人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

「アオサギ又はサギ男」についての覚書:『The boy and the Fiction』──宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』評註


一切の宣伝なし、劇場パンフレット販売もなしという異例の状況下で公開が続く『君たちはどう生きるか』は、「難しい」「よくわからない」はては「宮崎駿の走馬灯だから意味不明で正解なんだ」という見解まで出てくる状況である。

 

しかし、特に『ハウルの動く城』で見せた社会に対する透徹した見方と解決策からして、宮崎駿がそのようないい加減なものを作った、という診断を下す前に、まだ色々やれるorやるべき作業はあるだろう。

 

手がかりは、もちろんビジュアルポスターである。

 

つまり、アオサギ又はサギ男。

 

まずはここを見ろと言われているのだから、素直に見ようではないか。

 

君たちはどう生きるか』の英題は『The Boy and the Heron』。


直訳すれば「少年とアオサギ」である。


この「少年」は眞人、「アオサギ」はアオサギ又はサギ男だとして、ではこのアオサギ又はサギ男とは何か?


字面から直ちに連想されるのは、詐欺≒ウソ≒フィクションである。


つまり、本作は「少年とフィクション」というタイトルなのである。


ここまでくれば、もうほぼ本作の読解ができる。


そして、アオサギ又はサギ男は「フィクション」そのものの暗喩だとして、ここでの文脈に沿ってさらに正確に言えばこれはアニメーションそのものの暗喩であろう。

 

アオサギ又はサギ男は、劇中現実では眞人にしか見えない。塔から帰ってしばらくたったら眞人からも見えなくなって、あるいは記憶から消えてしまうのである(しかし、そう考え始めると、『千と千尋の神隠し』もトンネルの向こうの世界はフィクションの比喩ではないか・・・とかと考えたくなってくる)。


たとえば吉野源三郎君たちはどう生きるか』に代表され、また塔の中に大叔父が収集した本(メインカルチャー)と対比されるところのサブカルチャーである。


また、アオサギ又はサギ男は半人半鳥なのもポイントで、半分は地に足がついている(完全なファンタジーではなく半分は現実に繋がっている)、のである。


有限の生しか持てない人間が、そして無意味な生を生きざるを得ない人間が、それでも世界に対してできる(可能性がある)ことに対して、宮崎駿は自覚的である。まぁこれだけアニメに向き合い、アニメを作ってきたのだから当たり前である。


そして、宮崎駿は、暴力の極たる戦争、その戦争を動かすメカニズムとしての徒党形成(『ハウルの動く城』の魔女の使い魔達の個性の無さ=唯一無二でなくかけがえがある様は、本作のインコたちに通じているし、ハウルのラストでの国際的二重分節の成立こそが肝であり、案山子王子はその意味で端役ではなく必須のキャラクターなのだが、その話はまたどこかで)、そこに切り込みうるのがアニメーションをはじめとする広義の文学であることに自覚的である。そしてそうであるがゆえにファンであるにもかかわらずアニメーションに耽溺し自意識を庇うだけで社会ないし他者に目を向けないオタクが心底嫌いなのである。


以上を踏まえれば、眞人が大叔父の理想郷(塔)から持ち帰る石の切片は、フィクションから我々が得得る何かの暗喩であり、そしてもっと言えばそれは小さな小さな切片にすぎないことの暗喩であろう。


つまり眞人にとってのアオサギのことである(眞人ーアオサギの関係が、我々観客ー『君たちはどう生きるか』をはじめとするフィクション、という関係とパラレルになっている)。


そのうち忘れてしまうが、しかし大切なもの。


我々がフィクションから何かを持ち帰ることができる可能性があるということは、同時に、我々がフィクションを作ることによって世界になしうる可能性があるということであり、そしてそれは我々の死後においても我々が作出したフィクションが存在し続ける限りなおなし続けうる可能性であって、有限な各人の人生を超える営為である。


そのような、世界を規定し続けるフィクションは他者、しかも時代を超えた他者に対する想像力そのものであり、ともすれば自身が神になること、ないし神なき宗教を作出することなのかもしれない。

 

劇中の吉野源三郎君たちはどう生きるか』の本に、母の「14歳になった眞人へ」という、事実上の遺言みたいなメッセージが書かれているが、あれこそはフィクションの、つまり自分がいなくなった世界でそれでも残り続ける意味作出の、一番始原的な形ではないか!あの母からのメッセージを真摯に受け止め、吉野源三郎君たちはどう生きるか』をまともに読み涙さえ流した眞人だからこそ眞人は自身の悪意を認め反省できたのである。


同じことが、アニメを観るファンにもまた言えるのではないだろうか?

 

宮崎駿の事実上の遺作、アニメ監督人生の集大成こそは、フィクションないしはアニメーションの象徴であるあのキモカワなアオサギ又はサギ男である。

 

何か物足りないような、しょうもない気もするが、しかし、これはクレヨンしんちゃんのケツダケ星人と同じで、天才的な発明なのかもしれない。


そう考えると、不気味で小憎たらしいしかしラストは粋なことに「友達」認定してくれるアオサギ又はサギ男にとても愛着が湧いてくる。