人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

アンドレ・バザンの名作映画の理論――リアリズムと物語の弁証法

1.

「名作映画」(実写・アニメ両方を含む)とは何か?

 

それを、アンドレ・バザンの理論を手懸りに考えてみたい。

 

まず確認しておくべきことは、バザンの映画論のスタートラインは写真であることである。

 

「アニメ(ーション)におけるリアリズムとヒューマニズム序説――『リズと青い鳥』と『花とアリス殺人事件』」( https://hukuroulaw.hatenablog.com/entry/2021/01/10/040308 )でも述べたのであるが、重複をいとわず、再度引く。

 

「そして絵画や彫刻の起源に「ミイラ・コンプレックス」が見出されることだろう。徹底して死に抵抗した古代エジプトの宗教では、身体の物理的永続が死後の生を保証すると考えられていた。その点で古代エジプトの宗教は、人間心理の基本的な欲求、すなわち時の流れから身を守ろうとする欲求を満たしていた。」(アンドレ・バザン野崎歓ほか訳)『映画とは何か 上』9頁)


(なお、このミイラ・コンプレックスは、「君を今殺せば、君は美しいままだ。」という考え方と同根の発想であり、ピーターパン・シンドローム京極夏彦魍魎の匣』の話に繋がっている。)

 

「絵画と比べた場合の写真の独創性は、その本質的な客観性にある。」(同15頁)

 

「映画とは、写真的客観性を時間において完成させたものであるように思われる。」(同18頁)

 

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ここから、「リアリズム」を軸に、オーソン・ウェルズとイタリア・ネオレアリズモ(ロッセリーニヴィットリオ・デ・シーカら)を繋ぎ、これらの監督に対して旧来の無声映画下におけるモンタージュ等を多用する名監督たちの諸作を批判するのである。

 

しかし、映画はその本質上、現実そのものではありえない。

 

人は、ひとところに留まろうと、写真、さらには映画(無声映画からトーキーへの「発展」を最初バザンは歓迎したのであるが(視覚に聴覚が加味されるのでより現実=完全映画に近づく)、後に劇判音楽が表現主義の道具となってしまったと批判もする)、そして近時では4DX・・・という形で、「完全映画の神話」を欲求し、志向するが、映画は現実そのものではありえない(どれだけ現実を写し取るものであれ、においや、90分等の映画という時間的制約上、必ず取りこぼしが出てくる)。

 

また、映画は防犯カメラの映像垂れ流しでも、ファミリービデオでもない。

 

もっとも、サヴァッティーニの究極目標は、存外ファミリービデオを撮り上映することかもしれない。笑 

 

(「サヴァッティーニの夢は、何も起こらない男の人生から、切れ目のない90分間の作品を作ることにあると私はすでに述べただろうか。それこそが彼にとっての「ネオレアリズモ」なのである」(アンドレ・バザン『映画とは何か 下』210頁)。)

 

映画には、何らかの物語が必要なのである。

 

2.

しかし、ここで問題が生じる。

 

映画の各シーンの「リアル」は「現実」同様、曖昧性、解釈の多義性、出来事の偶然性によって定義され、その解釈は観客に委ねられなければならない。

 

従って、各シーンが、映画監督の意図したとおりに、一義的記号として機能し、必然性があり、観客に解釈の余地が残されていないのであれば、それは「リアル」ではない。


ミドルリバー「暗喩表現批判序説ーー『アイドルマスター シンデレラガールズ』(と『ラブライブ!』)を視座に」

https://middleriver.hatenadiary.jp/entry/2020/12/25/104539 )も同趣旨の「反リアル」「表現主義」批判、すなわち一義的記号として背景を扱うことから生まれる不自然さの批判として読める。

 

他方で、監督は自身の意図した「物語」(「結論」(だけではないが))を観客に提示しなければならない。


そうすると、「リアル」要請と「物語」要請は、真っ向から矛盾するように思える。

 

しかし、これは逆なのである。この矛盾を解消、正確には弁証法的に発展解消することが困難だからこそ、これをクリアし、「リアル」と「物語」の双方を手に入れることができた作品が、「名作」と呼ばれるのである。

 

映画の出来事・展開は、予測不能でなければならないが、かといって終幕時に物語になっていないと映画にならない(そうであればただの意味不明な、統合が失調した映像群が残されるだけになってしまう)。


「気まぐれのように次々と出来事が起こり、どの出来事も同じだけの重みをもっている。より意味深い出来事が何かあるとしても、それは後からそう思えるだけのことである。「それから」のかわりに「それゆえ」と考えるのは、私たちの勝手なのだ。」(『映画とは何か 下』164頁)

   この記述を踏まえると、夏目漱石『それから』というタイトルは、まさに「自然主義小説」に相応しいタイトルだったのかもしれない。

 

「芸術的秩序と現実の捉えどころのない無秩序という相反する価値を弁証法的に止揚したところにこそ、この作品〔注:『自転車泥棒』〕の独創性がある。」(同182頁)


「監督の腕の見せどころは、出来事の意味を――少なくとも監督が出来事に与えた意味を――、その多義性を損なうことなく浮かび上がらせる巧みさとなる。」(同218-9頁)

 

「橋を構成する石材についても同じことがいえるでしょう。石材はたがいにぴったりとはめ込まれてアーチを形成します。それに対して、川の浅瀬に点在する岩の塊は、あくまで岩としてそこにあり続けます。私が岩から岩へと飛び移って川を渡るとしても、だからといって岩の現実性には、いささかも変化はないのです。このとき、浅瀬に点在する岩々は、一時的に橋と同じ用途に用いられたわけですが、それは、私が岩の並び具合を見てひとつの用途を思いつき、岩の本質と外観を変えることなく、岩に意味と実用性を与える運動を一時的に付加したからです。これと同じように、ネオレアリズモにも意味はあるのですが、しかしその意味は、事実から事実へ、現実のある部分から別の部分へと観客の意識が移動していくにつれて、事後的に生じるのです。それに対して、古典的な芸術創作においては、事物には最初から意味が与えられています。」(同242頁)

 

3.

 

以上はもちろん実写映画についての理屈であり、アニメ(ーション)は差し当たり主題になってはいない。

 

しかし、ことはアニメ(ーション)でも同じである。

 

「実写映画」は「現実」そのものではない。

 

にもかかわらず「リアル」を語るとするならば、それは「リアル」そのものなのではない。それは映画を観た観客が「リアル」と感じるかどうか、つまり「リアル感」の問題に置き換えられるのである。

 

バザンが、「写真」を求める人間本性、時間を止めておきたいという欲求から「映画とは何か?」という考察をスタートさせたことは慧眼であった。

 

しかし、「映画」は、一面で「写真」に「動き=時間的幅」を与えたという意味で「完全」な現実に一歩踏み出したものであるという評価ができると同時に、他面で防犯カメラやホームビデオと異なり「物語」を要求するという点で、「現実」からは遠ざかったのである。

 

以上のように、「リアリズム」が「リアル感」の問題なのであれば、それはアニメ(ーション)によっても作り出せる。

 

4.

 

「リアル感」を出すための技法は様々ありえ、またそれは実写とアニメで異なりうるだろう。

 

ワンショット・ワンシーン性などは実写でもアニメでもリアル感を出すのに役立つであろうが、他方で別にモンタージュの使用が禁止されるわけでもない。

 

しかし、肝心なのは、技法がたくさんあり、またこれらの技法をどうやって組み合わせるかの選択は様々あれど、監督の「現実」に対する非常に繊細な観察が(事実上)要求されるという点だけは動かないと思われる。

 

つまり、「名作映画」の前提には、監督による「現実」の気の遠くなるほどの観察がある。

 

オーソン・ウェルズロッセリーニ、デ・シーカ、ジャレッド・ヘス(『バス男』)山田尚子(『リズと青い鳥』)、岩井俊二(『花とアリス殺人事件』)。

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5.

 

ここで、12月25日に観て以来批判しているアニメ版『ジョゼと虎と魚たち』について、バザンの理解(特に「飛び石の比喩」)から批判を整理してみる。

 

当初はばくっと「ちぐはぐ感がある」「爽快感がない」といった曖昧模糊とした「違和感」だったのだが、それがだんだん明確になり、バザンの手を借りることでついに明瞭にできたものである。

 

なお、これまでの私のアニメ版『ジョゼと虎と魚たち』の感想・批判は以下の記事である。

 

「手を伸ばす勇気――『ジョゼと虎と魚たち』覚書」

https://hukuroulaw.hatenablog.com/entry/2020/12/26/040615

「アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』に対するささやかな違和感――積み上げの無さとバットエンド」

https://hukuroulaw.hatenablog.com/entry/2021/01/03/233041

 

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飛び石を上手く跳んでいくことができず、ジョゼが川に落ちて泣いているのに、製作側は向こう岸で「青春恋愛小説の金字塔!繊細な描写もたくさん入れた!ハッピーエンドだ!」と叫んでいる。他方でこちらがわの岸の、私の背後では、たくさんのファンが「素晴らしい出来だ、ハッピーエンドだ!」と拍手喝采で声援を送っている。そこにジョゼが川に落ち、泣いているにもかかわらず、である。

 

これは製作側もファンも、ジョゼに対してあまりにも酷い態度なのではないだろうか。

 

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私は「ジョゼ」が嫌いなわけではない。むしろ、とても愛らしい性格をしていると思う。

 

であればこそ、結末を確固たるハッピーエンドとして描いてほしかったのであり、そのために必要な事実の積み上げをきちんと描いてほしかったのである。『とらドラ!』や『輪るピングドラム』、『映画 聲の形』のように。結末から見たときに、この結末は必然であると言い切れるだけの――『天気の子』の帆高がラストに陽菜に言う、「大丈夫」と同じだけの説得力を持つように。これでは、3人で家出する前に陽菜が帆高に言った、「私たちは、大丈夫だから」という、全く大丈夫ではない方の大丈夫という、その言葉が表面上発せられたことをもって、「ああよかった、大丈夫なんだ」と受け取っているに等しく、あまりに軽薄・杜撰であり、およそ寄り添う気がないようにしか見えない。メディウムが本来「物語」しかないアニメであるにもかかわらず「無秩序」な「リアル」サイドに振り切れ、にもかかわらず「リアル」をうまく積み上げられないから、ジャンルでパッキングして空隙を埋めざるを得ない。あまりにも杜撰であるし、無為無策と言わざるを得ない。さながらヒトラースターリンの、結末の決まったプロパガンダ映画である。

(ちなみに、ここでいう「必然性」は物語の結末が納得できる事実(出来事)が描かれている、という意味であり、個々の出来事が「偶然」であるかのように描かれていないといけない=リアリズム要請の話とは別の必然性/偶然性の話である)。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』は、ポテンシャルとしては『リズと青い鳥』や『花とアリス殺人事件』と同様の名作たりえ、もしシナリオが支離滅裂になっていなければ、私自身も何度も見返した可能性が高い。それだけに、その可能性が潰えたことからえも言われぬ悲哀と憤慨が生じるのである。

 

6.

 

結論。

 

名作映画は、「リアリズム」と「物語」の矛盾の弁証法的発展の上にある。

 

そのための最低限の条件は、監督による「現実」の気の遠くなるほどの「観察」である。

 

※※※

 

(補論)カント vs バザン

カントの「物自体=客観」には到達できないという理解と、バザンの「写真=客観」という理解は、正面から衝突する。

 

個人的にはカントに軸足を置いて考えてきたところであるから、理論的刷新が必要になるかもしれない。

 

このすり合わせ(すり合わせができないことも含め)は、今後の課題である。


※2021年1月26日    数箇所にわたり加筆修正した。

※2021年2月11日    誤字脱字を修正。