人文学と法学、それとアニメーション。

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スナメリの恩返しは恩返しにあらず――『きみと、波にのれたら』評註

0.

 本作品の批評(Critique)をなすにあたっても、やはり最初に確認しておくべきことは、この作品は自然ドキュメンタリーではなく人間同士の関係を描いているというところである。そして、その中でも監督:湯浅誠あるいは脚本家:吉田玲子が「あるべき」と考える人間関係を描いていると見るべきであろう。港とひな子のような関係性が理想的か(無論港が若くして事故で死ぬという点は除いてだが)、理想的でないかの二択で問われれば、やはり大多数の人間は「理想的だ」と答えるのではないだろうか。

 

1.

 港とひな子のストーリーの出発点は、大学に入り一人暮らしを始めたひな子の住むマンションに隣の廃ビルに侵入して花火を打ち上げていたヤンキーグループの花火が引火し、そこに救助のために消防士の港が駆けつけるところから始まる。まず重要な点は、港は消防士=公務員=public servantである、ということである。即ち、港の給料は政府から出ているのであって、その政府の原資は納税者から委任された金銭たる税金である。つまり消防士は、個々の要救助者との間で全体的給付関係あるいは互酬関係(réciprocité)の構築をしないように設計された職務である。ひな子もこの「要救助者」の一人にすぎない。この救助シーンでポイントとなる点は、港は屋上に逃げたひな子をはしご車で救助する際に、ひな子が抱えていたサーフボードも一緒に救助していることである。その結果、班長に、「人以外のものを乗せるな」と怒られる。ということは、港はここでは消防士が守るべき規則にあえて違反してまで(ひな子だけでなく)ひな子のサーフボードも一緒に救助したということがわかる。その人さえ生きていればあとはどうでも良いというのではなく、「その人とその人が大切にしている物の関係性」をも丸ごと保障しようという港のメンタリティがここからうかがえる。[1]

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2.

 そこから港とひな子、二人の関係が始まる。最初のデートはサーフィンであった。そこで自前のキャンピング用小型バーナーでコーヒーを沸かし、卵サンドを作る港に、ひな子は感心する。その後もデートを重ね、二人は付き合うようになるが、海、山、公園と、アウトドアがお好きなようである。つまり、二人とも自然を愛するエピキュリアンであると言ってよい。ひな子の友人は毒舌のコブラとサソリであり、また港の妹・洋子も毒舌である。毒舌ということは直ちに嘘つきではないことを意味するわけではないものの、彼女らの毒舌は嘘をつかないが故のものである。であれば彼女らは自然体で生きることができているのである。また、港の後輩の山葵も、かつて洋子が不登校になっていたときに、港の家において港と洋子の母に対し「洋子ちゃんは洋子ちゃんのままでいい」、要するに自然体でいい、と言っていた。つまり港とひな子、それに二人の周囲の人々は、皆エピキュリアンである。一億総エピキュリアン(笑)。

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3.

 12月のデートで初雪後にサーフィンをすれば願いが叶うというひな子からの話を聞いた港は、「ひな子が自分の波に乗れるようになるまで助ける」、という自身の願いを叶えるために、ひな子に黙って一人冬の海にサーフィンに向かう。そこで波に乗れたものの、溺れた水上バイクの若者を救助しようとして溺死してしまう。

 最愛の港が死に、海から離れた場所に引っ越して抜け殻のように過ごすひな子に、洋子と山葵が会いに来た。その後喫茶店に行くことになるが、そのときひな子が例の歌を歌うと、水中に港が出てきた。港の課題は、ひな子を「ひな子を一人で波に乗せる」=自立させることである。もっとも、洋子と山葵、もといひな子以外の人間には見えないようであり、周囲からは頭がおかしくなったと思われるが、これは自然(エピキュリアニズム)に反することが明白な副作用である。

 ひな子はしばらくこの港の幽霊(?)と共に時を過ごす。そして、洋子からかつて港が小さい女の子に救助された話を聞かされたひな子は、小さいころに自分が海で溺れていた男の子を助けたことを思い出したのであった。実家に戻り、表彰された賞状の入った筒から落ちた新聞に記載された日付がまさに開かなかった港のスマホのパスワードだった。

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4.

 要するに、現在時点=映画の開始時点で港とひな子が出会う遙か以前に、港とひな子は出会っていたのである。しかし、今の今までひな子はあの時助けた男の子が港であったとはついぞ思い至らず、いな、そもそも男の子を助けた事実自体完全に忘却していたのである。そして、なぜ完全に忘却していたのかというと、それはひな子も港と同様に、要救助者からの見返りを期待して港を助けたわけではなく、ごく自然に、その場=海に居合わせた者のなすべき当然のこととして助けただけだったからである。褒章意識がかすかにあったとしても、それはせいぜいのところ行政機関による表彰=公証レベルであって、港のことはまったく頭にない(港やその家族から何か貰ったわけではない)。ドナーとレシピエントをその互酬関係構築の危険性ゆえに切断する臓器移植におけるドナーとレシピエントの関係性に近い。

 つまり、かつて幼いころのひな子のメンタリティは、あたかも、散策中に罠にかかった動物をみかけてかわいそうだから逃がしてやろうと自然に思う、そういうメンタリティであったといえる。動物がスナメリであれ、鶴であれ、ひな子はそうしたに違いない。そうであれば、ひな子と港の二人の関係性は『鶴の恩返し』のパラデイクマの範疇で扱うことが可能になる。『鶴の恩返し』は、無論一つのヴァージョンしかないものではなく、複数のヴァージョンが存在するが、おおまかなプロットは、①男やもめの猟師が鶴を助ける②鶴が美しい女性の姿で男の前に現れる③女は「織っているところは絶対に見ないでくれ」と言い、高く売れる織物を織って男に贈る④男が言いつけを破り覗き、女が鶴であると認識する⑤女=鶴がいなくなる、男は後悔する、というものである。つまり悲劇である。これを喜劇にしている(無論、港は死んでしまったので捉えようによっては悲劇には違いないが)のが本作である。つまり、まずは①ひな子が港を助ける②数十年後に港がひな子の前に以前助けられた男の子であるとは気づかれずに現れる③港はひな子とひな子のサーフボードを救い、ひな子に愛を与える、そして④⑤は存在しない。要するに、『鶴の恩返し』としてはヨリ完璧なヴァージョンである。ひな子から見て「なんでも持ってる」港の、その持ってるものの多くの部分は、実はひな子がそのきっかけを与えたものだったのである。しかし、生前の、そして幽霊化して以降の港も、決してかつてひな子に助けられた男の子が自分であったとは言わなかった。それを明らかにすることは、まさに『鶴の恩返し』において最初から鶴が女に化けず鶴のままで現れる展開であり、それは即ち物的なéchangeにどっぷりと浸かっているから(まさに「恩返し」に)来たのだという露悪的表明であって、およそ二個人間で理想とすべき高度の関係―信頼関係、bona fidesではないと言わざるを得ない。そんなことをすればそれはもとより『鶴の恩返し』以下ということであり、物語が成り立たない。客は怒って席を立つであろう。しかし、港はそうはしなかったのである。極めて高度な信頼関係、心だけを通わせる信頼関係の構築を目指したし、現にそうした。そして港の幽霊は水中に現れる。地上―水中―空という三分肢は『リズと青い鳥』でも描かれた分類で、人間(リズ)―ふぐ―青い鳥とパラレルな分類。ふぐは水槽の中にいる限りでは空にいる鳥と変わりないが水槽からは出られない。「俺はひな子に触れることもできない」のである。また港の願いがひな子の自立という真に他者を尊重できる精神的に高度な内容である(逆に言えばひな子を束縛しにかからない)からこそ幽霊として存在することが許されるのである。そしてこの港の切実で真摯な思いが伝わるからこそ、ひな子は「自分の波に乗れる」=港の死を受け容れて自立できるのである。二人はエピキュリアンなので、絶対に港の死を受け容れざるを得ない瞬間が来る、来ざるを得ないのであった。[2]

 そして、自立のヒントにしたのが、まさに港の振る舞い=人を見返りなく助ける仕事であり、これはその淵源をたどれば、ひな子自身が自己のかつての行動で港に与えたものであった。この純粋贈与(見返りを心の底から一切期待しない贈与)が港を経由してそのまま自分に返ってくる、という構図になっている(これは、実は洋子が何も覚えていない山葵に対して、かつて山葵が自分にくれた「洋子ちゃんは洋子ちゃんのままでいいんだよ」という言葉をそのまま「山葵は山葵のままでいいんだよ」と返却そして同時に好きだと伝えるシーンでパラレルに描かれている。これも洋子は言葉や気持ちをやりとりしているだけで何か見返りを期待しているわけではない。現に山葵はひな子が好きだと洋子は認識しており、いわばその山葵を応援するために――つまり自分の恋愛成就のためではなく、山葵に対して過去の話と自分の好意を伝えているのである)。

 

5.

最後のひな子と洋子がサーフボードでビルから降りるシーンで火災の原因を作ったのはこれまた花火で、それは最初に現在の港とひな子を結びつけたあの火事を引き起こしたヤンキーグループの一派によるものであった。徒党を組み、態度がでかく、女性をナンパし、平気で違法行為を行う、華奢や虚勢を好む連中である。これらの集団と対抗関係にあるのがストレスの原因である過度な華奢や権力欲を戒め自然体であることを望むエピキュリアンである。そしてこの手の徒党と対峙する場合にはエピキュリアン、即ち個人も連帯する。映画の最初と最後の港とひな子の「出会い」は、この二つの立場の対抗の地場のもとでこそなされたのである。そして、火事から洋子を守るためにひな子は港の幽霊を呼ぶ。そして一人で波に乗る。死んでいる者(幽霊)ではなく、生きている者(洋子、そしてその洋子は港がくれた関係の一つである)を守らなければならなかったためであり、確実に港の死を受け容れ、そして自立するための一歩である(ひな子は死んだ港ではなく、生きている洋子を選んだ)。

その後、港のように人を助けられる人になりたいとライフセーバー資格を取ったひな子は、また海でサーフィンができるようになった。そこでひな子が抱えていたサーフボードは、かつて火事の時に港に一緒に救助されたサーフボードである。そのサーフボードは今は傷だらけである。サーフボードはひな子の人生そのものである。

無数の傷をつけながらも前に進むしかないのが人生である。

 

6.

洋子と山葵の二人と食事をし、港からの最後のメッセージは、幽霊としての存在をとおしてではなく、ビルのアナウンスからであった。これが最後の港からの純粋贈与である。そして、これを受け取ったひな子は、最後のメッセージ=港の死を受け容れることができ、地面に伏して号泣するのであった。

港=Havenは(劇中で本人も言っていたが)嵐の際の回避港。船はそこに一旦寄港するが、やがては去らないといけない。そしてひな子は文字通り雛の子である。そこがどんなに居心地が良く名残惜しくても、自由な空に巣立たないといけない運命にあった[3]

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※本稿はアニメクリティークvol.7s(アニメクリティーク刊行会、2019年8月)に寄稿した拙稿(フクロウ「スナメリの恩返しは恩返しにあらず――『きみと、波にのれたら』評註」同146頁以下)を2か所日本語・文法レベルでの整序をした以外はそのまま転載したものである(転載許諾済)。元の原稿の作成にあたってはアニメクリテイーク刊行会編集のNag(@Nag_Nay)さんに助言と加筆修正をいただいた。この場で感謝申し上げる。

 

[1] ジュゼッペ・デ・サンティス『にがい米』、ヴィットリオ・デ・シーカ自転車泥棒』、さらに直近のアニメ映画で言えば『自転車泥棒』のパロディに位置付けることが可能な山田尚子『映画 聲の形』における永束と永束の赤のかっこいい自転車のそして将也と将也の母のママチャリとの関係として描かれるそういう関係性、メンタリティを港が持っていることが冒頭部分、二人の出会いの部分で描かれているわけである。将也が永束の自転車のいわば身代わりに出したママチャリはヤンキーに乗り捨てられていたわけであるが、それをそのままで終わらせると永束は将也に子殺しを強いたことになってしまう。これでは真の意味での友情、あるいは連帯の構築はできない。だからこそ永束は必至でママチャリを探し、将也のところに届けたのであった。『映画 聲の形』の脚本も、本作と同様、吉田玲子である。つまり、この連関は偶然ではないと考えられる。

[2] 森鷗外高瀬舟』が参考になる。避けられない直近の死であれば苦痛を引き延ばすだけの医療延命措置はエピキュリアニズムには反するのである。(ひな子は港の幽霊と一生一緒にいるつもりであるが)港の幽霊はひな子が死ぬまで一緒にいるつもりはない。本来は死んでいるところ、自然を曲げてひな子が一人で波に乗れるまでこの世に留まれているという自覚があるからである。

[3] 苦痛を伴うがそうせざるを得ない自由の獲得とそれをベースとする信頼関係の構築は山田尚子リズと青い鳥』のテーマであり、その脚本はこれまた吉田玲子である。そしてかつて戦場で無感情に人を殺すことしかしてこなかった少女が、「武器」ではなく一人の人間あるいは女性として扱い、名前をはじめとする言葉を教えてくれた少佐からその死の間際に贈られた「君は生きて自由になりなさい」「心から愛してる」という言葉の意味を探究する『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』もまた『リズと青い鳥』同様、京都アニメーションの制作である。