人文学と法学、それとアニメーション。

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「跳ぶ」ために──『バブル』覚書

泡であるウタは、あの日、東京タワーでヒビキに歌を歌っているのを見つけて貰って、人間の言葉で言えば恋に落ちた。

それを快く思わない姉の泡が怒り、東京タワーの爆発が生じ、また東京が降泡現象で沈み、人が住めなくなった。
そんな中でウタはヒビキを爆発から守り、また日々見守ってきた。
ある日、ヒビキが東京タワーに挑戦し、海に落ち、溺れる。
それを助けるために、泡のウタは、見た生き物に(さながら受精卵のように分裂し、化け)猫、次いで電車広告のアイドルを見て、そのような見た目の人間の少女として、ヒビキにキスをして息を繋ぎ、溺死から救う。
しかし、ウタがヒビキの身体に触ると、泡になってその部分が消えてしまうという、さながら『人魚姫』の呪いのようなものがかけられており、ウタは大好きなヒビキに触ることができない。
しかしラスト、姉との対決でヒビキを溺死から救うため、自身が消えてしまうことを覚悟してヒビキを抱きしめるウタは、自身の幸せをヒビキに告げながら、泡となり消えてしまうのであった。135億年後に地球が他の銀河系と混ざり合い再編されるとき、原子レベルで再び出逢えると信じて。
もっとも、ウタは泡としてヒビキのそばにいるようである。
例の歌が聴こえる。
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まず、本作を語る上で注目すべきは、パルクールであろう。
アニメーションの本質は動くということにある。
であれば、上下左右キャラクターもカメラも動くパルクールは、あるいは映画『バブル』は、まさにアニメーション冥利に尽きる作品である(『ハケンアニメ』も「動く」作品ではないにしろ、もう一つのアニメーションの側面たる「刺さる」=フィクション的、ストーリー的側面をきちんと描くものであって欲しい)。その点だけでも見る価値はある。ただその意味では是非とも劇場で観るべき作品であり、Netflix先行でPCの小さな画面で見るには惜しい作品であったと言えるだろう(私は劇場まで我慢していたが、おそらく正解だった)。
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ストーリーは「沈む東京」「ボーイミーツガール」(もとい「ガールミーツボーイ」)とくれば、新海誠『天気の子』が直ちに連想されるであろうが、しかし逆に言えば似ているのはそのくらいであって、『天気の子』が示唆する犠牲の峻拒と古代ギリシアにおける本来の意味のデモクラシー樹立のパラデイクマ、故に「僕たちは大丈夫」なのだという圧倒的な説得力は『バブル』にはない。
現にウタは、少なくとも人の形は保てなくなってしまい、その意味では犠牲になっている。
しかし、『バブル』は人間たちの世界にとどまる話ではなく、45億年前の、135億年後の宇宙再編とそこでの今我々の身体を形作っている原子の再利用、というか原子レベルでの再会、そのコロラリーとしての滅びという壮大なテーマに繋がっている。そういう意味では『海獣の子供』に近いスケールの話である。
★『天気の子』について論じた拙稿はこちら★

hukuroulaw.hatenablog.com

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また「東京タワー」を一つ乗り越えるべき大きな試練と重ね合わせ、クリア後には倒壊させる部分は『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』を彷彿とさせるが、それもそこまでの限定的なオマージュにすぎず、「アニメーション」世界内部に「舞台」を設置し、そこで「本物」を演じることを要求することで、「魂」の創出を試みた『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』の主題系にせまる迫力は持ち合わせていない。もっとも、それがいいとか悪いとかいう話ではなく、端的に主題系が違うと言うべきなのは、先の『天気の子』同様である。ただし、パルクールは実は「アニメーション」内部の「ゲーム」であり、ニアリーイコール「舞台」とも言えそうではあるが、しかしその推論もそこまでではある。
★『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』について論じた拙稿はこちら★

hukuroulaw.hatenablog.com

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ヒビキが聴覚過敏を、さらにはそれに起因して母から発されていたともすれば聴覚過敏そのものより遥かにヒビキの精神的負担となっていた有形無形のプレッシャーとそれによるトラウマを克服するためには、ウタの歌が必要だったし、ウタにもまたヒビキが必要だった。
跳ぶために互いが必要であったという意味では、普通の人間同士の(理想的な?)恋愛と変わらない。
★「跳ぶ」ことについて論じた劇場版SHIROBAKOについての拙稿はこちら★
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なお余談だが、8月公開のワンピースフィルム『RED』で出てくる同作のヒロイン、シャンクスの娘の名前は「ウタ」である。