人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

アニメ(ーション)におけるリアリズムとヒューマニズム序説――『リズと青い鳥』と『花とアリス殺人事件』

アンドレ・バザンはこう述べた。

 

「そして絵画や彫刻の起源に「ミイラ・コンプレックス」が見出されることだろう。徹底して私に抵抗した古代エジプトの宗教では、身体の物理的永続が死後の生を保証すると考えられていた。その点で古代エジプトの宗教は、人間心理の基本的な欲求、すなわち時の流れから身を守ろうとする欲求を満たしていた。」(アンドレ・バザン野崎歓ほか訳)『映画とは何か 上』9頁)

 

「絵画と比べた場合の写真の独創性は、その本質的な客観性にある。」(同15頁)

 

「映画とは、写真的客観性を時間において完成させたものであるように思われる。」(同18頁)

 

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本稿は、この(実写)映画の延長線上にアニメ(ーション)映画を位置づけることができるのではないか?という仮説の提示である。

 

無論、全てのアニメ(ーション)がそうであるというわけではない。

 

ただ、この(実写)映画の延長上にあることを意識して作られたアニメ(ーション)が存在し、そしてそれの代表例こそ『リズと青い鳥』と『花とアリス殺人事件』ではないだろうか。

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「純粋状態でとらえられた映画の特質とは、空間の単一性をひたすら写真的に尊重することにある」(アンドレ・バザン野崎歓ほか訳)『映画とは何か 上』90頁)

 

「バザンの大きな独創は、19世紀の写真術発明以来、写真の弱点とみなされがちだったその機械的性格のうちにこそ、芸術至上、類例のない重要さがあると正面から主張したことだった。自動的プロセスを通し、芸術家の「創造的介入」なしで得られた映像であるがゆえに、写真は「いかなる絵画作品にも欠けていた強力な信憑性」を獲得した。写真とともに初めて、「表象された対象物の存在を信じないわけにはいかない」という事態が出現したのである。そのことを、死に抗い、時間の破壊作用に抗して、今ある現実の姿をそのままに留めたいという、人間の根源的な「リアリズム」への欲望をかなえるものとしてとらえるところに、バザンの論の驚くべき迫力、説得力がある。」(野崎歓「訳者解説」アンドレ・バザン野崎歓ほか訳)『映画とは何か 下』266頁)

 

「リアリズムはファンタジーや空想と矛盾するのではなく、むしろそれを成立させるための必須の条件と考えられている。重要なのは「私たちがその現実性を信じることができるということなのである」。」(同270頁)

 

「しかし同時に、バザンにおいてリアリズムには、はるかに日常的な現実を対象としてそれをポジティヴにとらえる役割が担わされていることも忘れてはならない。物語を面白く見せることと同時に、背景となっている場所、人々や町の姿を映しとって肯定する力が映画にはある。そのことをバザンはとりわけロッセリーニやデ・シーカの映画をとおして確信するに至った。素人俳優を起用し、街頭ロケで実景をいきいきと取り込み、「革命的ヒューマニズム」(「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」)と呼ぶに足る精神を脈打たせた彼らの映画は、「現実への愛」にあふれているがゆえにバザンを魅了する。彼らのリアリズムは「物事をそのものとしてあるがままに存在させ」、物事に「愛情を注いでいる」(「監督としてのデ・シーカ」)。そこにバザンは、世界規模の悲惨な戦争を経た時代においてなお、映画が人々の希望でありうる理由を見出す。「映画は他のすべての芸術に勝って、愛にふさわしい芸術であると私は思う」(同)。」(同274頁)

 

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たとえばこのデ・シーカ『自転車泥棒』の延長にあるアニメ(ーション)として『リズと青い鳥』と『花とアリス殺人事件』は位置づけることができると思う。アニメーションにおけるリアリズムは鑑賞者の恣意に過ぎないと言われることがあるが、そうではない。

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(余談になるが、『自転車泥棒』で盗まれた自転車bona fides号は、山田尚子監督の『映画 聲の形』で永束がそれを探し将也に届けることで、bona fidesを繋ぐ役目を担うのである!)

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実写映画における「リアリズム」を、およそ原理が異なるアニメ(ーション)に持ち込むという途方もない企てを成し遂げたのが『リズと青い鳥』(あるいはもっと言えばそれ以前からの山田尚子監督作品)と『花とアリス殺人事件』という見方ができるように思われる。

 

本来実在しないアニメーション世界について、ワンショット性を維持することによって、我々に現実であるかのように感じさせることができる。映画撮影手法による現実感の作出。そうであるとすれば、キャラクターの実在性は、キャラクターの造形(だけ)によって担保されているわけではない。

 

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もっとも、バザンにとって、イタリア・ネオリアリズモの「ワンショット」性、「リアリズム」は単に技法の問題、ミイラコンプレックスへの愛着の問題だけではない。それは一つの思想、「革命的ヒューマニズム」なのである。

 

ここにきて、木庭顕の説く占有原理――社会や集団に追い詰められた最後の一人を守る、という古代ギリシア・ローマ以来の思想的系譜との接合がなされる。

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ヴィットリオ・デ・シーカの名画「自転車泥棒」を鑑賞すること」(木庭顕『ローマ法案内』75頁脚注2)

 

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「日常のちいさなものたち」に目を配ること(イタリア・ネオリズモ)と、占有原理(木庭顕)と、everyday communism(島崎藤村『夜明け前』―ゾラ)とは全ては繋がっている。

 

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花とアリス殺人事件』について言えば、ユダ父捜索編、実は一日の出来事だし、それが映画時間の丸半分占めてるあたりもワンショット性と関係があるかもしれない(時間的限定性)。

 

また、『リズと青い鳥』については、徹頭徹尾学校内部で終始する(空間的限定性)。

 

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【追記】『バス男』(原題『Napoleon Dynamite』)というアメリカ映画があるのであるが、これがどうしても『リズと青い鳥』と同様の、普段は切り捨ててしまうような細かな部分(たとえば、あまりイケてない主人公が、腕っぷしの強そうなヤンキー同級生に前後の何の脈絡もなく胸倉をつかまれ、ロッカーに打ち付けられるシーンが2秒入ったりする。笑)まで採集・再現することで、さながらアメリカのオタクの行動類型を収集したコレクションとでもいうべきものになっている。しかし、そのオタクなさがらの動きは、ラストの生徒会選挙でのダンスシーンで明らかになるのであるが、全て計算されたものであると鑑賞者にはわかる。偶然撮影されたもののように装いつつも、ダンスのキレから明らかなように、その偶然-無意識は、計算された行為である、という構造は、ダンス-山田尚子―『リズと青い鳥』-無意識-リアリズムの系譜に接続されると同時に、ダンス-バレエ-『花とアリス殺人事件』―ロトスコープ―無意識―リアリズムの系譜にも接続される。よく理解している人間たちが考えることは一緒、ということでもある。

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