人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

In iureによるauctoritasの遮断――『ぼくらの7日間戦争』(2019)評註

 本作には原作小説『ぼくらの七日間戦争』(宗田理、1985年)とそれをもとにした実写映画(菅原比呂志監督、1988年)があり、その上にこのアニメーション映画(村野佑太監督、2019年。以下「本作品」とする。)が存在している。

 であれば、本作のテクストを正確に把握するためには、過去作品が積み上げてきた層の上に一体何を付け加えたのかを突き止め、吟味する必要がある。

 村野と脚本の大河内一楼との対談[1]によれば、原作者の宗田は、「子どもがかわいそうな目にあうとか、悲しいことになるのではなく、最後はちゃんと笑って、爽快に大人をいたずらだけでやっつけるところが一番大事」と言い、「細かい部分をそのままなぞってください」とは言わなかったそうである。同インタヴューでは、大要1980年代は子供=「ぼくら」の敵はきちんとした大人―管理教育であって、対立構造が比較的明瞭であった。しかし、2019年の現在は、SNSの発達などで「ぼくら」が大人に接する機会も多く、いい意味でも悪い意味でも大人一般に対して幻想を抱いていない。ここでは「ぼくら」vs大人の対立構造自体が成り立たない。そこで、「今の子にとっての一番の枷は、自らが作っている“人との関係値”や、自分の居場所を守るためにつけている“仮面”ではないかと」いう分析(大河内)から、物語の中心となる対立構造を「ぼくら」vs大人という自身の外部の大きな対立構造から、個々人内部での子供の「ぼくら」vs大人の「ぼくら」という形にしたということである。この様々な「ぼくら」の描写は大人サイドにも切り返すことになり、大人も一枚岩ではないこと、そして具体的にはたとえば千代野議員の秘書の本多政彦が「心情的には子どもだけど大人側についてい」る描写からもうかがえる。主人公らの属性を原作の中学生から本作では高校生にしたのは、「そこで、主人公を高校生に設定しました。高校生は、『もう大人なんだから』、『また子どもなのに生意気なことを言うんじゃない』と、大人の都合で扱われ方がコロコロ変わる、すごく微妙な世代」だからである。そして、この対立構造を軸に、6人の「ぼくら」の最終的な敵は「大人のようにうわべをつくろい薄い関係した築けない子供たち」たる「ぼくら」自身であることが問題であるという設定につながり、それを乗り越えるために各人が「嘘」≒トラウマを暴露し(あるいは本多のリークで強制的に各人の汚い裏面=本音を見ざるを得ず)、その関係破綻をさせた上での信頼関係(bona fides)の再構築に向かうという主筋ができあがる。

 しかし、これだけであれば、まだ本作には至らない。

 本作がこれまでの旧作の歴史に積み上げた層は、上記の「対立構造の変化」だけではない。

 もう一つの層、それは不法滞在のタイ人の子供・マレットの存在である。

 鈴原守が千代野綾を家出に誘った理由は、綾の18歳の誕生日を生まれ育った北海道の里見で迎えさせるという極めて子供じみた理由である。そして一緒に家出をした他の4人についても同様で、そこにはなんの深刻さもない。子供の駄々、ゴッコ遊びにすぎない。仮に深刻になりうる要素があるとしてもせいぜいが旧石炭加工場への(看守)建造物侵入(刑法130条前段)罪に該当すること、程度であろう(もっとも、子供の時分にいわゆる空き家に忍び込んで遊んでいた人は筆者をはじめ田舎育ちの人にとっては珍しい話ではなく、そこまで深刻な問題ではないのではなかろうか。笑)。

 しかし、物語はマレット、そしてマレットを拘束するために現れる北海道出入国在留管理庁の職員2人が登場することで後戻りができない深刻さを帯びて展開されることになる。守はマレットに馬乗りになった若い職員がもがくマレットの頬を平手打ちにしたのを見て、とっさにタックルをしてマレットと一緒に逃げてしまう。

 しかし、この見ず知らずの、しかも不法滞在者であるマレットを絶対に引き渡してはならない、引き渡せないというライン――それをやってしまっては、一生後悔するであろうラインを(まさに主人公の名前「守」にふさわしく!)守るべきであることが導かれる。また、翻ってそこから「敵」は入管であり、そして入管同様、娘を実力によって取り返そうとする千代野議員(地方議員=領域の第二次的政治システム構成員)であり、その議員と癒着し粗暴な実力を行使する山村建設(土建屋)であり、あるいはさらにその上に、道警に顔が利く千代野の親戚筋の衆議院議員=中央の政治システム構成員、と次々に現れる、不透明につるみあった徒党=社会組織=大人側のsegmentationであり、そしてその証左に、最終段階で大人側は子供たちが立てこもる炭鉱記念館(=歴史的な文化財)でもあった旧石炭加工場の壁をさながらテイラノザウルス張りの畏怖を呼ぶ重機で極めて暴力的に破壊する。また、千代野議員の言う「立派な大人」とは「目上の者に素直に従う人間のこと」である(だからこそ目上の衆議院議員に「借り」を作りたくはないし、にもかかわらず「借り」を作ってしまうから電話口ではへいこら頭を下げる一方で電話が終了し次第電話を乱暴に座席に投げつけ、秘書本多の運転席のシートをガンガン蹴って「偉そうにしやがって!」と衆議院議員の悪態をつくのである。ストレスの温床であり、ヒエラルキー構造の下で強いものがより弱いものに犠牲を強いる連鎖である)。このように個人vs徒党という対立構造が描かれていると同定できる。これが本作が歴史に付け加えた第2の層である。

 そして、実はこの第2の層は第1の層と無関係ではなく、第1の層(内心)と第2の層(社会構造)での対立構造は、徹頭徹尾、自律した(自然体の)個人vs徒党という軸を中心としているのである。

 マレットの親は守らに出会う前日に他の不法滞在者たちと共に暮らしていた住居が捜索を受けた際に、拘禁されたか逃亡したのかが判然としない。仮に逃亡していた場合、マレットが入管に拘禁されると、強制送還され両親に一生会えない可能性もある。

 守たちは「もうまともな人生を送れない」(入管職員若手)可能性があるにしても、このようなマレットを見捨ててよいのか、否、このようなマレットを見捨てて、一体何が「まともな人生」なのか?という問いかけこそが、本作の突きつける深刻さを帯びた問いなのである。

 現に守たちには、day1にしろday2にしろ、入管側からマレットを引き渡せば悪いようにはしない、という「取引」(露骨なéchange!)が持ち掛けられ、心が揺れる瞬間はある。もとがただの綾の誕生日までの家出という、いつでも元の人生のレールに戻れる箱庭での、遊びの家出であったのだから、この急激なシリアス展開でマレットを引き渡したとしても、守たちが何ら責められることはない。いやむしろ、犯罪者を引き渡すことは褒められこそするだろう。

 しかし、そういう選択を守は――一瞬迷いながらも――しないのである。

 これは実際に私がこういう選択を迫られたら、それでもマレットを守り切れる自信はない(が、本作を見、そして新海誠監督『天気の子』(2019)[2]を見たことで、あるいはそういう選択をする心づもりあるいは可能性自体は担保されたかもしれない。)

 マレットと両親が離れ離れになるという事態は――たとえ入国管理行政がいかに適切な政治的決定に基づく権限(ないし権原)に基づいて設置運用されていたとしても――許されるべきではない。

 もっとも、入管行政について適式な政治的決定がなされた以上は、強制退去もやむを得ないという抗弁は(ことデモクラシーを否定し政治的決定のみでその成否を決する場合には)一応筋が通ってはいる。本作品を見た鑑賞者の中にも、「いや、さすがに入管に抵抗して不法滞在者逃がしたらダメだろ。法治国家が麻痺する。」と常識的に考える人間は少なくないだろう(私も初見直後はそうであった)。

 しかし、これは本作における重要なポイントを見逃している。

 確かに北海道入国在留管理局の職員は、day2の強制執行開始にあたり、裁判所の令状に基づく捜索であることを明示し、出入禁止を通告している。アニメ作品(フィクション)であるのに、わざわざここのリアリティー(令状について出入国管理及び難民認定法31条1項[3]、出入禁止について同法36条[4])を出す必要があるのか疑問であるのであるが、しかし、これは入管側の権原(auctoritas)の正統性(かつ正当性)を基礎づける重要な事実であり、なればこそ守たちの不当性を強調する文脈を持つ。捜索令状こそはサブ政治システムたる裁判体に基づいて発出される暫定命令であり、理由はどうあれこれに逆らうことは許されないわけである。しかし、本作では、守たちはこれに逆らうだけの正当性を持つ点が重要なポイントである。

 まずは、先にも述べたように、デモクラシー理解から、政治的決定に基づく、つまり裁判体による令状発出であってもマレットに手を出すことは許されないという立論がありうるが、仮にそのような立場に立たないとしてもなお、論拠がある。

 それはday1で入管の2人組が、令状もないのに石炭加工場に侵入し、若手がマレットに馬乗りになり頬を平手打ちしたことである。この事実からすれば本来day2の令状は瑕疵があり発出されるべきではなかったのである。in iureの段階で過剰な暴力を行使した以上は、入管がどれだけ正統な権原に基づく令状を示そうが、既に失格なのである。最判平成8年10月29日刑集50巻9号683頁[5]が正確に捉え損なった部分の話である。

 入管の強制執行手続を詳細に描き、あまつさえ裁判官の令状まで読み上げさせるその意図は、入管は守たちに敵対する存在であることをも踏まえると、このauctoritas対占有のラインの思考を明瞭に示す点にあるといえよう。

 そして、主人公の名前は「守」であった。「守は、その字の通り、自分たちの場所を守る子です。」「みんなとの絆や関係を守る主人公であったらいいなと思い、名前をつけました」(村野)。占有possessioは攻撃方法としては使えないことは自明である。他方、マレットと両親を繋ぐ、玉簾さんこと前作映画のヒロイン・中山ひとみと守とのコミュニケーション手段は匿名のライングループである。しかも西洋歴史同好会である。監督の見通しは極めて透徹で明瞭である。ハーバーマスの描く文芸的公共圏[6]の現代版であり、現に近代西欧でも、文芸的公共圏のネットワーク(パリのサロン)を経由して知識人を庇護し育み(デカルトホッブズ、そして成功しなかったがガリレオの救済)がなされていた[7]。お膳立てがすぎると思うのは私だけではあるまい。笑 守の歴史知識に裏打ちされた自由で素朴な想像力により、ネット拡散で暴力的な手段を封じ、子供たちだけで作った気球を空に浮かべられる。その歴史知識に裏打ちされた自由で素朴な想像力に賭けてみたい。守はまごうことなきマキャヴェリアンである。無論、君主論ではなくディスコルシの方の、であるが。

 本多が(心情的には子供寄りのキャラクタらしく)最後に吹っ切れて千代野議員に「どろだんご」をぶつける。そして千代野議員のズラが取れる。土建屋の若手従業員もズラが取れた千代野議員を「ニセモノ」として「どろだんご」をぶつける。直前の入管の「遊びは終わりだ」発言と対比すると、やはり『ホモ・ルーデンス[8]=遊ぶことにこそ価値がある。笑 神話と儀礼の行き来のなかで、権威・権力は解体され自由が創出される。最後のどろだんご合戦はこの背景抜きに考えると意味不明な余剰となる。

 本作の批判の射程は、政府の黙認のもと企業がタイを含むアジアの人々をだまして低賃金高リスクで入国させ、そして苛酷な労働を理由に脱走すれば入管による収容がなされ、長期の劣悪な環境での拘禁・過剰暴力が行われ、それを主権者たる国民が見て見ぬふりをしている、つまり守たちには決してなれない「まともな人生」を走る、2019年現在の我が国の現状と我々の現状に対する鋭い批判ともなっている。

 

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[1] 「「ぼくらの7日間戦争」大人VS子どもの対立構造は現代にそぐわない。“令和のぼくら”の敵とは? 監督×脚本【インタビュー】」https://animeanime.jp/article/2019/12/13/50316.html〔2020年4月12日最終閲覧〕。

[2] 拙稿「令和元年日本のマニフェスト――『天気の子』評註」アニクリvol.4.6[Ⅰ](2019年)。

[3] 出入国管理及び難民認定法31条1項 入国警備官は、違反調査をするため必要があるときは、その所属官署の所在地を管轄する地方裁判所又は簡易裁判所の裁判官の許可を得て、臨検、捜索又は押収をすることができる。

[4] 同法36条 入国警備官は、取調、臨検、捜索又は押収をする間は、何人に対しても、許可を得ないでその場所に出入することを禁止することができる。

[5] 「一 原判決の認定及び記録によれば、本件捜査の経過は、次のとおりである。

 1 和歌山西警察署所属の警察官ら捜査員八名は、A警部補の指揮の下に、被告人の別件覚せい剤所持を被疑事実とする捜索差押可状により、平成元年一一月三〇日午前一一時二五分ころ被告人方の捜索を開始し、同日午前一一時三三分ころ寝室のテレビ台上に置かれていたポケットベルのケースとポケットベル本体との間に銀紙包み入り覚せい剤様の粉末一包みを発見した。

 2 右銀紙包みを示された被告人が「そんなあほな」などと言ったところ、その場に居合わせた警察官が、被告人の襟首をつかんで後ろに引っ張った上、左脇腹を蹴り、倒れた被告人に対し、更に数名の警察官がその左脇腹、背中等を蹴った。

 3 警察官らは、前記銀紙包み入り粉末について予試験を実施した結果、覚せい剤反応があったことから、同日午前一一時三六分ころ右銀紙包み入り覚せい剤(以下「本件覚せい剤」という。)所持の現行犯人として被告人をその場で逮捕するとともに本件覚せい剤を差し押さえ、同日午後零時一〇分ころ被告人を和歌山西警察署に引致した。被告人は、同署において、本件覚せい剤所持の事実を否認したが、同日午後三時ころ警察官の説得に応じて尿を提出した。

 4 同年一二月二日本件覚せい剤所持の事件は検察官に送致されたが、被告人は、検察官に対して覚せい剤所持の事実を認め、同日引き続いて行われた勾留質問においても同様に事実を認め、さらに、同月五日警察官に対し入手先を含めて事実関係を全面的に自供した。

 なお、警察官は、取調べの過程で、覚せい剤に関する前科のある友人らの氏名が記載されている被告人の手帳(アドレス帳)を示したが、この手帳は、右捜索の際には押収されておらず、その後も任意提出等の法的手続が履践されていない。

 5 被告人が、和歌山西警察署に勾留中、肋骨付近の痛みを訴えたことから、同月四日和歌山市内の病院において医師の診察を受けさせたところ、医師は、レントゲン検査の結果からは明瞭な骨折は認められないものの、被告人の愁訴から「肋骨骨折の疑い」との病名を付した上、患部を湿布する処置をして胸部のコルセットと湿布薬を渡し、その後、同月一一日被告人のために来院した警察官に再び湿布薬等を渡した。

 6 被告人が提出した前記尿から覚せい剤成分が検出され、被告人は、同日本件覚せい剤所持と覚せい剤使用の事実により起訴された。

 二 以上の事実に即して、本件覚せい剤及びこれに関する鑑定書並びに被告人が提出した尿に関する鑑定書の証拠能力について検討する。

 警察官が捜索の過程において関係者に暴力を振るうことは許されないことであって、本件における右警察官らの行為は違法なものというほかはない。しかしながら、前記捜索の経緯に照らし本件覚せい剤の証拠能力について考えてみると、右警察官の違法行為は捜索の現場においてなされているが、その暴行の時点は証拠物発見の後であり、被告人の発言に触発されて行われたものであって、証拠物の発見を目的とし捜索に利用するために行われたものとは認められないから、右証拠物を警察官の違法行為の結果収集された証拠として、証拠能力を否定することはできない。

 なお、前記手帳についても、警察官がこれを入手するについて所定の手続を経ていないことは事実であるが、この手帳の押収手続に違法があるからといって、その違法が、右手帳の入手に先立ち、これと全く無関係に発見押収された本件覚せい剤の証拠能力にまで影響を及ぼすものということはできない。

 また、被告人の尿に関する鑑定書についても、原判決の認定及び記録によれば、被告人は、第一審公判において、警察官から前記暴行を受けた事実をしきりに訴えてはいるものの、尿については、覚せい剤を使用したのは事実であるから、その提出を拒む意思は当初からなかったとして、尿を任意に提出した旨供述していたというのであるから、前記暴行は尿を提出することについての被告人の意思決定に実質的な影響を及ぼさなかったものと認められるのであり、任意提出の手続に何らの違法もない。

 三 そうすると、本件覚せい剤及びその鑑定書並びに被告人が提出した尿の鑑定書の証拠能力はいずれもこれを肯定することができるから、その証拠能力を否定した第一審判決を破棄し、本件を和歌山地方裁判所に差し戻した原判決は正当である。」

[6] ユルゲン・ハーバーマス〔細谷貞雄=山田正行訳〕『公共性の構造転換 第2版』(未来社、1973年)〔主に72-85頁〕。

[7] 木庭顕『憲法9条へのカタバシス』(みすず書房、2018)142頁。

[8] ホイジンガ〔里見元一郎訳〕『ホモ・ルーデンス』(講談社、2018年)(初出『ホイジンガ選集第1巻』(河出書房新社、1971年))。