人文学と法学、それとアニメーション。

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お金では買えないものを買うために、あるいは百貨店のその先に──『北極百貨店のコンシェルジュさん』評註

Hokkyoku Hyakkaten no Concierge San - stream

『北極百貨店のコンシェルジュさん』、観てきました。

 

百貨店のコンシェルジュって、消費資本主義の象徴たる百貨店のコンシェルジュ≒コンサル?的なイメージで、観る前はとても悪い印象であった。絶滅種を含む様々な動物たちにしても、今街中でスーツのおじさんたちが嬉しそうに身につけているSDGsバッチと同様、多様性ないし個性尊重のアイコンとして利用されているだけだと思っていた。

 

が、違ったのである!笑

 

まずは、アニメ化にあたり考察されたであろうワライフクロウ、ウミベミミンク、ニホンオオカミ、カリブモンクアザラシ、コブラクインコそしてオオウミガラスたち、絶滅種の動物たちをどう動かすか(アニメートするか)ということ。動物の動かし方はアニメーションの中でも難しいことは、アニメーターでなくとも、『SHIROBAKO』を見た人にはおなじみのはずである。

そして、その絶滅種をどう動かすかという問いと、それへの解答のための試行錯誤は、クジャクやバーバリライオンといった他の非絶滅種、さらには人間の動き(アニメート)の良さにもまた結びついているはずである。

 

さて、以上はアニメートの話であるが、主題系はどうであろうか。

 

もちろん、コンシェルジュの話、いかに機転と機知を働かせてお客様に喜んでもらうか、という、その工夫への驚きと、それが上手くいったときのお客様の笑顔を見るのはまた、観客たる我々も楽しくさせてくれる。

 

しかし、もちろんそれだけではない。

 

本作には、どこか薄ら寒い、さながらディストピア的な空気感が、そのあたたかな色づかい、さまざまな動物たち、秋乃の危なかっかしい挙動、懐かしい音楽──にかかわらず、そんな空気が常に流れている。

 

これは、二つの要素から由来すると考えることができるであろう。

 

一つは、絶滅種たちの存在。

 

もう一つは、百貨店の衰退。

 

以下、それぞれについて述べる。

 

まずは、絶滅種たちの存在。

 

これは別に北極百貨店支配人のオオウミガラス(エルルさん)と監察官トキワの会話で明示しなくとも、「絶滅種が“なんでも”買える百貨店で人がおもてなしをする」という構図から既に明らかなように、消費資本主義、というか、人間の欲望の誤った発露のさせ方への批判の系がまずはある。オオウミガラスが絶滅した年に百貨店が誕生したという緩いが、しかし確実にある因果性。ワライフクロウ、ウミベミミンク、ニホンオオカミ、カリブモンクアザラシ、コブラクインコそしてエルルの祖先のオオウミガラスは、人間の手で滅ぼされた。そのいわば百貨店に象徴される消費資本主義の駆動因たる人間の欲望により絶滅させられた絶滅種に対して人が百貨店でおもてなしをするというのは、一種の報復譚、因果応報譚であろう。秋乃はじめコンシェルジュたちはその自発性に関わらず、絶滅種はじめ動物たちに奉仕させられている人間、なのである。さながら、人類全体の非道を詫び、赦しを乞う人身御供として。

 

そして、そのように絶滅種を絶滅に追い込んだ人間の欲望により駆動された消費資本主義の象徴たる百貨店もまた、諸行無常万物流転、現実(2023年)には衰退絶滅の帰途にある。

こちらは、石田祐康監督『雨を告げる漂流団地』(2022年)と同じノスタルジーの主題系であり、かつてのJapan As No.1の時代から、No.27への凋落と、それによる様々な膨張の縮小と哀愁が漂う。新海誠監督『すずめの戸締り』でも、単に3.11の犠牲者遺族や残された人々の気持ちの整理の話だけではなく、宮崎、愛媛、神戸の、かつて栄えていたが今は廃墟になってしまった場所について、戸締まりをする=気持ちに整理をつけることの大切さが描かれていた。ここでは、絶滅種の系と同じく消費資本主義の限界が描かれている。

 

さて、しかし『北極百貨店』は、絶滅種が百貨店に食われ、百貨店が他のGAFAに食われ…という消費資本主義の悲哀の連鎖を描くだけにはとどまらない。

 

その先を描いている。

 

ここに来て、主題系はイシグロキョウヘイ監督『サイダーのように言葉が湧き上がる』に接合する。すなわち、資本主義のハッキングにより、ありうべき理想の社会形成に流用するにはどうするべきか、という課題。『サイダー』で示された消費資本主義への処方箋は、「モール」の「商店街化(共同体化)」であった。

 

詳しくは以下の記事も参照。

hukuroulaw.hatenablog.com

 

さて、では『北極百貨店』で描かれた処方箋とは何か。

 

それこそが、エルルが秋乃に見た可能性であり、百貨店がお客様に消費以上の何かを与える可能性である。

 

現に最後のコブラクインコのお客様は、ワンコインしか予算がない。高級百貨店『北極百貨店』では、それこそ耳かきくらいしか買えない。しかし、その中でも秋乃は知恵を絞り、結局はかつて自分が、というよりは香水コーナーの奥様方が香水の種類を特定し、老コンシェルジュ丸木が顔馴染みの奥様方にあたってくれた結果見つかった、廃盤になった香水により今の彼女をゲットできたバーバリライオンのお客様とその彼女の協力で、難病でクリスマスにすら外に出られないコブラクインコのお客様の娘に、最高のプレゼント=DVDを送ることができた。

 

ラストがクリスマスのミサ・コンサートで終わることが象徴的に示唆しているように、「物を売る」百貨店がしかし「無償」にこだわるさまが描かれているのである。

 

また、「有償」の場合にも、それを超える部分にこそ「ほんもの」の価値(チャールズ・テイラー)があることが示唆される(そして、それを超える部分として。夫婦愛、親子愛含む「愛」が繰り返しフューチャーされる)。

 

「相手に喜んでもらえるかどうかわからない物を、しかし、相手のことを考えながら選ぶことこそが、尊いことだと、僕は思う。」

 

(マルセル・モース『贈与論』からすれば、かなり楽天的としか言いようがないが。)

 

じゃあ具体的にどうするのかは描かれない。またもや、解決は先送りされ、それは飛べないオオウミガラスが、それでも「跳ぶ」ことなのだ、とは示唆される。

 

さながら『劇場版 SHIROBAKO』である。

hukuroulaw.hatenablog.com

 

もっとも、北極百貨店の周囲が山林で覆われていたラストからすれば、あの世界では地球温暖化が進行し、北極は緑地となり、人間すらも絶滅しかかっている世界で一人の人間・秋乃が見ている夢なのかもしれない。

 

マンモスで彫刻家のウーリーさんが言うように、「形あるものはいつかは壊れる」、敷衍すれば「生きているものはいつかは死ぬ」。ウーリーさんと奥さんは、かつて愛し合い、そして奥さんは死に、ウーリーさんだけが残された。奥さんが死んでからは、おそらく絶望の日々であっただろう。そこで、たしかにあのチーターの像の牙が壊れたことは、ショックはショックには違いなかったであろうが、しかしあの像を壊したネコの少年が、パティシエ見習いとして、謝罪のためにウーリーさんに持ってきた、自身で作ったウーリーさんと奥さんを象ったケーキこそは、「在り難い」もの、すなわち「奇跡」だったのではないか。

 

そして、単なる物のやり取りを超えた、「奇跡」を起こすことにこそこだわるべきなのが、これからの百貨店ないしは消費資本主義なのではないだろうか。

 

近時、「欲望を手放すな」(=消費資本主義の換骨奪胎)を狙った作品として、幾原邦彦『さらざんまい』がある(もちろん、『輪るピングドラム』が下敷きである。)

 

また『Sonny Boy』による資本主義批判については、次の記事を参照。

hukuroulaw.hatenablog.com