人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は一体何をしているのか?

演劇は認知や感情や人間関係を舞台上で極大化することによって観客ひとりひとりが自分自身を見つめなおす拡大鏡であるところ、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』では、演出などを自由に弄れるアニメにおいて、現実パート/舞台パートの2層構造にすることでさらにより明瞭にそれらを拡大することに成功している。

 

しかし、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において演劇との関係で注目すべき点はそこだけではない。

 

本来、「舞台」の上では「役者」は「生身の人間」として登場してはならず、「役」を「演じる」必要がある。しかしもとより「役者」として存在する「アニメキャラクター」には「生身の人間」部分は存在しない。「アニメ」こそが「舞台」そのものだからである。その全てが「舞台」である「アニメ」の世界で、入れ子的に──つまりレヴュー=再演として──「舞台」をなすことの意味は、現実世界とは完全に逆転する。すなわち、「キャラクター」は「舞台」の上で”こそ”「役」から外れた「生身の人間」を演じなければならない。

 

なぜレヴューで血が出るような斬り合いをするのかといえば、それは斬れば血が出る生身の肉体がいままさにそこに顕現しているかのように(as if)表現することが、生身の精神を比喩的に把握させるからであろう。そしてもちろん仕掛けはこれだけでなく、生身の精神はむき出しの闘争本能、執着、嫉妬、呪詛、承認欲求…etcとじかに描かれるのではあるが。

 

これぞアニメーション=人工物に対比されるところの生身の=ワイルドな舞台、すなわち━━ワイド・スクリーン・バロックによる極大化は維持しつつさらにそこに加えられたところの「ル」、すなわちワイルド・スクリーン・バロックそのものである。

 

「がおおう」(「狩りのレヴュー」における大場なな)

 

津田健次郎キリンに換喩される観客は構造自覚的な”それ”こそが━━つまりアニメキャラクターにanimusが宿る奇跡の瞬間が━━観たいのである。

 

『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』がやっていることは、アニメキャラクターを役割から解放しアニメ世界に生身の人間を作るということ。要するに近代演劇の再演をすること。これである。

 

※ワイルド・スクリーン・バロックについての記述部分はこもん( @commonko )さん(ブログ:

https://commonko.hatenablog.com/entry/20210613/1623528487

)とのやりとりに負う部分が大きい。ここに感謝申し上げる。