは思っていた。

 

当たらずとも遠からずだったわけであるが、ポイントはややズレていて、むしろ全ての黒幕は、PVでもどういう立ち位置かわかりにくかった(しかし一発で胡散臭いとはわかる)アーザードであり、彼が、ダブルクロス、というか首謀者として混沌勢と調和勢の戦争を相互に煽っていたのであった。

 

 

もちろん、それにやすやすとだまされ、そしてもとよりカンナとまともにコミュニケーションをとれないしとろうとしないキムンカムイの不全の問題はあるにはあるのだが、それよりもやはりアーザードと、彼の動機こそがやはり焦点を当てられるべき事柄ではないかと思う。

 

アーザードはかつて、妹をドラゴンに殺された。だから、ドラゴン同士の殺し合いをさせ、あわよくばドラゴンを滅ぼしたいのである。動機はシンプルに復讐である。

 

全てが露見し、小林さんやトールたちに阻まれ、魔力を失って草原を一人逃げるアーザード。立ちふさがるルコア。そしてアーザードに追いついたトールに、振り向きざまにアーザードが切りかかり・・・トールも鋭い爪で一撃を放つ。

 

そこで一旦そのシーンは途切れる。

 

このとき、別のシーンを見ながら、朝の死刑執行のニュースも相俟って、「トールがアーザードを殺してないといいなァ・・・しかし、切りかかったのはアーザードだしなァ・・・」と、ぐるぐる考えていた。

 

果して。

 

結局、トールはアーザードから魔力を完全に吸出し、ただの無力な人間にした上で、逃がすことにした。

 

そう、やっぱり京都アニメーションなら、この選択をするよねぇと。

 

だったら、フィクションでできるなら、現実でもそうできたのではないかと、少しだけ小言を言いたくはなる。まあこれは現実のたとえば遺族の心情などを考えると、もちろんないものねだりではあるのだけれど────。

 

***

 

殺されて当然のことをした相手を、十分に殺せる状況下で、しかしその今後の変化に期待して、それでも殺さないという選択をトールはした。

 

そしてそれはトール自身が小林さんに出会って変わったことから経験的に体感されていることである。

 

これは、おそらく奇跡なのだろう。

 

なぜなら、事実そうであるし、しかもそれに加えて人を変えるのはほとんど不可能であることが、作品内で執拗に描かれ、オマケにキムンカムイに台詞として言わせてまでいるからである。

 

しかし、それでもカンナがキムンカムイを、そして小林さんがカンナを諦めなかったから、どうにか両勢力の軍事衝突を回避でき、キムンカムイとカンナは最初の一歩を踏み出せ、アーザードの陰謀を打ち砕くことができた。

 

さらにそこには、翔太くんのお父さんから借りた魔導書も重要な歯車として噛んでいる。

 

小林さんがトールに説明していたように、ドラゴンより短命の人間は、その短い人生で積み上げたものを本にして残し、それを何世代にもわたって積み上げて、今に至っている(『チ。ー地球の運動についてー』)。このかつての人間が残した本のおかげで、小林さんはキムンカムイをワンパンできるのである。

 

以上のような奇跡の連鎖で、どうにかアーザードに勝てたのだ。

 

対して、アーザードは、妹をドラゴンに殺され、絶望に落ち、復讐の鬼になった。

 

奇跡は起きなかったわけだ。

 

もっとも、奇跡の定義上、起きないことの方が通常なわけであるが。

 

「あのときはあんなの、助けにこなかったのに。」

 

そう、それが全てであり、だからこの話はここでおしまいなのだ(『ブラックラグーン』の双子回)。

 

夏油傑も、諌山黄泉も、分倍河原仁も・・・林郁夫も。

 

そうなってしまったのにはやむにやまれる理由があるし、自分が同じ状況、同じ選択に遭遇したときに、彼ら彼女らと違う選択ができるなどと自信を持って言うことはできない。

 

しかし、その選択に、私は遭遇しなかった(あるいは、”まだ”遭遇していないだけかもしれないが・・・)。

 

そうして、この話はいつもここでおしまいになってしまうのである。

 

***

 

アーザードの陥った絶望が、誰にでも降りかかり得ることであるから、我々はアーザードに心から同情する。

 

それは私でもありえたのに、たまたま私ではなくアーザードだったのだ。

 

偶然「奇跡」(そしてそれはまた(キリスト的な意味での)「愛」である〔山本芳久『「愛」の思想史』〕)に出会ったトールが、偶然の助けはなく、妹をドラゴンに殺されたアーザードを責めるのは酷である、というか、その資格がない。

 

しかし、トールだって人間とドラゴンの平均寿命差に鑑みると、いつかはトールが小林さんを看取る日が来るはずである。

 

このトールのある種の諦観が、アーザードの「そんなの、一度でも信頼が崩れたら御しまいなのに」というセリフに対してトールが返す、「すべては、プロセスに過ぎないんだと思います。」というセリフの根幹をなしている。

 

自分の大切な人が亡くなったとしても、結局人間は自分が死ぬまでは生きる(生きなければならない)のであって、そうして人生の最後に理不尽に、しかし皆に平等に訪れる死に際して、人生を納得できるかを振り返って考えるのである(翔太くんのお父さんの話)。

 

ここにきて、本作は山田尚子平家物語』が描く「諸行無常」と相互に響く。

 

「何回だっていうよ 世界は美しいよ」

「今だけは ここにあるよ」

 

(羊文学『光るとき』)

 

***

 

結局は死は平等で、それまでの束の間、我々は偶然生かされているだけである。

 

そして、そのような我々の人生の根源的な偶有性、つまり、無根拠さこそが、同情と連帯の契機になる、いや、なってほしいと思っている。

 

私は、妹を失ったアーザードでありえたことこそが、アーザードに対し、そしてどうにか絶望に落ちないよう、また、一度抱いた絶望と、それゆえにもはや未来などなく、ただ他人が傷つき自分と同じように、いや自分以上に不幸になるのが見たいという、無差別殺傷犯が抱くのと同じ衝動を、しかし振り払って再度、今世をどうにか生きるに値する人生として幸せに生きて欲しいと、心から同情するのである。

 

「私は、小林さんに出会って変われました。」

「だから、あなたも、いつか、きっと。」

 

ニヒリズムルサンチマンが人々の心を覆い、プーチンやネタニヤフやトランプが支持され、日本国内では排外主義が隆盛しつつある昨今の情勢を、『たべっ子どうぶつTHE MOVIE』と同様に敏感に感じ取って、正面から批判して行く映画であった。

 

***

 

繰り返しになるが、この映画の公開初日に、「特殊な社会悪の根元を絶」つ(最大判昭和23年3月12日)ことを目的の一つとする死刑が執行された。

 

そして、京都アニメーション放火殺人事件の犯人・青葉真司は、2025年6月27日現在、第一審の死刑判決への控訴を取り下げている。

アニメーションという形式への純化────山田尚子『きみの色』評註

 「変えることができないものについて、それを受け入れるだけの心の平穏をお与えください。そして、変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。」(ラインホールド・ニーバーの祈り)


1.はじめに
 川村元気がプロデューサーで関与すると耳にした時点で、新海誠君の名は。』の例がただちに想起され、そして山田尚子『きみの色』も、ちょうど『君の名は。』前夜のように、映画館はもとより地上波でも相当な広告を打ち(もっとも、私個人は広告の専門家でも映画マーケティングの専門家でもないため、実際のところ『君の名は。』と比較してどうなのかはよく分からない部分もあるが、まあ体感として)美しい映像とキャッチーな主題歌で興味を引き、似たような広報戦略が取られていたような気がする。
 
 そしてその結果、山田尚子がすり減らされてしまうのではないかと危惧もした。
 
 しかし、果して出てきたものは、新海誠君の名は。』とはおよそ異なる、派手なカタルシスなどない、言い方は悪いかもしれないが、事前の広報戦略にもかかわらずおそらく大ヒットはしないであろう、言ってしまえば山田尚子という監督の極致、エッセンスをそのままお出しするような作品が出てきたので、正直ビックリしてしまった。
 
 それが本稿の表題でもある「アニメーションという形式への純化」、これである。
 
 いい意味で予想を裏切られたといっていい。
 
 そして、こういう内容であれば、逆にバンバン広告打ってなるべく多くの人に見てほしい、という教養主義者魂(?)が燃えてくるから不思議である。
 
 台風10号め~~~!
 
2.純化
 山田尚子の代名詞としてよく言及されるのは「足」の描写であるが、近時は「手」に関する指摘もなされている。
 
 しかし、(もちろんこれも以前からずっと山田尚子が描いてきたのであるが)本作では手足に関わらず身体描写全てが極まっているといえる。最初と最後に出てくる(特に最後に悠然とかなりの尺を取って踊る)トツ子のバレエの身体動作、きみが背表紙の上に指をかけてから引き出して本を取る動作、ルイのテルミン演奏、きみのおばあちゃんの料理を作る動作、最後のライブでのシスターズのダンスやきみのおばあちゃんと校長のロンド、日吉子のさながらトツ子がやっていたような廊下での回転ダンスなど、他のアニメでは省略されてしかるべきような細かい日常動作が逐一描かれるので、本当に目が離せない。
 
 同時に、猫や雀やうさぎやカモメ(?)の何気ない仕草、動きも極まっている。動物は人間よりも動きを描くのが難しいと一般に言われるが、そうであるにも関わらず、特に猫は長尺で動きが描かれる。垂涎モノである。
 
 総じて、アニメーションにおける人間含めた身体表現の一つの極地であろう。
 
3.漫画的デフォルメ表現
 同時に、あるいは、そのような緻密な日常動作の描き込みをバックに、特にトツ子に見られる漫画的表情や身体動作もまた、本作の魅力であろう。フフッと笑える。ドッジボールできみの投げたボールが顔面直撃で倒れた後の表情・挙動、古本屋できみと最初に話しているときに小さくなったり、理科の講義で天体のビデオを見ているときに寝て起きた時の表情・挙動、そのほか寮で三姉妹を背後に一人であれこれやってるときとか、とにかく山田尚子がこれまで培ってきた漫画的デフォルメが多用されている。
 
4.主題(しかし、これは形式ではない実質────つまり後景、出汁である)
 主題の一つであろう「赦し」と「祈り」は、その実践が帰属する先を仏教からキリスト教に移したという点から見れば『平家物語』の延長線上にあり、そして「現代人は他人もそして自分も赦すのが下手」と山田尚子がパンフレットの対談で指摘していた『聲の形』の延長線上にあるテーマではあろうが、それ自体にスポットライトが当たっているわけではなく、“GOD Almighty”(やトツ子の「また告解の秘跡をするから大丈夫」)に象徴されるように、悩みをサクッと流すためのツールとして用いられており、そこまで深刻なものではない。

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 (もちろん、人の心の動きに向けたその繊細な目線は依然衰えてはいない。そして、表情含むアニメートされた身体動作が指し示す先が、人の心(の繊細微妙な揺れ)なのもまた、明らかである。女子寮侵入事件に際しトツ子だけ処罰されるときみが傷つくと察した日吉子は、既に退学しているきみにまで罰(というか償う場)としての奉仕活動を課すことを校長に求める。その心が傷つくこと、傷ついたことを推察して適切な手を打てるのは、まさに大人の役回りにふさわしい(といってもおそらくまだまだ大人の中では駆け出しの日吉子=ヒヨコにすぎないのだろうが)本当に素晴らしいことだと思った。そして、トツ子たちのバンドの曲を悲しみや苦しさを歌う曲を含めて「聖歌」だと言い、後日たまたま古本屋で出会ったときの「あなたも卒業生です。あなたは自分のタイミングでわが校を卒業したのです。」という言葉をかけたり、トツ子が降雪で寮に帰れなくなったときには「合宿ということにしましょう。」など、良い方向への機転の利かせ方が本当に素晴らしい。そして「私たちは何度でも歩きなおすことができるのです。」というセリフは、「現代人は赦すことが下手」という山田尚子の発言をふまえると、とても印象に残る。)
 

 


 精緻な日常動作を描くアニメーションを描くという「形式」にノイズを差し挟まない程度の、さしみのつまのような扱いであるといってよいように思う。
 
 このことは、他の作品であれば作品の見せ場になるであろう大人と子供の対立であるとか、秘密の暴露であるとか、感情の爆発のような、カタルシスはなく、トツ子、きみ、ルイそれぞれの抱えた悩みに対して、父母、祖母、母そしてシスターズと“理解ある大人”たちが措定されることで、サクッと解決されてしまう。
 
 そして、これこそが山田尚子がオリジナルの、つまり他者の原作がない長編を描いたことの効果ないし特徴なのではないかと思う。
 
(そして、これは実は本人の言葉での裏付けがあってしまうのであるが…。
「──キャラクターを愛する?
山田 キャラクターとその世界を、ですね。皮肉めいたものの見方をしない。彼ら・彼女らの尊厳を踏みにじらない。見られたくないと思うような瞬間に、わざわざ正面に回ってアップにするようなことはしない。興味本位で撮らない。」

「──少しドキュメンタリーに近いところがあるようにも感じました。

山田 かもしれないです。ストーリーによって出てくる人たちの動向が決まるというような描き方はしていないので。」

(キネマ旬報1946号23頁))

つまり、これは要するに、山田尚子作品の特徴であるアニメキャラクターの実在性・実在感は、まずはキャラクターの人格を尊重すること、すなわち、ストーリーの都合でストーリーに埋没した形でキャラクターを動かさないことから来るのである。そして、おそらくこのキャラクターの実在性・実在感を生むストーリーからキャラクター(の人格)が自律して動くことは、アンドレ・バザンが名作(実写)映画とはどういうものかを指摘する時に使う、“飛び石の比喩”と近いものであろう(反対に、名作でない映画の一つに石橋映画≒プロパガンダ映画がある)。
 
 これまでの『映画 聲の形』(2016年)、『リズと青い鳥』(2018年)、『平家物語』(2021年)にはそれぞれ、大今良時武田綾乃古川日出男の原作があり、その原作それぞれが強烈なカタルシスを持つ作品であった。
 
 それゆえにこそひきつけられた、特に個人的には山田尚子『映画 聲の形』を観たせいでアニメーションの凄さに引き込まれてしまった人間であるからなおさらそうであるが、そうした部分は確かにあったものの、そうした主題の強烈さやカタルシスの強さは、山田尚子がやりたいこと(日常の丁寧な所作をアニメートすること)をやるうえでは、実はノイズであった可能性がある。そういった意味で、訴求力の強い主題やカタルシスを持つシナリオを排除した/できた本作は、まさしく山田尚子の作品といえるのではなかろうか。

 

 あと、日吉子がトツ子に「歌が守ってくれるのではないでしょうか」というのは、歌=フィクション=神様のルートが想起される一方で、歌=フィクション=アニメーションのルートもまた想起しえ、いわゆるメタフィクションとして機能しているといえる。つまり、山田尚子にとってアニメーションは「守ってくれるもの」なのではないだろうか。

 
5.演出
 初めて島に行く船での、電波がない→波→虹色の反射という連想ゲームはめちゃくちゃよかったと思う。そして、おそらく私が気づいてないだけでこの手の演出は無限にあるであろう。
 あとは、初めて島に行った帰りの港での色合いがすべてセピア色だったのもよかった。
 
6.社会が押し付ける規範から外れることの肯定
 トツ子はぽっちゃりしておりそばかすも明確に描かれる。おそらく従来のヒロイン像・規範からはズレるヒロインであろう(おまけに人が色で見えてしまう共感覚の持ち主である)。
 あるいはルイは男なのに当然のように久しぶりに会った女であるトツ子ときみ2人に抱きつくし、クリスマスに降雪でフェリーが出なくなった際には旧教会に一緒に泊まる。これも従来とは異なる男性像あるいは恋愛や性欲抜きの男女関係のありかたを打ち出しているとも見うる(もっとも、従来のシナリオライトの鉄則とされている、妙齢の男女二人が出てきたらそれは恋愛関係になる、という規範がいかに不自然で、非包摂的で、偏見に満ちたものであったかという話でもあるのだが)。
 きみと兄は祖母に育てられたし、ルイの母はシングルマザーである。これも、特に自民党保守派あたりが想定する男性の夫、女性の妻、子供という核家族こそが正しい家族であるという家族規範から逸脱した家族である。
 そして極めつけはシスター(ズ)が優しい、もとい緩い。笑 もちろん、シスターは戒律に厳しくあるべきである。緩いシスターズは、宗教規範から逸脱したシスターズであろう。日吉子はトツ子たちの年齢の時にはバンドを”少々”やっており、それは恐れ多くも「GOD Almighty」だったわけで。笑
 いや、でもこれくらいでいいのよ。
 少し昔の日本社会は様々なステレオタイプに縛られすぎて生きにくかったし、そして2024年の今は幾分緩くはなったとはいえなお生きにくい。
 (たとえば『しまなみ誰そ彼』など、近時規範から外れた生き方を肯定的に描く作品は多くはなっている。)
 そして、色の多様性は個人の個性の一つである性愛の多様性の比喩、ゲイレインボーとしてのみ用いられるわけではない。様々な個人が様々な“波長”(電波からスマホが連想でき、そこからコミュニケーション全般の謂いだろう)で、暮らしているのが2024年の日本であり、それを写し取ったのが山田尚子であろう。
 (なお、最近よく「多様性を尊重」といわれるが、この言い方は差別の温存に転用されかねないため嫌いである。「個性を尊重した結果、事実として多様な個人が社会に顕出される」というだけなので、そう言うべきなのである。)
 
7.連想ゲーム
 最初に日吉子が階段で走らないようにと注意するシーンでのトツ子の「はいよ」とかのセリフが、『この世界の片隅に』のすずさんっぽかった。
 また、これは『リズと青い鳥』のときからそうであるが、バレエ的な身体の動かし方が『花とアリス殺人事件』を想起する。

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8.あなたの色

 ラストの長尺のトツ子が寮の中庭でバレエを踊るシーンで、トツ子はようやく、自分の色が見える。原作のないこの映画ができたことで、これまで見えなかった山田尚子自身の「色」が、ようやく見えるようになったのかもしれない。

 そしてそのためには、トツ子がきみやルイと出会う必要があったように、また、山田尚子自身もこれまでの数々の原作や友人知人と出会う必要があったのだろう。

 最初に述べたように、私は、本作の川村元気プロデュースによる商業的大展開で、山田尚子アイデンティティないし作風が失われてしまうのではないかと危惧していた。しかし、そのことは山田尚子にとっては、ニーバーの祈りの「続き」にある、「変えるべきものを変える勇気」の発露だったのではないかと思われる。商業的に成功するということは、より多くのひとに作品が届くことでもあり、そしてそれはその人を救いうるのだから。そして、商業的にはヒットするかどうかは大切なわけであるが、山田尚子が本作をヒットさせるために「変えることができないもの」=魂を売らなかった、こともまた、本作を観たあとでは明らかであるから。

 商業的な圧力の前でもなお、山田尚子は「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」と、「変えることができないものについて、それを受け入れるだけの心の平穏」あるいはこれはニーバーの祈りからは逸れるかもだが「変えることができないものについて、それを受け入れるだけの“勇気”」を示してくれた。

 そして極めて個人的なことであるが、2016年の『映画 聲の形』に惹かれてアニメーションに興味を持ち、そこから芋蔓式に文学、人文学、法学…と流れていった(変えるべきものを変えた)身としては、山田尚子が「変えることができないもの」を変えずにいてくれたことが何よりも嬉しかったのである。

押山清高『ルックバック』 背中の不在と自動で開くドアについて



押山清高『ルックバック』について少し覚え書きを残しておこうと思う。

 

入場特典コンテと比較したときわかるのが、美大襲撃犯が開けたドアは、コンテでは押して開ける式のドアだったのに、映画の方は自動ドアになっている。そこ以外は(たとえば藤野や京本の部屋とか)全部押して開ける式のドアだったことを踏まえれば、この変更にはおそらく意味がある。

 

では、それはどのような意味か。

 

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これは、美大襲撃犯が侵入してくる場面だから、美大襲撃犯についての解釈が前提として必要になる。

 

これは①初出ウェブ版、②修正ウェブ版、③単行本版、④入場特典コンテ全てに共通していることだが、美大襲撃犯の後ろ姿、背中はついぞ描かれない。

 

ルックバックーlookbackー振り返ること。

 

back=過去だけでなく、もちろん背中の意味もあることを踏まえれば、これは背中=過去の無さから、振り返るものがない者のことを示唆しているのであろう。

 

美大襲撃犯に振り返る積み上げがないことは、「パクられた」という「妄想」の存在により示唆されている。

 

(ちなみに、クリエイターの物語で直近のもので言えば『数分間のエールを』が、まさにこの積み上げ、そして積み上げゆえに他者に届かないことに心が折れた音楽家や芸大志望の学生を描いていた。)

 

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美大襲撃犯が美大に侵入する際にくぐった扉が自動ドアだったことも、おそらくこの背中の無さ、振り返る積み上げの無さとセットで解釈することができよう。

 

つまり、京本が来訪した藤野に感激して自分の意思で思わず引きこもっていた自室の「扉」を開けて外に飛び出してた選択(「私、藤野ちゃんに会えて、よかった。外に出て、よかった。」)、自分の意思で藤野と別れ(さながら『リズと青い鳥』)苦労して美大に「入学」した、そういった「苦労」や「努力」を自分の意思で積極的に突破していくという趣旨が、物理的に自分の手で「扉」を開くという描写には込められているように思われる。

 

そうだとすれば、自動ドアから入ってくる美大襲撃犯は、物理的に自分の手で「扉」を開いてはいないわけだから、美大に「入学」するための「苦労」や「努力」もしていない人間が、なぜか一人前の顔をして美大に乗り込んできた、そういうものとして解釈できる。

 

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さて、『ルックバック』の①初出ウェブ版が「統合失調症患者などへの偏見を助長する」として批判され②修正ウェブ版が出されたこと、本作の内容、①初出ウェブ版の更新日時及び藤本タツキの担当編集による示唆から、京都アニメーション放火殺人事件が容易に連想されまだ事件から日も経っていないのに不適切ではないかとの批判がなされた。

 

そして、②修正ウェブ版でも、統合失調症患者への配慮がなされたのかもしれないが(いずれにせよ不十分だと思われるが)、京都アニメーション放火殺人事件との関連については特に切断するような修正はなされていない。

 

そうであれば、あの美大襲撃犯を青葉真司・被告人と重ねて理解する読者・鑑賞者がいても、全く不思議ではない。

 

では、青葉は過去の積み上げを持たず(「背中」が映らない)、苦労もせず(「自動ドア」をくぐる)、事件の日まで生きてきたのだろうか。

 

もちろん私は青葉本人でもなければ知り合いでもなく、青葉の過去については正確なことはわからない。

 

しかし、実際に京都アニメーションに応募した小説は、形式面ではねられる杜撰なものだったにせよ、一応完成はさせていたところまではどうやら妄想ではないようである。文章を書いたことがある人ならわかると思うがひととおりのまとまった量の文章を一応の完成まで書くのは大変である(もっとも、青葉の応募作が果たしてこの水準にすら届いていなかった可能性は一応留保しておくが)。そうであれば、青葉は過去の積み上げをそれなりには持ち、またそれなりに苦労もしてきたのではないか。

 

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もちろん、美大襲撃犯は青葉ではない、もっと一般化・抽象化された、過去の積み上げを持たず、苦労もせず生きてきた人間だという解釈もできる。

 

しかし、そうであっても、過去の積み上げを持たず、苦労もせず生きてきた人間がそうそう居るとは思えないし(大小あれど概ね皆、挫折は経験しているのではないか)、仮に居たとして、それを努力してきた京本や藤野と、あるいは過去の積み上げの上で現在努力しているクリエイターたちとわざわざ対抗関係において批判する必要があるのだろうか(「過去の積み上げを持たず、苦労もせず生きてきた人間」が居たとして、そういう人間が何か成してきたかのように行動したとしたら批判されるのはまぁ当たり前であろうし)。

 

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『ルックバック』(①初出ウェブ版)自体は、自分がかつてした(適法・適倫理)行為が契機となって悲劇的な結末に繋がったとしても、その間の楽しかったことは嘘ではないでしょう、だから後悔しないで、という好意的な側面でも読めたので、そこに限ればさながら『クラナド・アフター』だな、とは思っている。

 

hukuroulaw.hatenablog.com

 

上記記事参照。

integrityなき社会とフィクション──井芹仁菜は“狂犬”なのか?

『ガールズバンドクライ』の井芹仁菜を、Twitterの人々は「狂犬」と呼ぶ。

 

が、井芹仁菜は本当に「狂犬」だろうか?

 

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一つ、過剰な形容の出所は、悪しき消費主義とSNSの魔合体で大袈裟な感想でアテンションを集める傾向にあろう。

 

しかし、おそらくそれだけではない。

 

もう一つ気になるのは、井芹仁菜がなぜ「狂」っていると認識されるのか、その理由である。

 

放送室ジャックは確かにやりすぎ、かもしれないが、彼女があの時、引き渡せと迫られていたのが正しさ、もっといえばいじめに抵抗し共に横に立ったことを間違っていたと認めろ、と言われていたことからすれば、大した問題ではない。

 

2024年の日本社会は、いやもちろんはるか以前からであるのだが、信条や自尊心や繊細さの価値が、著しく低い社会である。

 

一見すると、サブカル・オタクたちは、集団になじめなかったがゆえに、そういった信条や自尊心や繊細さの価値を理解していると思われがちである。

 

しかしそうであれば、罷り間違っても仁菜の行動を「狂犬」なる言葉で形容するのは、おかしいとわかるはずである。

 

これがわからないとすれば、それはやはり信条や自尊心や繊細さの価値への掛かり合いではなく、単にコミュニケーションが下手で多数派形成ができなかったというその事実のみが、サブカル・オタクと一般人を分ける境界線になっているといえる。

 

そして、そうだからこそ、メインカルチャーから外れた者の中で、再度カーストを作る。群れを作り、仲間はずれにし、いじめをし、差別をする。

 

一部インディー批評界隈についても全く同じことが言える。クリティークなき批評。

 

結局、メンタリティは多数派集団にあり、ただ敗北した、だから多数派集団の目の届かないところでまたぞろ集団を作るのである。

 

そういう空気に「私、間違ってない!」と抵抗していく仁菜は狂犬でもなんでもなくただの近代人である。

 

それが狂犬に見えるということは────あとは言うまでもなかろう。

 

とりあえず丸山真男でも読めばいいんではなかろうか。

 

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「悪は存在しない」?──いや、いるだろ目の前に

 

仁菜がトゲトゲを出していた仁菜の父も、ダイダスの3人も、ヒナも、別に敵ではなかっただから、本作はぬるま湯の世界である。

 

と、いう感想を見た。

 

しかし、これも読み違いであろう。

 

本当の中指を立てるべき敵は、これらの人たちの外にいる。

 

たとえば、いじめに異議を唱えた仁菜を殴っていじめた女子連中。それを当初隠蔽しあまつさえ握手で仲直りさせようとした校長。

 

つまり、仁菜の敵はこれらの集団が作り出す抑圧的な空気感──阿部謹也に言わせれば「世間」──であり、結局あとでそうではなかったとわかるが、学校側に迎合した父や、売れるために世間に迎合したダイダス3人、そして見て見ぬふりをしたヒナ、こういった人間たちも、ある意味「世間」の側に立ち、仁菜を抑圧する側に立っていたのである。

 

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響け!ユーフォニアム』3期12話の“改変”についても同じことが言える。

 

両作品は脚本が花田十輝で共通であるから、影響があると考えるのが当然であろうが、他方言うまでもなくアニメーションは脚本家の意思だけで成立しているわけではないのだから、脚本家が共通であるという事実のみから何かを言えるわけではない。

 

ただ、最低でも、描いているものが共通ないし近似している、と言うことまでは、許されるであろう。

 

ここでは、原作の、ラストのユーフォニアムソロオーディションで、黄前久美子が黒江真由を下すというシナリオから、黒江真由が黄前久美子に勝ちソロを勝ち取るという間違いなく物議を醸す改変を行った。

 

これは、原作で関西でソロを勝ち取った真由がなぜ全国で負けるのか、ご都合主義のストーリーではないかという批判があり、それを踏まえつつ、1期11話の再演を他ならぬ久美子と麗奈ですることで、「実力主義」の、「嘘をつけない音楽を優先する」、北宇治高校吹奏楽部を樹立した。

 

「音楽は嘘をつけない」(1期10話)。「本当の意味での正しさはみなに平等」(3期12話)。これもまたインテグリティの話である。

 

そして、久美子がそれを貫いたからこそ、黒江真由は救われ、また麗奈の久美子の音だと認識しつつ、自身の感覚に嘘をつかず、真由を選ぶことができたのである。1期11話から明らかなように、実は麗奈もそんなに強い人間ではない。しかし友を裏切れないからこそ友を斬る、切断する、その先にしか真の友情は成り立たないのである(もはや「信仰」の域〔たとえば自衛官合祀拒否訴訟〕であろうし、ロナルド・ドゥオーキンが言う「神なき宗教」であろう)。



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仁菜のトゲ、あるいは女性のギスギス全般について、しんどいという感想もあった。

 

これは「芸術に政治を持ち込むな」の一種であろう。

 

まぁ娯楽に政治を持ち込まれると娯楽にならないというのはわかる。

 

しかし他方で、それは政治をしなくても、つまりトゲを出さなくても生きていける特権性の表白でしかなく、トゲに対する違和感は端的にフェミニストがかつて受け、そして現在も受け続けている「フェミニズム自体はいいが、攻撃的だからダメ」フェミニズム自体はいいが、過激だからダメ」というトーンポリシングそのものであろう。

 

まぁ要はトゲ要素がキツいというのであれば、『ガルクラ』はあなたのための物語ではない、ということである。ちょうど『燃ゆる女の肖像』や『機動戦士ガンダム 水星の魔女』がまたそうであるように。

 

トゲの意味が「敵意」から「約束」に遷移するのも、フェミニズム的、あるいは、それが狭すぎるとするならば社会的弱者の「連帯」のために、まずは「抗議=トゲ」が必要で、しかるのち「約束=連帯」ができる、ことの示唆である。

 

智ちゃんが言うように、ヒナが正しくて仁菜が間違っている。でもだからこそ、仁菜が好きなのである。

 

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そして、そのインテグリティはまさに自分たち自身が苦しくなる選択を、なさしめる。

 

そう、正しい理念は、自分たちの利益にならないから機会主義的に捨てていいようなものでも、また、原理的に捨てられるものでもない。

 

スパイダーマン・ノー・ウェイ・ホーム』のメイおばさんをはじめ、枚挙にいとまはない。

 

他方で、「個人として尊重」(憲法13条)を真の意味で理解しえない日本社会において、単純なインテグリティを貫くことは、ともすればいじめのターゲットにされ、最悪自殺に追い込まれることもありうる。

 

その意味で、仁菜の姉が仁菜に言う「生きててくれてありがとう」は、大袈裟な表現でもなんでもないし、仁菜が桃香の胸ぐらを掴んで訴えかける「あなたの曲を聴いて、生きようと思った人間が!」というセリフもまた大袈裟な表現でもなんでもない。

 


仁菜と父(母・姉も)は結局、真の意味で理解しあえたわけではない。しかし、お互いに大切だと伝えることはできる。10話には批判的な感想も散見されたが、個人的には、血縁だからといってわかりあえるわけがないそのわかりあえなさを踏まえつつ、しかし「愛してる」と伝えることくらいはできる、という絶妙なバランスの回だったと思う。

 

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これほどまでに単純でドストレートな正義の話、平等の話、インテグリティの話がお出しされるということは、日本社会ないしもう少し限定すればサブカルないしオタクの社会ですらまた単純な正義の話、平等の話、インテグリティの話ではない冷笑や露悪が流行し、猖獗を極めているという認識があるのではないか。

 

井芹仁菜は「狂犬」などではなく、全き「近代人」である。

 

それが「狂犬」にしか見えない状況の方こそが問題である。

 

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『ガルクラ』の仁菜や『ユーフォ』3期の麗奈の選択を、「正しい」というのなら、自分たちも同じように行動してみたらどうだろうか?

 

「フィクションと現実は別だ」

 

もちろん。

 

そのパラデイクマを現実化するかしないかは、完全に観た者の自由である。

 

しかし、フィクションを見て感動し、そうあるべきだと感じたのに画面の前であぐらをかいて動かないなら、フィクションを観る意味も、批評を書く意味もないのではなかろうか?

 

hukuroulaw.hatenablog.com

2024年の不安定で未来の見えない日本より、愛を込めて。──水島努『終末トレインどこへいく?』評註

2024年4月18日現在、3話まで放送されていないが、現時点でのメモと予想を残しておく。

 

1話の7Gによる世界変容は、トランプ支持者による16日に結実し、またコロナパンデミックにより膾炙したワクチン=5G陰謀論の示唆であり、2話の寄せ波は3.11津波であろう。そして3話のキノコの見せる幻覚世界=アメリカならオピオイドだが、それに頼ってはダメというメッセージ。

 

いきなり動物になる世界は、フランス現代思想家、カンタン・メイヤスーの哲学っぽい。また、政府ではなく宅配業者が公共のために動いているあたりも、Amazn帝国の新自由主義を想起する(『さらざんまい!』もカッパマゾン=資本主義=欲と仏教=解脱の話でしたな)

 

というわけで、先の見えない2024年日本の暗喩としてしか見れない『終末トレインどこへゆく?』。

 

白紙の進路指導票は『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』『リズと青い鳥』『アリスとテレスのまぼろし工場』にも登場する、若者の未来の未定さを表すキーアイテム。

 

そして列車は人生の比喩(それこそ『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』まんまだし、あるいは『輪るピングドラム)

 

そしてモールス信号はSNSコミュニケーションの対極。つまりはスローコミュニケーションをファストコミュニケーションの優位に置く。そもそも7Gなのにスマホが使えなくなった世界という設定がまたよい。

 

そしてエンディングが示唆するように「やさしい人」と「頼れる人」になることが──もちろんそれは横の水平連帯が前提であるが──たぶん、不確かな未来しか見通せない2024年の日本の若者にとって、大切なこと。

 

そしてもちろん、列車の行く先が池袋=未来=(会えるかどうか不透明な)友人のところなのもまたよい。

 

しかし、自伝的アニメである『SHIROBAKO』といい、水島努はどうも、目の前にある現実しかアニメに起こせないようである。

 

あと、エンディングがTRICK鬼束ちひろの『月光』っぽさがある(本編の世界観も?)

「現実」を観てないのは誰か?──石井裕也『月』批判

本作の感想を目にした。案の定「深い」とか「重い」とかの定型句に「考えさせられる」という定型句を繋いだ感想が予想どおり散見され、「一生考えてろ」とキレ散らかしている。そもそも、相模原障害者殺傷事件があったやまゆり園は森深くに隠されていた施設ではなく民家の隣にあった。初手から誤導だと思う。二階堂ふみが「都合の悪い現実は隠されるんです」と言ってるが、本作で隠されている都合の悪い現実は、やまゆり園が森深くではなく民家の隣にあってしまうことではないか。様々な撮影編集手法を駆使し、端的に脚本で「現実」を捻じ曲げて、バイアスを思いっきりかけた上で、「さとくんが障害者の殺害に至ったことを我々は非難できないよね?」と、観客の内なる優生思想、意思疎通ができない障害者は殺されても仕方ないという「さとくん」の思想に誘導するような、宮沢りえ宮沢りえの対話をさせるのもどうかと思う。ひろゆきレベルの拙劣な自己問答で誘導をかけるんじゃない。こういう方向に誘導しようとする映画は、はっきり言って障害者差別の固定化、分断の固定化を促進し、ともすれば危害を加えることさえ正当化しかねないプロパガンダになりうる。そういう危険を製作側がどれだけ自覚しているか甚だ疑問である。

 

本作の鑑賞にあたっては、以上の問題を十分踏まえたしっかりとした批評や、相模原障害者殺傷事件のルポライトや裁判記録、実際の事件を扱ったたとえば立岩真也の障害者殺しの系譜を踏まえた論考などを読むべきであり、映画単体だけ観て済ましたり白地から考えたりするのは危険である。そうすれば、根源的解決はともかく、「今、なぜあなたに殺す権利があるのか?」(立岩真也)は問えたはず。

 

一点だけ──ただ一点だけ──「おお」と思ったのは、死刑囚の死刑執行時の首の骨が折れる音や糞尿を漏らすかどうかについての噂が「現実」だとされるが、でもそれが本当に「現実」なのか我々はわかってないんじゃないか、という点。死刑の運用については秘匿性が極めて高いので情報公開が必要。

 

こういう、実際にあったショッキングな事件をベースに作りました、しかし、文学的昇華はおよそできていません(ドキュメンタリーの方がマシ)みたいな作品を観ると怒りがふつふつと沸いてくる。

 

本年6月の『ルックバック』も、最初の公開以降の批判や修正の経緯が経緯だけに、こうならないことを祈っている。