人文学と法学、それとアニメーション。

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忘却への抵抗とショッピングモールの換骨奪胎──『サイダーのように言葉が湧き上がる』評註

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1 全体的な印象

 

『映画大好きポンポさん』のポンポさんの金言に従って、「映画なんて、結局、ヒロインを魅力的に撮れればそれでいい」と思うので、本作についても、チェリーがマスクを外した心からの笑顔が見れた、それだけでもう満足なのです。

 

が、多少敷衍した印象を。

 

 スマイルがチェリーを好きになる過程を、非常に丁寧に描いていた印象。コミュ障っぽい奴だったのに、年上の女性とデートをしているようだ(勘違い)から気になりはじめるという構成は、ほんとよくできてると思った。きっかけはスマホが入れ替わった偶然にすぎないにせよ。

 

 俳句を主軸に据えたこと(また作りたくなった)。手描きっぽいキャラクターの輪郭。ショッキングカラー。雲の描写の独特さ。キャラクターの激しい動き(特にビーバーの警備員とモール責任者から逃げるシーン)。チェリーとスマイル2人のコンプレックスと、それとの向き合い方と、関わる中での克服の仕方。チェリーとスマイルはもとより、ビーバー、ジャパン、藤山さんはじめ個性あふれる登場人物。郊外の田舎のモールを舞台にその中にデイサービス施設を入れているところ。ラストのイベントをベタに夏祭にしたこと、藤山さんの思い出、どれも最高だった。『映画大好きポンポさん』のような小気味良さもある。

 

2 ショッピングモール舞台に取る意味

 本作は、田舎、といっても郊外であり、高知のど田舎(『竜とそばかすの姫』)でも飛騨の山奥の糸守(『君の名は。』)でもないけれど、を舞台とするくせに、ほとんどの出来事がモール内で生起する点が一つの特徴であろう。

 ショッピングモールは資本主義の象徴であり、また田舎の郊外の平板化とコインの裏面としての平等化に寄与してきた。

 そこは資本主義の象徴らしく、利潤追求を目的に、近代的資本及び近代的労働に不可欠な画一的なルールが本質的に要請される空間である。ゾンビがショッピングモールを襲撃するのは、最後に残る資本主義的人間本能が購入欲求だからである。

 また、木庭顕はショッピングモールを「一日中だっていられる」「生活自体が閉じている」そして「空間的に閉じているだけではなく」「中は広大」だが、「人のコミュニケーション」がない空間であるとする(木庭顕『笑うケースメソッドⅡ 現代日本公法の基礎を問う』(勁草書房、2017)225頁)。

 

 しかし本作は、そのようなショッピングモールが本質的に持つ負の特性をものの見事に換骨奪胎して、むしろショッピングモールを共和政体下における都市として、つまりある種のユートピアとして描いている。

 話の鍵になるレコードの話から、かつてショッピングモールがレコード工場であったこと、そこで藤山さんが働いていたことが明かされる。そして、モール内にそのレコード工場の歴史についての展示(もっとも、常設かはわからないが・・・)がある。ショッピングモール以前にレコード工場ですら資本的な平板化装置にすぎないのであるが、しかしまさにその工場の屋上で、藤山さんと奥さんは一緒に花火を見てファーストキスを交わしたのである。つまり、このモールは平板化とコインの裏面としての平等化を施されているのではなく、きちんと歴史を背負っているのである。それは、鍵になるレコードの裏に印刷された花火が50年前の第一回大会のものであったことからも明らかである。そして、それは藤山さんが、おそらく認知症を発症し、妻の声すらも恐怖の中で忘れていくことへの抵抗をかつて妻の声を記録したレコードを聴くことで回避・抵抗しようとしたこととパラレルなのだ。これは「特別」と「個性」を巡る問題なのである。「忘却」への抵抗は「個性」を拠点になされる。

 また、主要登場人物は皆ルールを守らない。笑 一番顕著なのは、ラストの夏祭りでのダルマ音頭で、チェリー一派とデイサービスセンターの皆が共謀してだるま音頭ではなく勝手に藤山さくらのレコードをかけている。他にもビーバーは盗品等を屋上に隠し、また自由気ままに各所にチェリーの俳句をマジックで書いて回っている。資本側の尖兵である警備員には従わない。そのビーバーはスペインからの移民のようである。また、全体的な色合いもかなり自由に原色系を使っている。

 さらに、ショッピングモールの中にデイサービスセンターが設けられ、モール内部を巡るツアー、特に俳句のツアーがあったりするなど、本来資本主義とは相いれない社会福祉的事業がモール内に包摂されていることが描かれる。

 そして、少なくともチェリーを中心とした登場人物たちは、モール内部で、非常に密なコミュニケーションを取っている様が描かれる。デイサービスセンターの老人たちはチェリーやスマイルに俳句や藤山さんのあれこれで優しく自然に接している。また、そもそもチェリーとスマイルが出会ったのもモール内部であれば、最後告白後キスをするのもモールの屋上である。そして、ラストシーンの夏祭りはモールの内部でなく屋上──つまり閉鎖空間ではなく空に繋がる──である。もちろん夏祭りには地域の実行委員会が繰り出し、町の人たちがたくさん集まってくる。

 このように、本作は、郊外の田舎のショッピングモールという批判されてきた対象を換骨奪胎し、むしろ理想的な共同生活空間、いわば共和政体下の都市さながらにユートピア化して描き、その可能性を示唆している点でも珠玉の作品であるといえる。言うは易く行うは難しであるが、存外、ショッピングモールを持つ郊外の田舎(古代ギリシアの同盟市?)が目指すべき方向は、商店街との敵対ではなく、ショッピングモールを換骨奪胎して都市空間そのものとして乗っ取った上でなされる共存なのかもしれない(余談ではあるが、これは京都という都市と小田という郊外の田舎という要素を捨象すれば、出町枡形ブルジョア商店主連合会が舞台であった『たまこマーケット』後の、つまりポスト『たまこマーケット』の作品でもあるということになる)。

 

 どこぞの五輪で児童を動員する際に自社製品以外のラベルを剥がすようもとめた、「コカ・コーラのように言葉が湧き上がる」わけではないのである。

 

※2021年7月24日 3箇所ほど修正及び加筆。