人文学と法学、それとアニメーション。

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──是枝裕和監督『怪物』評註

『怪物』是枝裕和×坂元裕二×坂本龍一、カンヌ脚本賞に輝いた話題作の写真(8) - ニッポン放送 NEWS ONLINE

1.あらすじ

麦野湊の母・早織は、ある日息子(湊)が夜家に帰らず、廃線になった山で見つけ車で連れ帰る途中、走行中の車から飛び降りるなどの挙動をした後、病院から帰る途中、「僕の脳には豚の脳が入ってるんでしょ!」と暴れて泣き始める事態に遭遇する。以前の殴られた傷なども合わせて問い詰めると、担任の保利先生から殴られた、言われたと言われ、学校に出向いて、校長の伏見らに説明を求める。伏見、教頭の正田、保利、それに前の湊の担任から平謝りに謝られるが、形式的な謝罪であり、しかも「誤解を与えた」式の謝罪であって、激怒する。しかしその後、保利は暴行を認め保護者説明会で謝罪し辞職。そして早織は台風の日の朝、自宅から湊がいなくなっているのに気がつくが…。

 

2.大雑把な感想

いや、これは凄いでしょ…

凄いとしかいえない。

『ミューズは溺れない』に続いて凄い映画を立て続けで見ており、普通の映画じゃ物足りなくなりそうである。

 

3.「怪物」とは誰か?

アニメで喩えれば『ひぐらしのなく頃に』+『映画 聲の形』あたりだろうか。

ひぐらし』部分は各人視点の4話構成(早織、保利、伏見、湊)であり、途中に各人の間主観を構築する共通の事件(冒頭のビル火災やラストの不協和音など)が挟まる。

聲の形』部分は、子供同士の繊細なやり取りはなかなか外、特に大人の眼からは把握できない上に、往々自殺などにつながりうる。

 

「怪物」=「モンスター」であるが、ただちに想起されるモンスターペアレンツ(学校に不当なクレームを入れる保護者)=早織から意味をズラし、保護者の真摯な訴えかけに立て板に水の返答を返す、コミュニケーションが取れない校長や教頭、それに保利(保利については実は校長や教頭の犠牲者である新任のちょっと変わっているがいい先生だと後でわかるのだが)を指すのかと思わせる。しかし、観客に対して、三度そこから意味をズラして、星川依里の父・清高が依里を指して言う「化物」「豚の脳が入っている」に向けられる。しかし、この段階ではまだ、依里が他人より大人びている点や知識が豊富な点を指しているのかと思われる・・・が、四度反転し、湊パートでその意味が明らかにされる。

この星川の父が使う意味での「怪物」の意味は、ホモフォビア・トランスフォビアが、あるいは「普通の人」が、ホモセクシュアルトランスジェンダーに対して使う意味での「異常」「化物」「怪物」のことなのだと、指示される。

もう一つだけ読み込むとすれば、それは「インディアン・ポーカー」の改造版怪物誰だゲームを遂行中、「心を殺して何も感じないふりをする」モンスター〔なまけもののことなのだが〕だと言われて、湊が、「星川依里くんですか」と返す部分を踏まえれば、その意味の「怪物」の意味も五つ目意味としてあるのかもしれない。もちろん、依里が「心を殺して」いるのは、「女っぽい」ことで常にいじめのターゲットにされるから、そしてそれができてしまう知能の高さがあったから、「殺さざるを得なかった」結果であるのであるが・・・。そして、これがあてはまるのは依里だけではない。「わきまえておられる」(森喜朗元首相の女性委員への発言であるが)LGBTQであらねばならない世間からの圧力は極めて強く、わかりやすい形での従属と順応を強いられるのである。

 

4.主題

「怪物」とは依里を「怪物」と呼ぶ父・清高に代表される我々、なのだろう。

LGBTQの権利保護云々、多様性云々が課題とされて久しく、以前よりは権利保護の動きそれなりにはあるが、依然バックラッシュも強い。もうみんな忘れたかもしれないが、岸田首相の秘書官であった新井勝喜が同性愛者を見るのも嫌だと言って更迭されたのは、2023年2月4日である。また、LGBTQの差別禁止法案はもとより啓発法案ですら自民党内保守派の強硬な反対にあって未だ成立していないのが現状である。

そして、そういった苛烈なバックラッシュもさることながら、「普通の人」による「日常的」な会話が、性的少数者の子供たち(というか、明確にどのようなセクシャルアイデンティティであるのか、セクシャルオリエンテーションであるのか未分化な状態である子供たちを含め)を追いつめてく様がありありと描かれる。

 

星川依里の父が、「化物」と言い、また会いに来た湊に無理やり「病気が治った」「おばあちゃんの家の近くの女の子を好きになった」と言わせ、「やっぱり嘘」と言った依里を虐待(虐待は恒常的)しているのは、当然依里を追い込んでいるが、湊が追い込まれていく様は、虐待などを伴わない分、「ああ・・・」という気持ちになる。保利先生は、よく作文の暗号に気づいて、台風の日の朝に湊の家に行ったものよ・・・どうか復職してほしい(また、校長も改心して自白・警察への出頭と辞任と保利の擁護をしてほしくはある)。

 

クラスメイトの男子が依里に言う「女かよ」であったり、「湊、星川のこと好きなんじゃないの?」であったり、保利先生が湊と依里の取っ組み合いの後に保健室で告げた「男らしく仲直り」であったり、早織が車の中で湊に告げた「湊が幸せな結婚をして家族を持つまでは頑張るってお父さんと約束した」「普通の家族でいいんだよ」であったり、リビングで「オネエ」タレントが出ているテレビがそのタレントを面白可笑しい扱いをしていたりする、もちろん特に保利や早織は全く悪気はなかったのだろうが、しかしそれがすべて湊の心に刺さり続け、最終的に湊の父の位牌に湊が「なんで生まれてきたの」と問いかけるシーンにつながってしまう。

 

早織編で聞き取りにくかった湊のセリフは、「僕はお父さんみたいになれない」であって、この湊が死ぬほどの勇気を出して言った一言が聞き取りにくかったことが後々尾を引く不運ではあるが。

 

しかし、その湊を救う言葉をかけるのが、孫を轢き殺し、しかも夫に身代わり出頭させ、早織の訴えは無視した伏見なのは、何の因果だろうか。

 

「僕、好きな人がいるんです。でも誰にも言えない。絶対に幸せになれないから・・・」

 

に対して、

 

「特別な人だけにしか手に入らない幸せは、幸せじゃない」

 

と返させる。

これを孫を轢き殺した伏見に言わせるのは、あるいは湊が自分の孫に見えたのか・・・

ベランダで「ごめんなさい」とつぶやいた湊に声をかけ「嘘をつきました。保利先生は悪くない」と言った湊に「私とおんなじだ」と告げ、トロンボーンとホルンの不協和音を湊と奏でる伏見は、人間に見えた。

 

これもまたキリスト教的「愛」の普遍性に見えてしまうのは、山本芳久『「愛」の思想史』を読んだからか。

 

5.最後に

「怪物ですよ、あれは。頭に豚の脳が入っているんですよ。」

 

この言葉に抗するのが、ラストシーンの、雨が降り、土砂崩れが起きた秘密基地のその先を、「生まれ変わりなんかないよ」と言いながら軽やかに駆けていく湊と依里である。二人のその先を遮るフェンスは、以前と異なって、なくなっていた。

 

【追記】

坂本龍一の追悼文言が最後に出てきた。

そして今、坂本龍一の追悼記念で4Kの『戦場のメリークリスマス』が上映されているところがある。

大島渚作品の上映権を国が取得するとかなんとかの都合でラストランだとされていたのだが、伸びたのだろうか。

それはいいのだが、このラストラン期間中に、あの曲だけは聞いたことがある『戦場のメリークリスマス』を観てみたいと思い観たのだが、かなり微妙な内容で、よく映画を一緒に観に行く友人との鑑賞後の喫茶店での映画の会話も普段よりも遥かに早く切り上げ別の話題に移ってしまったのだが、その後その友人が調べたには、セリアズ(デイヴィッド・ボウイ)とヨノイ(坂本龍一)の同性愛を描いた作品だった、とのこと。言われてみれば確かに冒頭に強制わいせつの罪で処刑された話があったな、と。『戦場のメリークリスマス』が上映された時代の日本社会は同性愛に対して、ハラ(ビートたけし)のあの調子だったわけだが、それよりはより良い社会にはなっている…ようには思う。

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