人文学と法学、それとアニメーション。

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「本物」とはそうあろうとする努力である──『今夜、世界からこの恋が消えても』評註

 

1.あらすじ

 

事故の後遺症で前向性健忘であった日野真織は、前向性健忘が治癒しはじめる。昨日の記憶があったのだ。そこで部屋の片付けを始め、「毎日寝る前に日記をつけること」「毎朝ワープロを見ること」といった指示を剥がすなどしはじめる。その際、棚の裏に落ちていた一冊のスケッチブックを見つける。そこには、真織の知らない男性のスケッチがずっと書きつづられていた。前向性健忘の秘密を知る事故前からの親友・綿矢泉に聞いてみるが、「図書館で見つけてモデルになってもらった人だよ」と返される。しかし、それは事実ではなかった……

 

その男性は神谷透。真織の恋人「だった」。そして物語は過去、透の真織への告白のときに遡る。透の真織への告白は、いじめられていた友達を守る交換条件で、やむなくなされたものであった。しかし、真織はOKを出す。真織の親友の泉は透を訝しみ、詰問する。その結果、透は真織に事実を全て告げるが、真織からの返事は意外なものだった。「それで、透くんは、私と付き合いたくないの?」。真織からの申し出で、3つの条件とともに、2人は恋人の「ふり」をすることになる。その条件とは、①放課後まで互いに話しかけないこと、②LINEのやりとりはなるべく短くすること、③本気で好きにならないこと。2人は帰宅部だったので、放課後を使った交際がはじまる。

 

付き合いはじめてしばらくたったある日、2人は海へのデートに行く。父子家庭で料理を作っていた透の手料理を真織が食べたいと言ったからだ。透がお弁当を持参し、母が死んだこと、その母が残したレシピをもとに料理を作っていることを初めて他人に話し、真織もまた自分が箱入り娘だから彼氏が出来たと父が知れば激怒するだろうと話す。そして、透といる時間が心地良すぎた真織は、禁則事項をやぶり、ビニールシートの上で寝てしまう。その結果、真織は記憶を失い、透を知らない男性だと認識して逃げてしまう。泉ちゃんに連絡するも、到着前に透が真織を見つけ、真織は透に自身が前向性健忘であることを伝えてしまう。しかし透は、真織が失敗して寝てしまい、透に前向性健忘を伝えてしまったことを日記に書かないように告げ、2人で明日の真織を騙すことにする。果たして…今日の真織はそうした。

 

そこからは、真織の1日限りの記憶である毎日を楽しいことで埋めようと、透は真織がしたいことをずっと実現させていく。

 

ある日、透が手続記憶という概念を調べ出し、真織に絵を描くことを薦める。真織は中学で美術部だった。真織はもとから絵を描くことは得意だったようであり、透のスケッチに没頭するようになっていった。そう、最初に出ていたスケッチブックは、この延長上にあるものなのだ。

 

そして花火大会の日、真織は③つめの条件を破りそうだと透に告げるが、透は自分はもうとっくに破っていると返す。そして神様、どうかこの記憶を奪わないでと泣く真織に、透はキスをする。

 

そして月日は流れ卒業式。泉の「2人はお似合いのカップルだった。そして私は1人置いてけぼりにされた。」の不穏なモノローグ。卒業式の帰り道、真織と泉の会話に、透は出てこない。というか、会話どころか、卒業式にも出てこない。これは一体…?というところから真相が。

 

物語中で現在時点の泉ちゃんがちょこちょこカットインする場面で読んでいた「日記」が真織の本当の日記。そう、泉は真織の日記を書き換え、透の存在を真織の記憶から丸ごと消去していたのだ。

 

しかし、それは泉自身とても悩み、苦しんだ末の決断だったことが明かされる。

 

透は母と同じように心臓の病で急逝した。その直前に、もはや泉の親友でもあった透から、もし自分に何かあったときには、真織が毎朝、知らない恋人が若くして死んだ苦痛に苛まれないように、自分の存在を日記から抹消して欲しいと言い残されていたのだ。真織には記憶がない恋人・透の葬儀に連れて行って以降、記憶がないはずなのに真織は発狂し衰弱していった。その真織を見かねて、泉は透の姉・早苗に相談。早苗は泉ちゃんが辛いなら、私が改竄を請け負う。私には弟の遺志を継ぐという大義名分があるから、私のせいにしてくれて構わない、と告げ、その助け舟に乗る形で、泉は真織の両親と協力して真織が眠った隙に日記とスマホの改竄を行った。

 

だから映画冒頭で日記がパソコンに代わっていたのだ。

 

そして、日記と旧スマホは泉が保管していたのだ。

 

真織の前向性健忘が回復したと聴いて、泉は真織に「本物の記憶」を返す決断をし、日記と旧スマホを持って泉の部屋に入る。

 

すると、そこにはたくさんの透の絵。今まさに真織が絵の具で色付けしているものも含め、全て透の絵だった。「ごめんなさい……私は、私はあなたの大切な記憶を奪ってしまった」。泣き崩れて土下座する泉ちゃん。でも、一番苦しかったのはあるいは泉かもしれない。自分だって辛いのに、よく秘密を維持して頑張った……と思う。真織は泉に感謝を述べ、自分が描いてきた男性が自分の恋人「だった」神谷透だと知るのであった。

 

果たして、真織は透の足跡を辿り始める。早苗に連絡を取り、透の墓参りへ。そこで早苗は真織に「人はみんな忘れていくわ。私にとっても透が過去の人になり、忘れていくときがくる。だからあなたは前を向いて歩いて。」と告げる。それに対し真織は「私の記憶はないけれど、それでも彼が私に残してくれたもののおかげで今の私がある。だから、みんなが透くんのことを忘れていくなら、私は透くんを見つけていこうと思う。」と返す。

 

最後は真織と透の初デートで行った江ノ島の海。真織と泉がかつての真織と透と同じようにビニールシートに座り、弁当を食べる。真織は泉ちゃんに重大報告として美大受験を告げるが、そんな気はしてたとあっさり返される。そして再びビニールシート上でうとうとした真織は、かつて自分が透と来たときに目を覚ました際に見た景色と全く同じ景色を夢に見たのであった。

 

2.評註

 

めちゃくちゃ面白かったし、泣いた。

 

泉ちゃん、ぶっちゃけ嫉妬からの掠奪キャラかと思ったが、全然そんなことはなく、むしろ死ぬほど繊細ないいキャラだった。泉ちゃんの苦悩は死ぬほどわかる。「ごめんなさい。あなたの大切な記憶を私は取り上げてしまった。」でも、そうしなければ、そうしなければならなかった。そういえば遺言執行者には誠実義務があるのだった。

 

「恋人のふり」とはすなわち「偽物の恋人」なのであり、それを真織が選んだのは「本物の記憶」がないから、すなわち「偽物の記憶」しかないから。そして、「偽物の記憶」だからこそ、泉ちゃんは(もちろん良い意味でだが)真織の記憶を奪うことができた。しかし、その「偽物の記憶」に対して、前向性健忘の真織であっても「本物の記憶」たりうる「手続記憶」を残しうると透は気づく。なぜ気づくかといえば、花火大会のときに透が真織に告げたように③の本気で好きにならないこと、という条件を透が破ったからであり、つまり「本物の恋人」になったからである。

 

「本物」志向は素朴な欲求・執着として現代人の心に蔓延っているように見える。性交時にイクこと、オーガズムを求めるのは、意識が飛んだその瞬間をこそ「本物」だと捉え、それが見たいからであろう。あるいは映画に素人を起用するのも、俳優の演技力で糊塗されない「本物」を見たいからである。

 

(「主体たろうとする人間のいじらしくも懸命の努力の破綻の光景が見せ物にされること、それこそが問題なのだ。その点、性交におけるオーガズムにも共通するものがあるのであって、単にセックスを見せ物にするだけでは、露出趣味ではあっても「尊厳の侵害」とは言われえない。」(藤野寛「大衆の欲望と表現の〈リミット〉」『表現の〈リミット〉』280-1))

 

そうであれば、本作、『今夜、世界からこの恋が消えても』における「本物」志向もこの手の素朴な欲求・執着にすぎないのであろうか?

 

私はそうではないと考える。

 

近時であれば『僕のヒーローアカデミア』が明示的に主題とするところであるが、ヒーローとは才能や所与ではなく、そうあろうとして努力したその結果にすぎないのである。ヒロアカ世界の絶対的平和の象徴・オールマイトですら、当初は無個性の青年に過ぎなかった。本物のヒーローたろうとするその意志と、そのために積み上げた行為の結果こそが、限りなく「本物」に近い「偽物」、しかしその「偽物」こそが「本物」なのである。カントの理念についての漸近論を引くまでもなく、完璧はこの不完全な世界にありえない。それでもなお完璧を目指して努力すること。その結果こそが、まさに結果的に「本物」と呼ばれる代物なのだということである。これは性交時のオーガズムを見たいというような素朴な欲求・執着とは全く異なるタイプの「本物」である。

 

透は、「偽物の恋人」だった真織を本当に好きになり、「本物の恋人」にしようと考えた。その際に透がなしたことは、真織との間の楽しい時間の積み上げであった。それこそは「本物の恋人」と同じ積み上げなのであって、かくして「偽物の恋人」は「本物の恋人」に至り、「偽物の記憶」は「本物の記憶」に至る。

 

これこそは現実ならざるフィクションにおける展開の必然性、強度、リアリティ、説得力といった言葉で私がしばしば言及する積み上げの話とパラレルであり、故にフィクションではあるが「本物」がそこには顕現しているのである。

 

たとえば『映画「五等分の花嫁」』や『映画 聲の形』がこれである。

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