人文学と法学、それとアニメーション。

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パリは、あるいは人の世は、少しは生きるに値する世界になったかしら?──『パリタクシー』評註


タクシーでの一日と老女の一生
(回想)を被せたり(人生を一日24時間で表せば?という比喩はよくある)、タクシー運転手の目から見たパリ(それは目線の(高さ)の話だけではなく、赤信号無視で警官に捕まるとかレストランのトイレを借りるとか)を描いてる点だけでも良い映画である。

 

が、さらにその先にある問いは、「人生とは何か?」という問いである。

 

その人生の中で過酷な目に遭った、もとい、遭い続け、結果振り返れば「フェミニストの活動家にしてレジェンド」と呼ばれるような人物の生き様が、その人が老人ホームに着くまでの(遠回りに遠回りを重ねるタクシーの中での)昔の思い出話が語られる中で、偉大なフェミニスト活動家とは全く知らない、あまつさえフェミニズムに敵対的か無関心でさえある、ぶっきらぼうなタクシー運転手(男性主人公)にも、意図せずとも思わず伝わる、それが凄い。

 

フェミニズムとはこれなのだ。

 

たったひとつの願いすら叶わなかった、しかし歴史上に実在した女性たちの苦悩、恨み、怒り、そしてかすかな希望や願いに縋った、それはおそらく男性、あるいはミソジニストであれ理解可能な感情の、それに基づく積み上げの歴史なのだ。

 

本作では唯一の願いだった、息子と普通に暮らしていくことすら叶わなかった(息子を守るために、夫の性器を焼失させたことを理由とする傷害罪での刑務所行きと、刑務所から自分が出てきたら出てきたで自分の罪と世間からの目で息苦しさを感じている息子、そしてその息子は自分の出所半年でベトナム戦争撮影中に殺害される)。

 

苦悩、恨み、怒りを抱き、かすかな希望や願いに縋った人間は、構造的差別に晒され、また晒され続けている女性に限らず、あらゆる差別に晒され、また晒され続けている人間一般にもあてはまる(この言明で女性差別を相対的に軽く扱うという意図はもちろんなく、他の被差別者との連帯をという意図である)

 

ラスト、彼女から見ず知らずの、老人ホーム入所前の一日付き合っただけのタクシー運転手に、自宅売却費用101万ユーロが遺贈されるのは、悲劇に彩られた人生を送った彼女が、見ず知らずの運転手、ひいては人一般になした、おそらくキリスト教にいう愛の贈与に近い概念であり、「この世界は少しは生きるに値する世界にできたかしら、なったのであればいいわね(私の苦しみも無駄じゃなかったのかしらね)」という半分の自問自答と、「(私はダメだったけれど、)あなたは幸せに生きてくれるよう願っている」という、後押しである。

 

母の仕事の演劇(あるいは代用としての映画)の話も核心であり、全く無駄がない映画である(というと描いているものが人生=無駄そのものなだけに、何もわかってない!と言われそうだが)

 

彼岸/此岸、舞台の上(=理想)/舞台の下の現実、イケメンとの結婚/DV旦那と連れ子の虐待とパラレルなのである。

 

お金は彼岸に持っていけず、此岸に置いて行けないのである。