人文学と法学、それとアニメーション。

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wi(l)d-screen baroqueとは、キャラクターを生身の人間にすること。すなわち、魂(animus)を吹き込むこと──『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』まとめ

※本論稿は本ブログの『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』に関する3つの断片的な論稿をベースにしつつ大幅に加筆修正したものである。

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 華恋、ひかり、真矢、クロディーヌ、まひる、なな、純那、双葉、香子の9人に与えられている課題は、101回聖翔祭決起集会で明らかにされた台本の女神たちの台詞で示唆されている(だからそこにいない華恋・ひかり及び理解しているなな・真矢以外のクロディーヌ、まひる、純那、双葉、香子はみんな決起集会最初には蔭に居るのである。)

 

「囚われ変わらないものはやがて朽ち果て、死んで行く。」

「だから生まれ変われ。古い肉体を壊し、」

「新しい血を吹き込んで。」

「今居る場所を、明日には超えて。」

「たどり着いた頂に背を向けて。」

「今こそ塔を降りるとき。」

 

 要するに、一言で言えば、現状で満足してぬるま湯に浸かったまま安穏とするな、ということであろう。

 

 キャラクターがある達成を行ったことで「役」を降り、次のステージに登る話はしかし、『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』に限らず、普遍的なテーマであり、それこそ近時の『ヒロアカ』『ガルパン最終第3話』『ハイキュー!!』等枚挙に暇がないくらいには意識的に描かれるようになってきているとは思う。

 だから、『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』の特異性は、キャラクターが役を降りる(そして「次」に向かう)、という「結果」にあるのではなく、その「手続」にこそあると言うべきだろう。そして、その「手続」とはまさに他ならぬ「舞台」=「wi(l)d-screen baroque」である。

 そのwi(l)d-screen baroqueの舞台においては、彼女たちはwildに演じなければならない。

 では、何を演じるのか?

 具体例に即すならば、それは「本音」(怨みのレヴュー)「本物」(競演のレヴュー)「自分」(狩りのレヴュー)「剥き出し」「曝け出す」(魂のレヴュー)「あなた」(最後のレヴュー)等である。

 つまりは、演じる必要があるのは他人や他者の役ではない他ならぬ「自分自身」である。が、注意を要するのは、その際「自分自身」を演じることの意味である。単に「自分の社会的役割」を演じれば済むのではなく、「本心」を「曝け出し」て演じる必要がある。

 「本心」を「曝け出す」ということは、傷つき、血が流れることを示唆する。皆殺しのレヴューは脚本家・大場なながいつまでもぬるま湯に浸かっている同期たちに向け用意した、死の(確認の)「儀礼」の「舞台」である。1巡目で「ルールがわかりますか?」と歌いつつ(本来ななは二刀流なのに)短刀1本で切り込んでいることに加え、この時点ではまだ誰の星もはじいてないので、1巡目は「殺すべきかの確認」であって、しかし「みんなルールがわからない」ので確認完了で2本目長刀登場、(わかっていた)真矢以外皆殺しにする、という手順になる。「舞台」の上だからこそ本気で、冷徹に、峻厳に、一方的に有無を言わさず殺す必要がある。

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***

 

 「本心」を「魂」と呼ぶことも可能だろう(あるいは『攻殻機動隊』チックに言えば「ゴースト」か)。

 そして、この「魂」とは、まさに99期俳優育成課の主席・次席の間で争われた「舞台」「役者」の意味を巡る正統派の争いともいうべき、劇場版で事実上鳳に位置したレヴューのタイトル、「魂のレヴュー」に含まれる言葉である。レヴューの中では、どのような役でも演じられる、感情や欲望とは無縁の「空の器」こそ、天才・天堂真矢の目指した「舞台人」の理想であると真矢自身により提示される。それに対して、「お前が空の器だとすれば魂はどこだ。おれが賭けをした相手はどこだ。」というクロディーヌの台詞が出てくる。これは、直接的にはレヴュー冒頭の舞台人(真矢)と悪魔(クロディーヌ)との、舞台人の魂を賭けた「契約」のことを指して言っているのであるが、この台詞には、それにとどまらない含意がある。「魂」はラテン語で「animus」であるところ、animusはまた「意思」のことでもある。デカルトの二分法では身体=corpusに対置されるところの「意思」=animusのことである。近代民法の契約理論においてはこの「意思」(=animus=「魂」)がなければ、契約は無効になる。悪魔(クロディーヌ)の、「騙された!これじゃあ契約が成立していなかったじゃないか!」という悲嘆は、「魂」=animusがない以上、animus=「意思」もまた存在しないのであり、契約不成立を導く以上、法学理論的に見て極めて正しい嘆きなのである。また、ここでの契約の中身が「この世で浴びたことのない最高のキラメキ」を見/魅せられたときには、お前の「魂」をもらう、というものなので、「魂」があることが「意思」があるというだけでなく「原始的不能ではない(=社会通念上実現可能性がある契約内容である)」という契約の成立要件双方にかかっているのである。言い換えると、クロディーヌが真矢を「魅了」できたその時には、その前提条件たる「魂」=animusが存在しているため、契約は意思に基づくと同時に原始的不能でもないことが論証され、クロディーヌが真矢の「魂」を手に入れることになる。しかし実はこれは契約の要件効果が同一なのであって、「魅了」された時点ですでに「魂」は奪われているのであるが。笑

 もっとも、より原理的(・メタ的)に考えると、本来アニメキャラクターに過ぎない天堂真矢が、animusを持ちうるはずがない。紙(あるいは画面)にペンでそういうキャラクターが描かれているだけである。しかし、全てが「舞台」の上の出来事であり、全てのキャラクターが「役者」であるアニメーションの中に再度「舞台」を設置することの意味は、キャラクターの「本心」を「曝け出して」演じるよう求められているということが繰り返し明示される以上、現実世界で行う舞台の持つ意味からは逆転し、むしろ「現実」を「舞台」の上で表現しなければならない、ということである。つまり、そこでこそ彼女たちはキャラクター=役者のペルソナを外した「生身の(あるいはワイルドを厳密に反映すれば「野生の」)人間」として魂=animusを持ち、それに従って振る舞うことができるのである。要するに、舞台の中の舞台においてはじめて、キャラクターは役を捨て、生身の人間として振る舞うことが可能になるのである。

 これこそが、5歳の頃のひかりが言う「舞台の上では奇跡だって起きる」「舞台の上では、なんにだってなれる」こと=つまりキャラクターが生身の人間になれるということ、なのである。余談ではあるが、愛城華恋死亡~マッドマックス~復活の様はさながらキリストの復活であり、それはやはり「舞台」の上だからこそ起こせる「奇跡」なのである。

 果たして、クロディーヌは4幕もの時間をかけて、「空の器」であったはずの真矢を「魅了」することに成功する。弾き飛ばされた神の器=鉄の鳥の目が、炎に熱せられて溶け、ちょうど涙が浮かんでいるようになったところで切れ、次のカットが真矢が同様の構図で目に涙を浮かべているのは、その直前の「西篠クロディーヌ、あなたは美しい」と呟いた(認めた)ことからも明らかなように、クロディーヌに心を奪われたことの示唆である。同様に、空の額縁を貫通して刺さる(星を弾く)剣も、まさに天堂真矢がただの空の額縁ではなく、その実体たる中身=animusが存在し、「刺さった」からこそ、星を弾くことができるのである。さらに、第Ⅳ幕では、呼びかけが「真矢」「クロディーヌ」である上に、「わたしにはアンタを」(クロディーヌ)「わたしにはあなたを」(真矢)となっており、もはや第Ⅰ幕の「役」である「舞台人」と「悪魔」ではなく、「天堂真矢」と「西篠クロデイーヌ」そのものの「役」つまりお互い「自分自身」、しかも「真矢」の「神=空の器」が暴かれた後なので「全てをさらけ出した真矢」になっているのである。

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「やっといつものアンタになったわね!」

「なんと醜いこんな感情にまみれた姿!」

「もっと見せろ天堂真矢!観客はそれが見たいのよ!」

 

「アンタ、今までで一番かわいいわよ!!」

「私はいつだってかわいい!!!」

 

***

 

「本心」を「曝け出す」ことでしか解決できない人間関係の執着がある。しかし、それは日常生活上ではなかなか解決(=切断とそれによる自由の獲得)ができない。それを解決するには、非日常の(日常=生の贈与交換関係から遮断された)、そして認知や感情や人間関係を舞台上で極大化することによって観客ひとりひとりが自分自身を見つめなおす「拡大鏡」の機能を持つ「舞台」がふさわしい(「ハムレットが説明しているように、「演劇の目的は、昔も今もいつも変わらず、いわば自然に向かって鏡をささげ、正邪をその姿形のままに、時代の本体に応じて、そのありのままを写すにある」(E.カッシーラー〔宮崎音弥訳〕『人間』210頁))が、本作では、単に舞台というだけでなく、9人の強い強い想いに見あう極大表現たるワイドスクリーンバロックでなす必然性があるのである。

 執着からの解放、Epicureanismに基づいた自然体の、あるべき信頼関係(bona fides)を実現することは、たとえば夏目漱石が主として文学において取り組んだ課題であるが、それをアニメ映画でやるとこうなる、ということでもある。もちろんこれが唯一の道ではない。主題は同じでありながら表現手法として正反対の極にあるのが『リズと青い鳥』であろう。表現手法に正解はない。そういえばラスト、青空に風に吹かれて羽ばたくマントたちはさながら「(青い)鳥」(=「執着」や「役」から解放されたという、自由の象徴)であった。 

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舞台少女たちよ、舞台の上で傷つき、舞台の上で死ね!

 

徹底的な破壊のあとにこそ、希望=次の舞台は芽生える。

 

(もっとも、全てのwi(l)d-screen baroqueで「傷の修復」というモチーフがちらっと描かれるのであるが。全力でぶつかった結果、特に「狩りのレヴュー」は大場シナリオでは純那にはっぱをかける、等が目的ではなく単純に役者としてのキャリアに引導を渡すことしか考えてなかったのだろうからなおさらであるが、生じた亀裂が(新たな関係性のもとに)修復されたことのほのめかしを、製作陣としてもしておきたかったのだろう。「怨みのレヴュー」はミラーの割れた部分の上に花びら。「競演のレヴュー」はまひるが砕いたミスターホワイトの首がガムテープで修復されている。「狩りのレヴュー」はななが刺突した結果純那とななの写った写真の間に空いた隙間が噴水の水が浸透して中側に折れひっついたように見える。「魂のレヴュー」はクロディーヌが刺突した傷がついた契約書の傷の上で真矢とクロディーヌが手をつなぐ、「最後のレヴュー」は華恋の胸部に空いたT字の刀傷の前にひかりがトマトを投げる。)