人文学と法学、それとアニメーション。

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現実の舞台化と舞台の現実化━━『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』評註

 

この世は舞台、人はみな役者だ──ウィリアム・シェイクスピア

 

さて、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観てきました。凄まじいパッションと畳みかけで圧倒されまくりでした・・・。

 

実はテレビ版は未見なので(!?)決着をつける前提になる人間関係自体はあまりわかっていなかったのですが、それでも十分に楽しめました。

 

2021年に入ってからのアニメ映画のランキングでは本日公開のポンポさん及びシンエヴァを抜いて1位ですね・・・。

 

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転調といきなりの舞台(舞台?)はもはやピンドラ〜さらざんまいのお家芸だが、雰囲気化物語障り猫BGM的転調がある(ある)。あと、国立競技場と五輪まで出てくるとこれは傷物語である。笑

 

エヴァもそうであったが「決着」ブーム?のようなものが来ているのだろうか。いや、まあ卒業と進路に絡んでの話であったので、新エヴァとは無関係でも決着が主題化する必然性はあったのであるが。

 

あと東京タワーと電車のモチーフは(ピンドラ~さらざんまい以降も)依然健在。

 

りんごはトマトになったものの、贈与のモチーフも依然健在。

 

「最初に私(神楽ひかり)を生き返らせたのは、あなた(愛城華恋)よ」。

 

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そう、内気で、自信満々なひかりを追いかけてばかりだと思っていた華恋が、実は神楽ひかりが幼い日に本物の演劇を観て折れてしまった心に、再び火をともしたのだった。

 

華恋の「進路未定」の原因は、「ひかりと同じ舞台に立った後」に先がない、想像できなかったこと。

 

それが約束だったし、引っ張ってくれたひかりより先には行けない。

 

行けないが────

 

この13年間、ひかりの後を追っていた華恋の舞台への努力は、もう既にオリジナルなものに転化し、ひかりのあとを歩くばかりの華恋ではなくなっていたのである。

 

あとは、それを認めるだけでよかった。

 

「ひかりに、負けたくない!」


はじめて「ちゃん」が取れ、依存関係から対等な関係になるのである。

 

だから、ラストのワイルド・スクリーン・バロック(ひかりvs華恋)がそれまでのワイルド・スクリーン・バロックよりもある意味淡泊であったのはこのせいである。

 

これも、偽物が本物になる瞬間の、私が極めて好きな主題系である(例えば『リトルウィッチアカデミア』のアッコとがシャリオから、『僕のヒーローアカデミア』のデクがオールマイトから、『ハイキュー‼』の日向が小さな巨人から、力をつけ、それぞれ自律していったように)。

 

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人生は舞台で舞台は人生だからこそ、舞台の上では切れば血が出るように本気になって、剣を使って(≒感情や精神をむき出しにして本音で)演じないといけない。

 

他人の、形だけの言葉では刺さらない(星見純那への大場ななの批判)。

 

舞台の上“だからこそ”本音を吐露できる(普通は逆)のが、突然はじまる日常の舞台化と相俟ってそこが現実かフィクションかわからない非常に曖昧な空間を作る。

 

儀礼は日常の中に非日常を作るが、材料は日常からしか調達できない。

 

しかし、舞台の上に上がるからこそ少女たちは、日常から切りはなされて、赤裸々な本音をぶつけ合うことができるのである。

 

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少女たちよ、舞台の上で傷つき、舞台の上で死ね!

 

徹底的な破壊のあとにこそ、希望=次の舞台は芽生える。

 

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ハムレットが説明しているように、「演劇の目的は、昔も今もいつも変わらず、いわば自然に向かって鏡をささげ、正邪をその姿形のままに、時代の本体に応じて、そのありのままを写すにある」(E.カッシーラー〔宮崎音弥訳〕『人間』210頁)

 

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はこれを愚直に再演している(ただしアニメなのでメタ的になる)。

 

ゴフマン『行為と演技』を読み直さなくては。

 

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(おまけ)

 

「こういう風に、偉人の名言の引用で文章書くのがダメだと星見純那が大場ななに指摘されていたんじゃん!反省はないのか!」

 

「いや、あれはようするに自分の血肉にしていない誰か偉いさんの言葉を使っても響かない、という話で、血肉にしていれば問題ないのだ。」

 

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※補正1 ラスト、青空に風に吹かれて羽ばたくマントたちはさながら「(青い)鳥」(=自由の象徴)であった。

 

※補正2 トマト・血に骸骨とダヌンチオが連想されたわけだが、本格的な検討はまたそのうち。

 

2021年6月5日19時 補正1及び2を追記。

 

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※補正3 アニメにおけるキャラクターが、バミられたその位置(=記号性)から自分の意思でズレて動くということは、自己性(Selfishness)と同一性(Identity)に分解される自己同一性=ワタシの同一性の否定、揺らぎからの自己性の再獲得=再生産そのものの謂いである。だからこそ少女たちは血を流して死に列車(必ず次の駅へ行ける安定した人生の象徴)は爆発脱線し東京タワー(憧憬・目標の象徴)はポッキリと折れるのである。はからずも「切断」というワードで『映画大好きポンポさん』と繋がる──もっとも「切断」の対象は両作品で異なるが。アニメにおいて、あるいはフィクション(含演劇)において劇中で死ぬことは常に精神的な死の暗喩でありうるし、精神的な再生の暗喩でもありうる。破壊と再生のために必要な舞台が、ワイ(ル)ド・スクリーン・バロックである。キリンは少女たちの情熱の燃料、それは少女たちの比喩たる野菜・果実からなる。

 

2021年6月6日午前11時 補正3を追記。


2021年6月15日「ちゃん」がらみの記述を加除。