人文学と法学、それとアニメーション。

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付喪神からの照らし返し──『雨を告げる漂流団地』評註

 

1.はじめに

 

『雨を告げる漂流団地』、想定(想定とは?)とは違った話だったが、個人的にはとても好きな作品であった。これから何度も見返す作品になると思う。

 

見終わった直後は『ペンギン・ハイウェイ』とは違う作風だと思っていたが、夢のような経験と共に主人公の成長と共に大切な人(人?)が結局いなくなるという話で見れば『ペンギン・ハイウェイ』だなと思い返した。

 

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あとやっぱり(?)団地といえば『サイダーのように言葉が湧き上がる』だよな?

 

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2.付喪神

 

本作は、付喪神と人の話だと言っていいのだと思う。

 

その付喪神のおかげ(あるいは「せい」)で、命の危険もある「漂流」につきあわさる熊谷航祐や兎内夏芽たちであったが、その過程で、現在解体中でかつて航祐と夏芽が「やすじいちゃん」こと熊谷安次(航祐の祖父)と家族同然に暮らした「鴨の宮団地」をはじめ、「楢原のプール」やかつて夏芽がぬいぐるみを買ってもらい損ねた「デパート」、さらには令依菜が最初に連れて行ってもらった「やしまの観覧車」など、今はなき建物たちと遭遇する。これは、のっぽとお別れするところで明らかになるが、さまざまな色で光る鉱石?がある最終到達地点は、いわば建物たちの「天国」なのであり(その意味では無機質たる物の、しかし決して「宝石」のように煌めかない無機質たる物ではあるが、その「天国」を描く点で、本作もあるいは『宝石の国』の主題系かもしれない)、その三途の川を渡る旅が漂流だったのだが。

 

のっぽがずっと「鴨の宮団地」の人たちを見守ってきたように、「やしまの観覧車」の付喪神もまた令依菜のことを覚えており、身を犠牲にして助けてくれた。「楢原のプール」で非常袋を差し出してくれた何者かも多分付喪神で、「デパート」の物音も多分そうだったのだろう。

 

「やしまの観覧車」の付喪神と令依菜のエピソードといい、人に大切にされた物には魂が宿る。のっぽは航祐たちの「鴨の宮団地」の付喪神だった(なお、これは私の極私的な経験であるが、小さい頃家族旅行で寄った瀬戸大橋の途中にある屋島のパーキングエリアで「屋島の観覧車」を見た記憶があったな、と思っていたのだが、今調べていたらパーキングエリアがあるのは「屋島」ではなく「与島」であり、しかも観覧車はなかった(鷲羽山ハイランドの観覧車との混同?、そしてそれは『すずめの戸締り』のPVを連日映画館で連打で見(さされ)ていることと関係している気がしないでもないが・・・、あるいは淡路島パーキングエリアの大観覧車との混同だったのかもしれない)。人の記憶はかように不確かなものであり、なればこそ人は日記をつけるのだなァと。記憶の曖昧さについては『百花』、記憶と日記について『今夜、世界からこの恋が消えても』参照。)。

 

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ルカーチの用語を借りて「物象化」と言ってもよいのかもしれない(そして「客観化」へと進む道程は、バザン主義と相性が良いこともまた見やすい通理である。やはり一度どこかできちんとカントさらには物自体には到達しえないというテーゼを叩いておく必要がありそうだ)。あるいは、記憶の場所依存性(J.J.ギブソンの「アフォーダンス」)の話と言ってもよいのかもしれない。

 

いずれにせよ、付喪神の存在は、その付喪神を作出した人たちがもう既に忘れている昔の(大切な)経験や事実をも思い出させる契機として、その付喪神を生み出した人たち自身に照らし返される。

 

3.写真の客観性、付喪神、積み上げの三者の相性の良さ

 

そして、付喪神、つまり人から物自体に視点が移っていることから、物自体=客観をあるがままに写しとる「カメラ」、そして「写真」が物語全体で占める割合が高くなる(アンドレ・バザン主義)。

 

バザン主義については以下の論稿を参照。

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(また、偶発的な事象に言及するのは慎むべきとも思うが、直近ではエンディングをはじめ写真(とそれによる積み重ねの示唆)が重要な位置を占めた『映画「五等分の花嫁』が、また『NOPE』という見る/見られることの権力性について触れた作品もあった)。

 

ゆえに、ラスト、夏芽との家族ぐるみの関係が復活し、あの漂流を振り返る航祐が見返す漂流中に撮影した写真には、バッチリのっぽが写っているのである。

 

のっぽは「幽霊」と噂されており、まぁそういう見方もあながち間違いではないだろうが、ここでは、以上の付喪神と写真の客観性の親和性から、単に「心霊写真」にとどまらない、そこにのっぽが写っている必然性があるのである。

 

またラストワンカット、そのやすじいのカメラを転落から防ぐのは、航祐と夏芽の2人の手があるからであり(冒頭で航祐のカメラ機能つきスマホがベランダから落ちてしまうのは航祐だけでは掬えないものがあるからである)、その2人がフレームに収まる(航祐の母親から見た)ワンショットでさながら写真様に映され、しばらく残ってからエンディングに入るのには以上述べてきた意味での必然があるのである。

 

さらにそこからの派生、というか循環関係で、その「写真」こそが航祐と夏芽の過去の積み重ね、さらに周囲の譲や太志や令依菜や珠理それにのっぽとの「漂流」体験という確かな経験を積み上げるものとして機能しているのである。

 

そして、この関係性の積み上げの大切さという主題は、夏芽が大切にもっていた恐竜(?)のぬいぐるみが、なぜ大切になるに至るかについての理由にも関係する(これも物を大切にするという話でもある)。すなわち、夏芽は、最初はこのぬいぐるみは好きではなかったが、航祐と一緒にやすじいのところで暮らしていたときずっと一緒になったから、好きになったのである。

 

これは、近時『映画「五等分の花嫁」』でも描かれた、積み上げの大切さの話である。

 

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4.夏芽の自罰と嘘の笑顔

 

夏芽はこれでもかというくらい肉体的に傷つく(傷つけられる)。「楢原のプール」ではバランスを崩して賞状のガラスで膝を派手に切り、また右腰部を机で酷く殴打する。また珠理を助ける際に掴んだ鉄骨で左手掌全体がペットボトルを持てないほどに傷つき出血する。

 

それは、さながら自罰である。

 

そして、中盤で団地のベランダを挟んで交わされる、航祐と夏芽の会話で出てきた夏芽の「絶対一緒に帰ろうね」は、夏芽の(令依菜が嫌いだと言った)あの「笑顔」で締めくくられていることから、「嘘」である。

 

では、何について夏芽は自罰しているのか?

 

それは後半に明らかにされるが、夏芽は、自分のせいで航祐がやすじいちゃんときちんとお別れできなかったことをずっと悔やんでいたのであり、故に自罰的に振る舞っていたのである。

 

また、自分が元の世界に帰っても誰も喜ばないという悲観もある。

 

この夏芽の後悔と悲観を取り除き、嘘の「笑顔」を壊して、心からの笑顔を引き出さない限り、夏芽が現実世界に戻ることはない(『映画 聲の形』で、この笑顔を引き出さない限り硝子が死を選んでしまうのとパラレルである。つまり植野の位置に令依菜が居るのである)。

 

だから、航祐は、夏芽の後悔を取り除き、心からの笑顔を取り戻す必要があった。そして、そのために必要だったのが、のっぽが身に纏っていた(?)光の群れ、すなわち過去の思い出たちだったのである。

 

果たして、嵐を抜けたあと、のっぽが抱き合いしかるのち本気でののしりあいをしている夏芽と航祐2人の頭を撫でてあげるシーンで、後悔の内実の暴露と、夏芽の心からの笑顔が戻ってきた。

 

そして、ようやく、夏芽は航祐と元の世界に帰るためにのっぽと、さらにはやすじいとお別れをする決意ができたのである。

 

ゆえに、みんなが元の世界に帰ることができるのである。

 

5.『きみと、波にのれたら』

 

これは完全に偶然の産物と思われるが、イオンモールの映画館を出た直後、柱から流れていたミュージックが、「that's right 目を開けたその瞬間はじまるよ君とのストーリー♪」という、どこかで聞いた曲が連想される曲だった。よくよく考えていると、それは実は『君と、波にのれたら』の主題歌だったのだが、『雨を告げる漂流団地』も、『君と、波にのれたら』も、共に大切な人(ならざるもの?)との経験と成長を経た上で、幸せなお別れを描く、ビターでせつないし涙も出るが、でも前向きになれる作品という意味で似た作品だなと思った。

 

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また、上記の意味で『DEEMOサクラノオト-あなたの奏でた音が、今も響く-』とも似たエンドである。

 

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あと『怪獣の子供』かよ、とみまごいかねないシーンも一箇所あった(広大な海や宇宙(海と宇宙)とその神秘が出てきたらとりあえず『怪獣の子供』を連想する風潮…笑)

 

6.まとめ

 

以上、本作は、付喪神という独特の存在を軸に、写真の客観性バザン主義トラウマの克服成長積み上げといった私の好きな要素が散りばめられており、またラストもビターだがしかし前向きになれる作品ということでこれも好きで、総じてとても好きな作品となった。