人生を鳥瞰した後にようやく踏み出せる一歩──『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』評註
ただ夫ときちんと向き合う。
ただ娘ときちんと向き合う。
ただ父ときちんと向き合う。
ただ隣人ときちんと向き合う。
そして自分自身ときちんと向き合う。
……ことの、難しさ。
そのためにマルチバースの旅、いな、神になる旅があった。
そのささいな、しかし極めて困難な一歩さえ踏み出せれば、人生は変わるのだ。
マルチバースを行き来することで、自分や自分と関係がある人の可能性、ありえた関係をまさにあるものとして体験できてしまう。
我々は確率論的には生きられず、必ず実存ないし生の真実性から逃れられない。(磯野真穂=宮野真生子『急に具合が悪くなる』)
あるいはロナルド・ドゥオーキンがどこかで書いていた(はず)「人生の本物性」ないし「現実の本物性」の話。
そういえば、マルチバースを彷徨っていた中で、女優になっていたパートでは映画の役なのかそのバースの現実なのかわからない、映画=フィクションに自覚的なメタ演出があったところでもある(カートゥンや発泡スチロール人形(『バス男』で出てきた!笑)、さらには石にもなる。)
その結果、この人生を引き受ける覚悟が生まれるという話であり、人生は有限だからこそ、あるいは人は失敗するからこそ、人生なのだ、と。
『君愛』『僕愛』に近い主題だったように思う。
あるいは、夫の頼りない、ふにゃふにゃした情けない感じが、しかし、実は何物にも替え難い「優しさ」という徳性、更には「愛」という徳性であって、この「愛」によって全ての敵対者の悩みを解消に幸福に叩き落とすことでマルチバース全体に意識が拡散しもはや神になった娘を助けることができた。
拡散し遍在する「普遍」から「愛」によりかけがえのない「個」を作出する、というテーマは、人一般に共通する性質(ウシア=ピュシス)とその個人のみが持つかけがえのなさ(ヒュポスタシス)が結合したのがその個人なのだ、というキリスト教の三位一体説がおそらく下敷きにある。
坂口ふみ『〈個〉の誕生』の主題である。
そしてヒュポスタシスの掘り下げは、ペンギン・ハイウェイに続く畳み込まれた外なのかもしれない。(森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』)
さらに、「愛」による「偶然性」及び「暴力」(マスキュリズム、ミソジニー)からの解放は、この手の主題の傑作『ブレッド・トレイン』が直近で描き切ったものである。
また太った娘、レズビアンの娘をありのまま受け容れること、それはあの拡散意識に乗っ取られた娘がディルドを振り回し、あるいは警備員とコックがアナルプラグもどきをアナルに刺したまま戦っているなかなかにアレなシーンも、多様性の尊重というメッセージなのかもしれない(SMシーンもあったな、そういや)。あと、海外ならやはりアレはノーモザイクなのかね(困惑)。
基本的にこのバース、この現実では全てが内国歳入庁内で完結しているのも箱庭感があってよい。
人生はコインランドリーと内国歳入庁だけで完結したって構わないのだ、旅行になぞ行かなくてもね。