人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

科学・フィクション・アニメーション━━石田祐康監督『ペンギン・ハイウェイ』評註

 

目次

1 はじめに

2 小説『ペンギン・ハイウェイ』の特徴

(1)リアリティの獲得

ア 自然科学の実証研究方法論

イ 「死」という謎

ウ 小まとめ

(2)フィクションと径庭なき自然科学=現実

(3)まとめ

3 小説からアニメ映画へ―エウレカ

4 おわりに

 

1 はじめに

本稿は映画『ペンギン・ハイウェイ[1]の評註である。

そして、この批評の目的は、映画『ペンギン・ハイウェイ』の特性を明らかにすることにある。

 そして、この映画には原作小説があり、ストーリー上において原作からの大きな変更はないため、まずは原作小説の持つ特性について検討を加える。映画『ペンギン・ハイウェイ』の原作は森見登美彦の同名の小説『ペンギン・ハイウェイ[2]である。

 よって以下では、映画『ペンギン・ハイウェイ』のストーリーの骨格をなす小説『ペンギン・ハイウェイ』の特徴を分析し(中間目的:小説版の分析)、それをベースとして映画『ペンギン・ハイウェイ』の分析を試みたい(最終目的:映画版の分析)。

 

2 小説『ペンギン・ハイウェイ』の特徴

(1)リアリティの獲得

ア 実証研究方法の完全一致

 「自然科学の実証研究の方法」は、「我々の現実=小説外の現実」と「アオヤマ君たちの現実=小説内の現実」の境界を侵食する効果を持つ。つまり、「小説内の現実」と捉えて小説を読んでいるはずなのに、あたかも「小説外の現実」であるかのようにリアリティが感じられるということでる。

つまり「自然が生みだしている謎あるいは未知の現象との対決手段が仮説理論の提示と観察・実験による実証である」という限度では、「小説外の現実」でも「小説内の現実」でも何ら異ならないのである。

アオヤマ君(たち)は「小説内の現実」で研究活動として「ペンギン」や「〈海〉」に対し、一定の仮説理論を立て、観察や実験を通じて実証を目指す。この一連の作業は、我々が「小説外の現実」で行う自然科学の研究活動(自然科学方法論)と何ら変わらない。

ここに、「小説内の現実」が圧倒的なリアリティ(「小説外の現実」)性を獲得する秘訣が隠されている。

そして、だからこそアオヤマ君は小学生でかまわないのである。いや、むしろ誰がやったとしても普遍性が担保されているのが自然科学方法論であるという意味で、主人公の属性が小学生であることが相応しいとすら言えるのである。

実証自然科学の方法論の話をするのであれば、せいぜい大学生から教授の間ぐらいの人間を主人公に据えるほうが読者の直観的な納得は得やすいであろう。しかし、実証自然科学の方法論は、その方法が誰にでも開かれていること、方法が確かであって実証されたならば、それはどれだけ信じられないことでも科学的事実となることに特徴がある。だからこそ、小学生にでもなお可能で、しかも少し変わっているとか大人びているとかいう形容詞を付せば済ませられる程度の話になるのである。

実証自然科学の方法論は、その方法が誰にでも開かれていること、方法が確かであって実証されたならば、それはどれだけ信じられないことでも科学的事実となることに特徴がある。アオヤマ君は、その方法論を正しく用い、仮説を立て、観察し実験し推論する。だからこそ研究する対象の現象が「街中のペンギン」や「〈海〉」や「ジャバウォック」といった(自然)現象、小説外の現実には存在しないファンタジックなものであったとしても、なお圧倒的なリアリティ(小説外の現実性)を獲得してしまうのである。これが他のSF作品とは異なる小説『ペンギン・ハイウェイ』の特徴であるといえよう。

これは文学部などではなく理系の農学部修士課程を出た森見登美彦だからこそできた芸当であろう[3]

イ 「死」という現象の謎

また、「小説内の現実」に対し「小説外の現実」=リアリティを与える仕掛けはまだ存在している。それが「死」という現象の話である。

「死」という現象は、「小説内の現実」だけでなく「小説外の現実」でも未解明の問題である。この「死」の話は、小説では次の二カ所に出てくる。

一つは、アオヤマ君の妹が怯えている話。

 

妹は泣きながら「お母さんが死んじゃう」と言うので、ぼくは本当にびっくりした。寝ている間に母に何かたいへんなことが起こったのかと思った。ぼくはあわてて立ち上がって「お母さんはどこ?」と聞いたけれども、妹は首をふるだけなのだ。ぼくは妹のとなりに座って、「どうしてお母さんが死んじゃうんだい?」とゆっくり聞いてみた。そうすると、妹が「お母さんが死んじゃう」と言ったのは、「いつの日かお母さんが死んじゃう」ということであることがわかった。妹は未来のことを考えて、こわがっているのだということがわかった。[4]

 

もう一つは、ウチダ君の研究。

 

「ぼくが研究してたのは、死ぬっているのはどんなことかということなんだ。」[5]

 

これほどまでに「死」の話が出てくるのは偶然ではないだろう。つまり、そこには作為=作者の意図がある。

そして、これは「アオヤマ君、私はなぜ生まれてきたのだろう?」[6]というお姉さんの問いかけに繋がっている。確かにお姉さんは「小説内の現実」で人ではなかった。しかし、この人ならざるお姉さんの問いは、「死」の問題、そしてさらには「生」の問題、要するに古くからずっと「我々はどこからきて、どこへ行くのか」と言い習わされてきたことと全く同じ問いかけなのである。

確かにアオヤマ君は「小説内の現実=小説外の現実から見たフィクション」の「お姉さん」の謎、それと関連する「ペンギン」「〈海〉」「ジャバウォック」そして「世界の果て」の謎を解けなかった。しかし、それは「小説外の現実」に存在している「死」をはじめとする未解決の謎現象がそこかしこに存在していることを踏まえると、別に不思議なことでも創作的なことでもない。そこに「小説外の現実」でもあり得そうだと感じる、つまりリアリティを感じるのである。

ウ 小まとめ

 以上、自然科学の実証研究方法の重視と「死」の謎を描く部分は小説『ペンギン・ハイウェイ』の特徴であり、それは読者に「小説内の現実」を「小説外の現実」であるかのようなリアリティを感じさせるという効果がある。

(2)フィクションと径庭なき自然科学=現実

 しかし、おそらくこのようなリアリティ付与効果以上のものがそこにはある。もっとも、これは著者が明確に意図していたかというと定かではない。しかし、なんにせよそのような効果が生じていることは事実である。

芸術認知科学[7]の齋藤亜矢は、「ヒトが描くことの認知的な基盤の一つは、今ここに「ない」モノをイメージして補うという認知的な特性であり、言語の獲得と関係しているのではないか」[8]という。つまり、人間を他の動物と分ける能力が今ここにないものを想像することができる能力である。

また、哲学者の野矢茂樹によれば、「猫は後悔しない。人間だけが後悔する。」[9]それは「後悔」するためには現実世界から離れた思考が可能である「論理空間」が存在する必要があり、この「論理空間」は現実世界を分節しなければ作り出せず、そして現実世界を分節するためには言葉が必要になるところ、人間以外の動物は言葉を持たないからである。「論理空間・分節化された世界・分節化された言語、これらはすべて厳密に同時に成立する。それゆえ、言語をもっていない動物は可能性の了解をもたず、分節化された世界にも生きていないことになる。言語をもっている動物でも、それが分節化され、さまざまな組み合わせを試せるような構造(構文論的構造)をもっていない単純な言語にとどまるかぎり、それは論理空間を開く力をもってはいない」[10]のである。

そして、ローマ法学者の木庭顕によれば、「政治の成立は通常反省的批判的思考の成立と同一視され」[11]る。「人間が豊かな内面をもつためには、どうしても記号が不可欠です。少なくとも言語や造形、音楽などが必要です。そうしないとわれわれは観念を分節できないからです。観念を分節できなければ深い内省は生まれません。」[12]

古代ギリシア人が「オデュッセウスの世界」[13]であるところのéchange [14]ベースの全体的給付・部族社会を「自由」な社会に組み替えてしまった紀元前8世紀半ばの「ギリシア人の奇跡」[15]の淵源は、木庭さらには木庭が引照するパリ学派の分析によれば、かかる「反省」なのである。

そして、この古代ギリシア・ローマの批判・反省の系譜に、15世紀イタリア人文主義、17世紀前半フランスのles libertins éruditsを経由して近代自然科学が乗っていることは周知の事実に属する[16]。そしてこの批判・反省の系譜の(2019年現在の日本における通俗的な二分論である文系・理系という区分に従うならば)もう片方に属するのが「文学・歴史学・哲学」[17]の複合体である。つまり、自然科学と文学は同じ古代ギリシア・ローマの批判・反省の系譜から出た双生児である[18]

先に2(1)アで述べたように、小説『ペンギン・ハイウェイ』の特徴の一つに、「仮説理論の提示と観測・実験を内容とする自然科学の実証研究の方法に注目して描写していることが挙げられる。これが他のSF作品と異なる点である。つまり、他のSF作品は、発見や発明の「結果」の部分を重視して描かれるが、小説『ペンギン・ハイウェイ』では発見や発明に至るプロセス、つまり「方法」 を重視して描かれているのである。つまり、この「方法」=「仮説理論の提示と観察・実験」の重視は、所与の自然に対する批判・反省のために必要な手段であって、「結果」に着目するよりも、近代自然科学が古代ギリシア・ローマの系譜から受け継ぐ批判・反省の要素がより強調されているということである。

要するに、小説『ペンギン・ハイウェイ』は、文学と自然科学には所与に対する反省[19]という共通項があるということの指摘に成功しているという意味で他の小説と異なる特徴を持つ。

また、仮説理論も実証された理論[20]も、「今ここに「ない」モノをイメージ」[21]しているという意味ではフィクション=小説やアニメと全く同じものなのであって、仮説理論(の前提になる現象)を「街中のペンギン」であるとか「〈海〉」「ジャバウォック」であるとか「お姉さん」であるとファンタジー溢れる描写にすることにより、「小説外の現実」で「現実」とされる「自然科学(理論)」も実は小説やアニメと変わらないフィクションの性質を持つということを暴露しているのである。

(3)まとめ

ここまでで本稿の目的として挙げた小説『ペンギン・ハイウェイ』の特徴についての論述が完成した。

そこで、本稿の最終目的である映画『ペンギン・ハイウェイ』の特徴についての探究に論を進めたい。

 

3 小説からアニメ映画へ―エウレカ

二点ほど。

まず第一に、「アニメ映画」という言葉を「映画」を固定した上でこれとバージョン対抗になるものを探せば、苦も無く「実写映画」が思い浮かぶであろう。小説『ペンギン・ハイウェイ』はアニメ映画にするのですら難しいが、実写映画にするのはより困難であったろう(実在する「ペンギン」はまだいいとしても「〈海〉」や「ジャバウォック」はどうするのか?)。その意味で、小説『ペンギン・ハイウェイ』は、映画にするのであれば、実写映画と比較してアニメ映画の方が良い。

より敷衍して言えば、確かにCG等を組み合わせれば実写映画でやれなくはない。しかし、アニメ映画にすることにより、映画の中の現実としてより違和感なく「〈海〉」や「ジャバウォック」、さらには「ペンギン」までもが表現できる。

そして第二に、言葉により生まれた想像力を利用して小説家が小説(フィクション)を書き、その言葉=文字から想像されるイメージを映画監督がシナリオ、映像、音楽を駆使してアニメ映画にする。まさに言葉と想像力との折りたたまれた重なり合いの果てに誕生するアニメ映画は、「エウレカ」=「奇跡」そのものであって、その意味では「世界の果て」といえる。言い換えると、シンボルを操る動物たる人類[22]が誕生したという奇跡の、さらにその先の発展形態、現代における到達点が、アニメ映画である。

であれば、比喩のレベルで言えば「世界の果て」の謎の解明が主題となる小説『ペンギン・ハイウェイ』を表現するのに、「世界の果て」で花開いたアニメ映画を利用することは、うってつけである。

そして実質的なレベルで見るにしても、先に述べたように、自然科学の実証研究方法論を重視することにより生じたペンギン・ハイウェイの特徴、古代ギリシア・ローマの批判の系譜に乗っているということを踏まえると、これまたその批判の系譜の最先端に位置するアニメ映画で表現するに親和性が極めて高いと言える。

 

4 おわりに

 カッシーラーによれば、「我々は事実を予期することはできない。しかし、我々はシンボル的な思考の力によって、事実の知的解釈を行うための準備をすることができる。」[23]

 

 3.11は科学がもっと進んでいたら予期できたかもしれない 。

予期できていれば、対策ができたかもしれない。

対策ができていれば、今は亡き人もまだ生きていたかもしれない。

 

「なぜお姉さんは行ってしまわないといけなかったのだろう」

「それをおまえは理不尽なことだと思うかい?」

「理不尽なことだと思う」[24]

 

あったかもしれない命を、次は助けるために。

これは、アオヤマ君だけの課題ではないだろう。

 

 

[1] 映画『ペンギン・ハイウェイ』(監督・石田祐康、2018年)。

[2] 森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』(角川書店、2012年)。

[3] 京都大学農学部生物機能科学科応用生命科学コースを卒業し、同大学院農学研究科修士課程を修了している(農学修士)。

[4] 森見・前掲注2)270頁。

[5] 森見・前掲注2)287頁。

[6] 森見・前掲注2)371頁。

[7] 齋藤亜矢『ヒトはなぜ絵を描くのか』(岩波書店、2014年)107頁。

[8] 齋藤・前掲注7)71頁。

[9] 野矢茂樹『語りえぬものを語る』(講談社、2011年)19頁。

[10] 野矢・前掲注9)18-19頁。

[11] 木庭顕『笑うケースメソッドⅡ』(勁草書房、2017年)20頁脚注18。

[12] 木庭・前掲注11)157-158頁。

[13] M.I.フィンリ―(下田立行訳)『オデュッセウスの世界』(岩波書店、1994年)。

[14] マルセル・モース(森山工訳)『贈与論』(岩波書店、2014年)。

[15] 木庭・前掲注11)20頁。

[16] 木庭顕「森鷗外と「クリチック」」『憲法9条へのカタバシス』(みすず書房、2018年)138頁。

[17] 木庭顕『デモクラシーの古典的基礎』(東京大学出版会、2003年)5-6頁。

[18] なお、筆者はこの「文学」である長編小説の延長上にあるのが2019年現在の日本における「アニメーション(映画)」であると考えているが、本稿ではこの点の細かい論証は省く。

[19] 日本社会ではおよそ理解されない概念である。

[20] なお、「実証」以前に「仮説理論」つまり「抽象理論」が必要であることについて、エルンスト・カッシーラー宮城音弥訳〕『人間―この象徴を操るもの』(岩波書店、1985年〔改訂第3刷〕)315頁〔初出:1953年〕315頁は以下のように言う。「数学的思考が、しばしば物理的探求の先を行くように思われることが多い。最も重要な数学的学説は、直接の実際的必要または技術的必要からは出てこない。それらは、あらゆる具体的適用に先行する一般的思考図式と考えられる。アインシュタインが、彼の一般相対性理論を発展させたときに、彼はリーマン幾何学を用いてこれを行ったのであるが、リーマン幾何学はそれよりはるか以前に作られていたものであり、リーマンがただ論理的な可能性としてのみ考えていたものであった。リーマンがただ論理的な可能性としてのみ考えていたものであった。しかし、アインシュタインは現実の事実の記述を作成するために、このような可能性が必要だと確信していた。我々が必要とするのは、物的思考にあらゆる知的方法を具えさせるために、種々の形式の数学的シンボルを、完全に自由に建設することである。」

[21] 齋藤・前掲注7)71頁。

[22] カッシーラー・前掲注19)。

[23] カッシーラー・前掲注19)315頁。

[24] 森見・前掲注2)379頁。