人文学と法学、それとアニメーション。

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テレパシーの条件は、公水さながらの透明さ?──『サンドランド』



私自身、鳥山明ファンでもないし、『ドラゴンボール』もあまり履修していない。他方で、しょうもないことを自慢し「どうだ、かなりのワルだろ?」と言ってる1周回った感のあるちびあくまも鼻につく。旬のとうに過ぎた杉ちゃんかよ(!?)。夏なのに寒い(!!)

 

……と、さんざんな先入観を抱きつつ、低気圧のせいで眠くて原稿が全く進まなかったため、とりあえず観に行ったのだが、めちゃくちゃよかった。

 

雨も降らず地下水も涸れたサンドランドで、保安官(シェリ)のラオは、街の人々のために砂漠の果てにあると考えている「幻の泉」を探す旅に出る。その際、街の子どもたちに国王軍から奪い取ったペットボトル入り水を配り歩いていた悪魔のベルゼブブと、お目付役のシーフを仲間に加えるのであるが──

 

旅の中途で、ラオがかつてのサンドランドの英雄だった将軍であったこと、ラオの名前を著名にした水星人との戦いと大爆発(ラオの妻やアレ将軍の父も巻き込まれた)のゼウ大将軍の謀略、国王による水資源の独占が判明し、最後はダムの破壊で終わる。

 

国王がさながら『夢のジャパネット高田』的安い通販TVCMで水を高額で販売している様子は、さながら日本国や東京都・大阪府・奈良・兵庫県を自党派のために切り売りする自民公明維新国民都民ファースト政治屋と瓜二つである。「公共」の代表格、つまり「誰のものでもない」はずの「公水」を独占するという手法は、これまた与党自民党の幹部と縁故がある外資系企業に水道事業を売り払ったことが想起される。「干上がるサンドランド」はあるいは「2023年の衰退途上国日本」なのかもしれない。

 

ゼウ大将軍に大虐殺と水資源独占の責任をおっかぶせ、国王はアレ将軍の後見のもとに生き延びたあたり、未だ天皇制廃止と共和革命に踏み切れない、そして旧日本軍がアジアで引き起こした虐殺の数々の責任を引き受けきれない日本人的想像力の限界を、鳥山明ですら超えられないのかという印象を受けないではなかったが、旅の途中でのラオとベルゼブブ(及びシーフ)との間での、種を超えた信頼関係樹立の話が素直に良かったのでその辺はまぁ比較的どうでもよくなった。

 

妻と、多くの国民の仇たるゼウ大将軍を殺せない、いな、殺さないあたりが、ラオのラオたる由縁なのよな。それは、ゼウが国王軍の兵士もろとも自分を爆弾で消し去ろうとしていると察し、自分に銃口を向ける兵士たちの前にとっさに身を晒して負傷してしまうほどのお人好しさであり。

 

ベルゼブブが言う、「テレパシー」は「心が透明でないと使えない」というセリフは、さながら「自然体」なら「信頼関係」が構築できる、というエピキュリアニズムそのものである。もちろん、以心伝心では普通はクリティークに欠けたナッジに堕ちてしまうのであるが、他方でクリティークを絶やさない形での以心伝心であれば、これ以上ない理想型である。フィクションだからこそ描けるが、他方でラスト航空母艦に忍び込んだところでシーフに明かされる、ラオの銃には実は弾が入っている事実は、ラオがクリティークを欠かしていない証拠である。

 

また、偏見が真実を歪め、目を曇らせ、判断を誤らせ、ひいては虐殺といった悲劇を招くことも示唆されており、これはそのまま、従来の東京都知事が行ってきた関東大震災時に虐殺された朝鮮人慰霊碑へのメッセージ送付を6年連続で拒否している小池百合子東京都知事が向き合わない過去をもたらした原因とパラレルである。

 

「悪魔より悪いことが許されると思うのか」、これは諸刃の剣だが、マディソン流の権力分立論の発想には繋がる。