アニメーションという形式への純化────山田尚子『きみの色』評註
「変えることができないものについて、それを受け入れるだけの心の平穏をお与えください。そして、変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。」(ラインホールド・ニーバーの祈り)
1.はじめに
川村元気がプロデューサーで関与すると耳にした時点で、新海誠『君の名は。』の例がただちに想起され、そして山田尚子『きみの色』も、ちょうど『君の名は。』前夜のように、映画館はもとより地上波でも相当な広告を打ち(もっとも、私個人は広告の専門家でも映画マーケティングの専門家でもないため、実際のところ『君の名は。』と比較してどうなのかはよく分からない部分もあるが、まあ体感として)美しい映像とキャッチーな主題歌で興味を引き、似たような広報戦略が取られていたような気がする。
そしてその結果、山田尚子がすり減らされてしまうのではないかと危惧もした。
しかし、果して出てきたものは、新海誠『君の名は。』とはおよそ異なる、派手なカタルシスなどない、言い方は悪いかもしれないが、事前の広報戦略にもかかわらずおそらく大ヒットはしないであろう、言ってしまえば山田尚子という監督の極致、エッセンスをそのままお出しするような作品が出てきたので、正直ビックリしてしまった。
それが本稿の表題でもある「アニメーションという形式への純化」、これである。
いい意味で予想を裏切られたといっていい。
そして、こういう内容であれば、逆にバンバン広告打ってなるべく多くの人に見てほしい、という教養主義者魂(?)が燃えてくるから不思議である。
台風10号め~~~!
2.純化
山田尚子の代名詞としてよく言及されるのは「足」の描写であるが、近時は「手」に関する指摘もなされている。
しかし、(もちろんこれも以前からずっと山田尚子が描いてきたのであるが)本作では手足に関わらず身体描写全てが極まっているといえる。最初と最後に出てくる(特に最後に悠然とかなりの尺を取って踊る)トツ子のバレエの身体動作、きみが背表紙の上に指をかけてから引き出して本を取る動作、ルイのテルミン演奏、きみのおばあちゃんの料理を作る動作、最後のライブでのシスターズのダンスやきみのおばあちゃんと校長のロンド、日吉子のさながらトツ子がやっていたような廊下での回転ダンスなど、他のアニメでは省略されてしかるべきような細かい日常動作が逐一描かれるので、本当に目が離せない。
同時に、猫や雀やうさぎやカモメ(?)の何気ない仕草、動きも極まっている。動物は人間よりも動きを描くのが難しいと一般に言われるが、そうであるにも関わらず、特に猫は長尺で動きが描かれる。垂涎モノである。
総じて、アニメーションにおける人間含めた身体表現の一つの極地であろう。
3.漫画的デフォルメ表現
同時に、あるいは、そのような緻密な日常動作の描き込みをバックに、特にトツ子に見られる漫画的表情や身体動作もまた、本作の魅力であろう。フフッと笑える。ドッジボールできみの投げたボールが顔面直撃で倒れた後の表情・挙動、古本屋できみと最初に話しているときに小さくなったり、理科の講義で天体のビデオを見ているときに寝て起きた時の表情・挙動、そのほか寮で三姉妹を背後に一人であれこれやってるときとか、とにかく山田尚子がこれまで培ってきた漫画的デフォルメが多用されている。
4.主題(しかし、これは形式ではない実質────つまり後景、出汁である)
主題の一つであろう「赦し」と「祈り」は、その実践が帰属する先を仏教からキリスト教に移したという点から見れば『平家物語』の延長線上にあり、そして「現代人は他人もそして自分も赦すのが下手」と山田尚子がパンフレットの対談で指摘していた『聲の形』の延長線上にあるテーマではあろうが、それ自体にスポットライトが当たっているわけではなく、“GOD Almighty”(やトツ子の「また告解の秘跡をするから大丈夫」)に象徴されるように、悩みをサクッと流すためのツールとして用いられており、そこまで深刻なものではない。
(もちろん、人の心の動きに向けたその繊細な目線は依然衰えてはいない。そして、表情含むアニメートされた身体動作が指し示す先が、人の心(の繊細微妙な揺れ)なのもまた、明らかである。女子寮侵入事件に際しトツ子だけ処罰されるときみが傷つくと察した日吉子は、既に退学しているきみにまで罰(というか償う場)としての奉仕活動を課すことを校長に求める。その心が傷つくこと、傷ついたことを推察して適切な手を打てるのは、まさに大人の役回りにふさわしい(といってもおそらくまだまだ大人の中では駆け出しの日吉子=ヒヨコにすぎないのだろうが)本当に素晴らしいことだと思った。そして、トツ子たちのバンドの曲を悲しみや苦しさを歌う曲を含めて「聖歌」だと言い、後日たまたま古本屋で出会ったときの「あなたも卒業生です。あなたは自分のタイミングでわが校を卒業したのです。」という言葉をかけたり、トツ子が降雪で寮に帰れなくなったときには「合宿ということにしましょう。」など、良い方向への機転の利かせ方が本当に素晴らしい。そして「私たちは何度でも歩きなおすことができるのです。」というセリフは、「現代人は赦すことが下手」という山田尚子の発言をふまえると、とても印象に残る。)
精緻な日常動作を描くアニメーションを描くという「形式」にノイズを差し挟まない程度の、さしみのつまのような扱いであるといってよいように思う。
このことは、他の作品であれば作品の見せ場になるであろう大人と子供の対立であるとか、秘密の暴露であるとか、感情の爆発のような、カタルシスはなく、トツ子、きみ、ルイそれぞれの抱えた悩みに対して、父母、祖母、母そしてシスターズと“理解ある大人”たちが措定されることで、サクッと解決されてしまう。
そして、これこそが山田尚子がオリジナルの、つまり他者の原作がない長編を描いたことの効果ないし特徴なのではないかと思う。
(そして、これは実は本人の言葉での裏付けがあってしまうのであるが…。
「──キャラクターを愛する?
山田 キャラクターとその世界を、ですね。皮肉めいたものの見方をしない。彼ら・彼女らの尊厳を踏みにじらない。見られたくないと思うような瞬間に、わざわざ正面に回ってアップにするようなことはしない。興味本位で撮らない。」
「──少しドキュメンタリーに近いところがあるようにも感じました。
山田 かもしれないです。ストーリーによって出てくる人たちの動向が決まるというような描き方はしていないので。」
(キネマ旬報1946号23頁))
つまり、これは要するに、山田尚子作品の特徴であるアニメキャラクターの実在性・実在感は、まずはキャラクターの人格を尊重すること、すなわち、ストーリーの都合でストーリーに埋没した形でキャラクターを動かさないことから来るのである。そして、おそらくこのキャラクターの実在性・実在感を生むストーリーからキャラクター(の人格)が自律して動くことは、アンドレ・バザンが名作(実写)映画とはどういうものかを指摘する時に使う、“飛び石の比喩”と近いものであろう(反対に、名作でない映画の一つに石橋映画≒プロパガンダ映画がある)。
これまでの『映画 聲の形』(2016年)、『リズと青い鳥』(2018年)、『平家物語』(2021年)にはそれぞれ、大今良時、武田綾乃、古川日出男の原作があり、その原作それぞれが強烈なカタルシスを持つ作品であった。
それゆえにこそひきつけられた、特に個人的には山田尚子『映画 聲の形』を観たせいでアニメーションの凄さに引き込まれてしまった人間であるからなおさらそうであるが、そうした部分は確かにあったものの、そうした主題の強烈さやカタルシスの強さは、山田尚子がやりたいこと(日常の丁寧な所作をアニメートすること)をやるうえでは、実はノイズであった可能性がある。そういった意味で、訴求力の強い主題やカタルシスを持つシナリオを排除した/できた本作は、まさしく山田尚子の作品といえるのではなかろうか。
あと、日吉子がトツ子に「歌が守ってくれるのではないでしょうか」というのは、歌=フィクション=神様のルートが想起される一方で、歌=フィクション=アニメーションのルートもまた想起しえ、いわゆるメタフィクションとして機能しているといえる。つまり、山田尚子にとってアニメーションは「守ってくれるもの」なのではないだろうか。
5.演出
初めて島に行く船での、電波がない→波→虹色の反射という連想ゲームはめちゃくちゃよかったと思う。そして、おそらく私が気づいてないだけでこの手の演出は無限にあるであろう。
あとは、初めて島に行った帰りの港での色合いがすべてセピア色だったのもよかった。
6.社会が押し付ける規範から外れることの肯定
トツ子はぽっちゃりしておりそばかすも明確に描かれる。おそらく従来のヒロイン像・規範からはズレるヒロインであろう(おまけに人が色で見えてしまう共感覚の持ち主である)。
あるいはルイは男なのに当然のように久しぶりに会った女であるトツ子ときみ2人に抱きつくし、クリスマスに降雪でフェリーが出なくなった際には旧教会に一緒に泊まる。これも従来とは異なる男性像あるいは恋愛や性欲抜きの男女関係のありかたを打ち出しているとも見うる(もっとも、従来のシナリオライトの鉄則とされている、妙齢の男女二人が出てきたらそれは恋愛関係になる、という規範がいかに不自然で、非包摂的で、偏見に満ちたものであったかという話でもあるのだが)。
きみと兄は祖母に育てられたし、ルイの母はシングルマザーである。これも、特に自民党保守派あたりが想定する男性の夫、女性の妻、子供という核家族こそが正しい家族であるという家族規範から逸脱した家族である。
そして極めつけはシスター(ズ)が優しい、もとい緩い。笑 もちろん、シスターは戒律に厳しくあるべきである。緩いシスターズは、宗教規範から逸脱したシスターズであろう。日吉子はトツ子たちの年齢の時にはバンドを”少々”やっており、それは恐れ多くも「GOD Almighty」だったわけで。笑
いや、でもこれくらいでいいのよ。
少し昔の日本社会は様々なステレオタイプに縛られすぎて生きにくかったし、そして2024年の今は幾分緩くはなったとはいえなお生きにくい。
(たとえば『しまなみ誰そ彼』など、近時規範から外れた生き方を肯定的に描く作品は多くはなっている。)
そして、色の多様性は個人の個性の一つである性愛の多様性の比喩、ゲイレインボーとしてのみ用いられるわけではない。様々な個人が様々な“波長”(電波からスマホが連想でき、そこからコミュニケーション全般の謂いだろう)で、暮らしているのが2024年の日本であり、それを写し取ったのが山田尚子であろう。
(なお、最近よく「多様性を尊重」といわれるが、この言い方は差別の温存に転用されかねないため嫌いである。「個性を尊重した結果、事実として多様な個人が社会に顕出される」というだけなので、そう言うべきなのである。)
7.連想ゲーム
最初に日吉子が階段で走らないようにと注意するシーンでのトツ子の「はいよ」とかのセリフが、『この世界の片隅に』のすずさんっぽかった。
また、これは『リズと青い鳥』のときからそうであるが、バレエ的な身体の動かし方が『花とアリス殺人事件』を想起する。
8.あなたの色
ラストの長尺のトツ子が寮の中庭でバレエを踊るシーンで、トツ子はようやく、自分の色が見える。原作のないこの映画ができたことで、これまで見えなかった山田尚子自身の「色」が、ようやく見えるようになったのかもしれない。
そしてそのためには、トツ子がきみやルイと出会う必要があったように、また、山田尚子自身もこれまでの数々の原作や友人知人と出会う必要があったのだろう。
最初に述べたように、私は、本作の川村元気プロデュースによる商業的大展開で、山田尚子のアイデンティティないし作風が失われてしまうのではないかと危惧していた。しかし、そのことは山田尚子にとっては、ニーバーの祈りの「続き」にある、「変えるべきものを変える勇気」の発露だったのではないかと思われる。商業的に成功するということは、より多くのひとに作品が届くことでもあり、そしてそれはその人を救いうるのだから。そして、商業的にはヒットするかどうかは大切なわけであるが、山田尚子が本作をヒットさせるために「変えることができないもの」=魂を売らなかった、こともまた、本作を観たあとでは明らかであるから。
商業的な圧力の前でもなお、山田尚子は「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」と、「変えることができないものについて、それを受け入れるだけの心の平穏」あるいはこれはニーバーの祈りからは逸れるかもだが「変えることができないものについて、それを受け入れるだけの“勇気”」を示してくれた。
そして極めて個人的なことであるが、2016年の『映画 聲の形』に惹かれてアニメーションに興味を持ち、そこから芋蔓式に文学、人文学、法学…と流れていった(変えるべきものを変えた)身としては、山田尚子が「変えることができないもの」を変えずにいてくれたことが何よりも嬉しかったのである。