人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

「社会」あるいは「政治」の欠落──『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 ~とべとべ手巻き寿司~』評註

 

 

ミクロレベルについては、「一人でも誰かが味方でいてくれること」が、社会から切れない、人生をあきらめないためには必要であるという指摘は適切である。

 

また、観客へのメッセージとしても、むしろ非理谷ではなくしんちゃんの側、「最後の一人」を見捨てない側に立って、徒党(いじめっこ)に抗えということで、まあわかりやすくはあった。

 

「最後の一人」が社会と切れてしまった結果、その最後の繋がり、つまり最後まで傍にいてくれた者に憎悪を向けてしまう、というような悲劇が、繰り返されており、それは防ぐべき事柄だからだ。

 

京都アニメーション放火殺人事件の青葉被告人なども、あるいはギリギリ最後のラインを京都アニメーションの諸作品でつなぎとめていたがゆえに、最後の最後で刃が向いてしまったように思われてならない。)

 

現に非理谷は、自分を助けようとしてくれたひろしの手を払いのける。

 

他人から助けられるためにも、いな、助けられるためにすら、最低限の自尊心がなければならないのである。

 

それはよい。

 

しかし、マクロレベルでは相当不満がある。

 

マクロレベルについて、衰退途上国日本を生きていく若者において未来の明るさは本人の頑張り次第だと非正規労働者に言うのはあまりにも酷ではないか。

 

特に、『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』など、昭和~平成のアニメで描かれてきた「標準」的な「家庭」すら、もはや多くの若者からは手の届かない高所得世帯になっている現状に対して、あまりに無反省であろう。

 

(たしかに超能力管理委員会の2人が2回目に野原家に来て手巻き寿司を食べている際には、ひろしの口から今の若者の苦境についての同情的な言葉が出てくるが、それは「今は不況」だから「頑張って働いても報われない」というものであって、若者が貧困に追い込まれているメカニズムの認識が甘いないしは誤っているように思われる。)

 

頑張ってもまともに家族が作れないどころか、生活ができない水準にまで日本人の経済状況は悪化している。いや、させられている。

 

「財界や自民党などの大きな構えとしては、少子化によって働き手が増えない日本国内の市場でビジネスをしていてもこの先そうそう業績は伸びないという考えがあります。ですから、人々の生活を支えるような商品やそのための生産手段を作る企業は、旧来型産業だからと言って賃金の安い東南アジアに生産拠点を移し、日本はそれらの商品を逆輸入するという路線を取るようになりますよね。そうすると国内には雇用されない人たちがたくさん生まれるわけですが、その大半は貿易されない産業であるサービス業に従事することになります。サービス業の多くは非正規の低賃金労働になるものの、海外から安い品物を輸入することで低賃金でも食べていくことができるということです。つまり、国内では雇用の非正規化を進めながら低賃金でこき使おうという流れがあるのです。これが資本主義の状況に合わせた日本の生き残り策でありふさわしい産業構造でもあるという議論がこれまでなされてきました。そこから考えますと、国内における多くの労働者の所得を伸ばすという考えはそもそも体制側のビジョンには入っていないのではないでしょうか。」(松尾匡「資本主義を乗り越える〈投資〉に向けて」現代思想51巻2号11頁)

 

最後、ひろし、みさえ、超能力管理員会の二人が非理谷に「がんばれ」と、さながら『新世紀エヴァンゲリオン』TV版ラストの「おめでとう」のように告げていくシーンは、正直、現実の上記問題点についての認識を欠き、あまりに残酷なように思う。

 

ミクロとしてはそれでいい、というかそうするしかないにしろ、しかしミクロにだけ注目していればマクロとしてやれること(まさに「我々」の「民主主義」)がすっぽりと抜け落ちてしまい、政治が重税からの利権と中抜きのためだけの装置に化けてしまうし、まあ現在の自民党公明党連立政権の下ではそうなっている。

 

大根仁は、次は正面から社会構造や自民党を批判する作品にすべきだろう。

 

経済的困窮、社会的スティグマにさらされ孤立した非モテ非正規派遣男性労働者が超能力手に入れてやることがたとえば国会議事堂の爆破とか首相の暗殺とかではなく、幼稚園の立て籠りなのが悪い意味でリアリティがありよくない……が、そういえば首相の暗殺もリアリティがあるような状況になってしまったのだった。

 

嫌な世相である。