人文学と法学、それとアニメーション。

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キャラクターが「死ぬ」ことの意味━━『ゾンビランドサガリベンジ』12話と『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』覚書

突然であるが、『ゾンビランドガリベンジ』12話の主題系、『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』と相当連関がある。

 

さくら達個々のゾンビィは、一度死んで生き返った。そして、本懐を遂げてきた。12話でも、さくらの本懐、というか成長が見える。かつて一番最初に諦めようとした「持ってない」さくらが、「絶対に諦めない」と言うそのさまは、本当にこっちまで勇気づけられる。

 

一方で、華恋たち個々の舞台少女もまた、大場なながwi(l)d-screen baroque「皆殺しのレヴュー」で天堂真矢以外にはとどめを刺した(劇画的にはどちらかといえば切ってるわけですが)ように、一旦死に、そして生き返った。

 

確かに、さくら達は劇中現実で死に、そして生き返って劇中劇(舞台=ステージ)に立っている。これは華恋たちが劇中現実で死んでいるわけではなく、ただ劇中劇(wi(l)d-screen baroqueの舞台)で死んだ(=本物の、肉体的な死の比喩を精神的な比喩〔ぬるま湯につかっていると魂が死ぬ〕に使う)にすぎないことと比較すればズレがある。

 

しかし、劇中現実も劇中劇も現実世界の我々から見るといずれも「アニメーション」という「舞台」(=フィクション)の中での「キャラクター」の「死」であって、いずれにしても「死」は本物の、肉体的な「死」の比喩ではなく、精神的な死の比喩として把握可能である。

 

舞台の上で、お化粧をした上でしか人間になれないゾンビィたち。

 

舞台の上でしか血を流せず、本気で傷つけず、欲望や感情をむき出しにできない舞台少女たち。

 

でも実は、そこに本質的な差はないのである。

 

***

 

あらゆる災厄を前に、神や悪魔に頼ってはダメで、人間の力でどうにかしなければならない。それはアニメで描かれた範囲では佐賀事変から続く人々の努力、あるいは犠牲の上に、今日があるのである。それは神や悪魔のお蔭では、ない。『天気の子』の主題系であり、それが天皇のお言葉一つで民主政が揺れてしまうコロナ禍の2021年6月24日の日本の現況に痛烈に刺さる。他方、SNSをも駆使した、これまでフランシュシュが関わってきた人たちとの「連帯」も描かれた。こちらは『君の名は。』の、宮水神社の伝承の話(龍を網でからめとるという神話)。そういや糸守も地方であった。

 

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以上を要するに、『ゾンビランドガリベンジ』12話は、ミクロ(さくら達個々のゾンビィ)のリベンジ≒復活と、マクロ(佐賀)のリベンジ≒復活(しかも過疎化という長期の課題に加えて災害という短期の課題)をフランシュシュを中心に積み上げてきた人的紐帯で成し遂げる綺麗な構造のもとに締めくくってくれた。

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