人文学と法学、それとアニメーション。

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人間はフィクションを作りフィクションに助けられて人生の荒波を進む──『バービー(Barbie)』評註

 

 

今、松濤美術館で「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」展をやっている。

(行ってないので文章を繋げられない!笑)

 

『バービー』は、人形というものをとおして人間というものを顧みるお話であり、「男社会」も「バービー」も人間が過酷さに打ち勝つために作り出したもの……というバービーの生みの親(ルース・ハンドラー)の話のところで感極まってしまった………「脱税」に「乳がん」の苦労、会社を追われたこと、そして娘たちは「バーバラ」という自身の名前を人形につけたことを随分恨んでいたということ……色々思い通りにならない人生だったのだろう、いな、それこそが人生なのだろう。

 

人生と思い通りにならなさについては、近時、世阿弥の『風姿花伝』の「男時/女時」、九鬼周造の『偶然性の問題』、小坂井敏晶『増補 責任という虚構』、そして磯野真穂=宮野真生子『急に具合が悪くなる』を経由して、『ブレット・トレイン』の評釈で書いたところである。加えて、偶然と暴力の関係についてもそこで書いている。

 

暴力とポリコレ、そして運命列車──『ブレット・トレイン』評註 - 人文学と法学、それとアニメーション。 (hatenablog.com)

 

もちろん、ここで「男社会」を「バービー」と並べているのは、社会構築主義を前提とした社会観の強調である。

 

そして、母親と娘のバービーひいてはフェミニズム観を巡る対立の根底には、第二次フェミニズムと第三次フェミニズムの世代間の亀裂が見え隠れするあたりも面白い。「ファシスト」と言われ「工場も電車も持っていない・・・」と泣く(´;ω;‘)バービーはさすがに面白すぎる。笑

 

しかし、それだけではなく、人生のままならさとそれに対抗するための仕組み(フィクション)の話である(丸山真男「肉体文学から肉体政治まで」)。

 

これはたとえば、「魔法が使える自分に浮かれて、母の気持ちにも気付けなかった」月白瞳美と、「一番親しい人たちを、幸せにすることができなかった」月白琥珀の祖母と孫の話を一つの基軸に据えた『色づく世界の明日から』における、「魔法」の位置に、「バービー人形」が入ると見ることもできる。

 

もちろん、『バービー』は、アランやケンの話も通じて、自己アイデンティティの確立にあたり他者(支配)を利用しないで達成するという理想型を示すこともテーマにしている。

 

バービーが女性のステロタイプから降りる必要があったように、ケンもまたバービーという依存対象から切り離されたところでアイデンティティを確立する必要がある(そうでないとまた他人を支配することで自己定義をしようとしてしまうから)。

 

「It's me?It's me!」は人形に自我が生まれた瞬間の叫びであり……もちろん『ピノキオ』が想起されるわけであるが……まさに(他人の目線が気になって気になってしょうがなかった)私自身が近代的自我を獲得した瞬間を思い出しましたわね。

 

そして、いったん決まった役を捨てて、また別の役を演じる、さらには自分自身を演じる……というのは、言うまでもなくそうですね、『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』の主題系です!!

 

wi(l)d-screen baroqueとは、キャラクターを生身の人間にすること。すなわち、魂(animus)を吹き込むこと──『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』まとめ - 人文学と法学、それとアニメーション。 (hatenablog.com)

 

まあ西欧で人気が出るのはよくわかるし、儒教社会の中国で爆発的ヒットになるのもわかる内容でした。

 

しかし、ケンのクーデターによるバービーランド憲法改正は正直爆笑してしまった(バービーランドに憲法があったとは‼︎)。笑

 

【補論】

Barbenheimer合成写真やタグにワーナー公式が乗っかった件については軽率だし愚かであったと思う。他方、ワーナー本社、日本法人ともに謝罪はしている。もちろん公式サイトでの謝罪でなかったり具体的な再発防止策などが提示されておらず、不十分であるというのは非常によくわかるし、私自身ボイコットで観に行くのを躊躇したのも事実であるが、他方で全く謝罪などなしに開き直っている他の多くのケースよりははるかにマシだろうと判断し、今回は観に行くことにした次第である。