人文学と法学、それとアニメーション。

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信用なき日本社会で「跳ぶ」こと――『劇場版SHIROBAKO』評註

1 問題の背景 

 TVアニメ版『SHIROBAKO』及び『劇場版SHIROBAKO』はアニメーション制作会社、武蔵野アニメーションの進行スタッフ・宮森あおいを主人公とする、アニメーション製作過程における人間関係を描くアニメーションである。そのことから直ちに、「アニメを作るアニメ」とメタ化され、その制作過程で生じる「問題」は、作品の脚本がリアリティを持つように作られれば作られるほど、現実社会におけるアニメ製作に対する批判として投げ返されるはずである。

 

 では、そこで描かれている「問題」とは何か。「問題」とはアニメーション制作過程が正常に働かないことである。では、正常に働いてないのはどの部分か。

 

 TVアニメ11話12話では第三少女飛行隊の最終話完パケ後の出版社の担当者・茶谷からの原作者の不同意とそれによる膨大な時間、資金、社会的信用、社員のやる気を浪費する作り直しの危機が「問題」であった(これは『劇場版SHIROBAKO』の冒頭のミニチュア劇で簡単におさらいされている)。

 

 他方で劇場版では2つの「問題」が描かれる。

 一つはTV版後、しかし現在から見たら過去の話で、いわゆる「タイマス」事変である。丸川がメーカー(トラップ社)との正式な契約締結前から製作を開始し、武蔵野アニメーション史上最速のスケジュールでストックを作っていた「タイムヒポポダマス」が契約締結に至らずお蔵入りになり、同社に多大な金銭的・社会的信用喪失を招き丸川の社長辞任に繋がった「問題」である。

 もう一つは現在の問題で、ウエスタンエンターテイメント(葛城)がげーぺーうーとの間で『強襲揚陸艦SIVA』のタイトルについて製作委員会に関する法的権利義務関係をきちんと整理していなかったために、武蔵野アニメーションによる完成間近になってげーぺーうーが権利主張をし、実労働にかかわらず、げーぺーうーが元請、武蔵野アニメーションが下請となりげーぺーうーが利益と名声を総取りし、武蔵野アニメーション再興の野望がとん挫しかねない状態に至ったことが「問題」である。

 

 これらは、別々の問題ではあるが、しかし、日本社会における信用の不在――bona fides[1]の不在が共通の原因であり、そしてそれは現実の社会においてもまたそうなのであり、SHIROBAKOシリーズはそのことを批判しているのであると考えられる。

 

 そもそも、TVアニメのときから続くアニメ業界・若手アニメーターの貧困の描写はひきつづきなされ(例、傷みまくっている武蔵野アニメーションの営業車や、安原絵馬が同居中の久乃木愛に対して「(久乃木さんと住めて)お風呂とトイレが別なんて夢みたい」と発言していることを筆頭に、貧しさ=信用の入らなさは随処にうかがわれる)。本来の配当上重視されるべき作品に対し寄与度の大きい個々のアニメーター・スタッフに対し信用が入らないのである。他方で羽振りがいいのはいい加減な仕事をしている茶沢らである。

 

2 問題――bona fides不在

 上で述べたように、TV版と劇場版の問題は繋がっている。

 TV版では武蔵野アニメーションと原作者・野亀武蔵の間に入っているAgentの夜鷹書房ないしは茶沢がbona fidesを持ち合わせていないことが問題であった。茶沢のいい加減な態度にもかかわらず、渡辺・木下も葛城も確認できなかった。それというのも原作出版社に対してアニメーション制作会社及びメーカーは弱い立場にあり、強く出れなかったからである。本権auctoritasを持つものが横暴に振る舞うその様は、所有権だけでなく著作権でも同様なのである。

 このときは、宮森と監督・木下誠一が、西部劇風の独自パート(劇中の非現実的現実)を構成することで夜鷹書房の関係者を通さずに直接野亀と対話することで事なきを得たが、一つ間違えれば最終回の全面差し替え及びそれに伴う多大な損害がありえたのである。

 劇場版では、メンバーも減り社屋の壁も植物にうっそうと覆われてしまった武蔵野アニメーション凋落の原因が、いわゆる「タイバニ事変」にあったことが描かれる。丸川社長が先行して金銭振り込みも契約締結もないまま武蔵野アニメーションの初の独自タイトルアニメ『タイムヒポポダマス』製作を開始し、結果委託元のメーカー・トラップ社から契約締結を拒否され、(同社がキャラクターデザインを連れてきた関係で)権利関係・道義的関係から他者に振り替えることもできず、お蔵入りになった結果、丸川辞任で倒産は免れた[2]ものの、大きく社員が離散し、社は傾いた。契約書を取り結ばない商慣習については、後にげーぺーうーとの紛争でも出てくるが、それだけではなく、信頼して制作を開始したのにちゃぶ台返しをする特にトラップ社側の精神性に問題がある。

 

 そして、劇場版の現在において、ウェスタンエンターテイメントとげーぺーうー間での法的紛争が生じた。まずは2019年2月末になってもげーぺーうーが完成した絵コンテ(おそらくは数千枚になるはず)のウェスタンエンターテイメントへの引き渡しを行わず、監督の絵コンテ4枚しか完成していなかった。激昂する葛城に対し、げーぺーうー社長の三芳は「遅れるのはよくあること」「心配させないために遅れていると知らせなかった」と述べたのち、ウェスタンエンターテイメントでげーぺーうーとの交渉に当たっていた宮井の前任者の三毛斑の提供した資金が少なすぎたと蒸し返し、「追加予算次第で」と告げて葛城を追い出した。これは最判平成14年10月15日民集56巻8号1791頁のケースと同様に、Win-Winの関係になるから契約する、という契約法の基本中の基本、bona fidesがおよそ存在しておらず、相互不信、ビジネスでは騙された方が悪い的な出し抜き競争観を前提に、メーカーに対し下(元)請という弱い立場でありなかなか予算の少なさを指摘できない制作会社が、ここぞとばかりにサンクコスト(の罠)や道義的関係を前提に製作物の引き渡し拒絶でメーカーから引っ張れるだけ資金を引っ張ろうとしているという構図がうかがわれる。

 これにより葛城は渡辺に泣きつき、「げーぺーうーからは企画を完全に引き上げてきた」(もっとも、ここの脇が甘かったことは後述のとおり。だから「ロートル」なのであり、葛城・渡辺コンビは次回作以降は宮井・宮森ペアの新世代に取って代わられるであろう。)として、武蔵野アニメーションが元請で『強襲揚陸艦SIVA』を製作することになった。しかし、葛城の権利関係の理解・整序が甘く、完成間近になって、SIVA製作委員会に入っているげーぺーうーの社長三芳からメーカー葛城に対してクレームが入り、武蔵野アニメーションがほぼすべての実労働をしているにもかかわらずげーぺーうーが元請、武蔵野アニメーションはその下請となり、利益はげーぺーうーが総取りする、という危険すら出てきた。これも上述のように、不信用の循環で回しているがために、普段虐げられているげーぺーうーの側がⒸをタテにメーカーからむしれるだけむしり取ろうとしてなした行為の一環である。これに対し心が折れそうになる宮森であったが、「今日と違う明日」を目指し、タイマス事変の過去を振り切り、宮井と共に三芳のもとに乗り込む。ここがTV版の対野亀戦同様デフォルメされた時代劇風なのは、劇中現実でもありえないと製作者が自覚しているからであろう(か)。まずウェスタンエンターテイメントの宮井の主張①は、押印前なのだから、ウエスタンエンターテイメントとげーぺーうーとの間の業務委託契約不成立という主張である。しかし、敵もさるもの、アニメ業界の商慣習(通常は押印しない)と、実際に広告を打ったり製作会議をしていることを挙げる三芳により、この構成はあっさり否定されてしまう。しかし、ここで宮森が口を挟む。「責任……責任とおっしゃるんでしたら、御社にも誠意が必要です。制作会社の誠意とは、作品を完成させること。」これは一瞬、宮森が「誠意」というダイレクトに「bona fides」に繋がる言葉を出している点から、このbona fidesの境地に至ったのか?と錯覚しそうになる。しかし、忘れてはならないのは、ここで宮森と宮井はヤクザの姐さんの恰好(着物)である上に、なんならげーぺーうーに来る前の合流時点で「荻窪で杯を重ねた仲」「恩義を返す」等々疑わしい言葉が並ぶ。そのコンテクストで「誠意」という言葉を使う。最後は「よござんすね」で右肩のヘドウィックの入れ墨を三芳社長に見せて首を振らせる。おそらく制作者は「誠意bona fides」を描こうとし、事実それを剔出しているが、しかしにもかかわらず「土俗の誠意echange」と混ぜてしまっている。大変惜しい(が、これこそが「あがき」であり「ここが日本だ、ここで跳べ」ということなのかもしれない)[3]。ともあれ、証拠をそろえ(2017年1月20日づけウエスタンエンターテイメント、げーぺーうーとの製作会議議事録及び葛城・三芳間の秘密録音)、契約条項(契約書12条1項の催告、同2項の債務不履行解除)を押さえた宮森・宮井コンビの活躍で、三芳はSIVAタイトルへのクレームを取り下げ、手を引くこととし、(木下監督のこだわりから一旦完成後のラストの地獄の作り直しを経て)『強襲揚陸艦SIVA』の納得のいく完成と、ムサニの復活、『真・第三少女飛行隊』の製作等に至る。

 

 ラストのロロとミムジーの会話。

「悪くないよ」

「悪くないね」

 

3 おわりに

 日本社会特に経済社会において信用bona fidesがマクロ条件としてある「べき」なのは論を俟たないし、それは皆で目指すべき課題である。しかし、差し当たりマクロは動かせない所与とすれば、マクロ条件の悪い中で、ミクロの生活を積み上げ、その小さな起点を防衛拠点として抵抗する他ない。『夜明け前』[4]の青山半蔵(及びその同志たち)の実践、あるいは、『隠された奴隷制[5]のeveryday communismである(これは「コミュニズム」というよりは「コミュニタリアリズム」というべきと思うが。)。宮森たち高校のときの5人組は、あるいは武蔵野アニメーションは、平岡が言うように「上手くいかなくてむかつくことばっか」だけど、夢に向かって「あがいて」いる。そして、アルテが言うように、今ここにない「奇跡」を夢想しそこに頼るのではなく、しっかりと自分たちの努力で今日とは違う理想の明日にむけて、各人がそれぞれの一歩を踏み出した。

 

 ともすれば現状追認になりがちではあるものの、我々にとっての所与は(フィクションではなく現実は一つしかない以上)これだけしかないのである。

 

「自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。」[6]

 

「ここが日本だ、ここで跳べ!」[7]

 

[1] 「自己犠牲的な連帯を特徴とするのでなく、たがいに最小にしか拘束しあわず、それぞれ自分の利益を追求する。ただし公明正大に、フェアに、透明度高く、裏でこそこそせず。」(木庭顕『笑うケースメソッド 現代日本民事法の基礎を問う』(勁草書房、2015)89頁)。

[2] 宮森と丸川の喫茶店での会話から、かろうじて債権者集会(破産法第4章第4節)類似の疑似政治システムが働いたのであろうことが推察される。もっとも、後で宮森・宮井のげーぺーうー討ち入りのところで述べるように、bona fidesではなく単に(丸川に対する)義理人情の方の信用が働いたにすぎないと考えられる。

[3] ただし、我々は宮森、武蔵野アニメーションウェスタンエンターテイメント側の目線であるから、げーぺーうーの三芳の不誠実さを指弾するわけであるが、実は三芳ばかりを責めるのは公平を欠く可能性がある。気になるのは三毛斑と三芳の間のやりとりである。仮に三芳が葛城に言ったように、三毛斑から提示された業務委託費が不当に低く、かつ権力関係から三芳が三毛斑に異議を唱えられない恒常的な状態があったなら、三芳ウェスタンエンターテイメントの法的不備に乗じて正当な額まで回復しようとする(bona fidesがなき信頼=実力行使)のは、十分理解でき、同じくbona fidesを欠くウェスタンエンターテイメント側がげーぺーうーのbona fides欠缺を主張する適格を欠くと見る余地がないではないからである(さらに言えば、それを前提にしてもげーぺーうーの権利主張の悪性が強いと見る余地もあるが)。

[4] 島崎藤村『夜明け前』第一部上下、第二部上下(岩波文庫、1969)。

[5] 植村邦彦『隠された奴隷制』(集英社、2019)。

[6] 森見登美彦四畳半神話大系』(角川書店、2008)151頁。

[7] もちろん元ネタは「ここがロドスだ、ここで跳べ!」である。