『リコリス・リコイル』、マクロ条件の最悪具合はもはや所与の前提とせざるをえないなかで、ミクロの関係(千束とたきな、あるいは喫茶リコリスのメンツetc.)ではコミカルで最善の関係を築いていく、それが現下の日本の社会情勢と完全にマッチしているように思う。
もちろん、『リコリス・リコイル』の日本の社会システムは歪みに歪んでおり、『PSYCHO-PASS』と『ガンスリンガー・ガール』を掛け合わせたような仕組みで、まぁ救いはない。そこが批判されるのもわかる。
しかし、社会から引いたところに存在する息抜きのアニメにおいて、社会から退行した個の領域ないし個人たちの領域で、もはや変えられず悪くなる一方の社会を片目で睨みつつ、「とらいってもねぇ…」と束の間の安寧を得ることは、政治的に正しくはないのではあろうが、ヒットの理由にはなりうるように思う。
とはいえ、『リコリス・リコイル 』はマクロな社会問題は置き去りとはいえ、ミクロな人間関係では理想を提示している。
それが如実に現れるのがミカとシンジの関係だ。
アラン機関のエージェント・吉松シンジが「殺しの天才」として生かそうと助けた千束が、助けられたが故に、リコリスであるのに「不殺の誓い」を立ててリコリスの仕事以外にも100パーセント善意で人助けをすることを信条にして実践している。もうそれはそれでいいじゃんと思うのだが、しかしシンジは(「神」への)恩返したる対価(才能の発揮)を望む。
ミカとシンジの決定的な違い──ミカがシンジを撃たざるを得なくなった違い──こそはここで、ミカは「神」ではなく「千束」の意思に委ねようとするが、シンジは「千束」の意思に関わりなく「殺しの才能」を行使させることで「神」に尽くさせようとした。千束の、子供の意思に委ね尊重できるかが分水嶺として提示されている。
「示された答え選ぶより新しい夢を目指すから」(ClariS『Alive』)
は『天気の子』の結末に近い。