人文学と法学、それとアニメーション。

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切れない過去、日本という病──『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』評註

すぐれたフィクション作品は、その時代背景──文脈(ケンブリッジ学派?)を超えて、普遍的射程を持ちうる。

 

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、2023年日本の現状、どん詰まりという文脈がなければ描かれなかったであろうが、他方でその射程は非常に長く、普遍性を勝ち得ている。

 

基礎テイストに『ひぐらしのなく頃に』はある感じがする。

あとはやはり(やはり?)京極夏彦狂骨の夢』かな。

まぁ2023年といえば京極夏彦17年ぶりの百鬼夜行シリーズ『鵼の碑』が出たわけですが。

 

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労働者にヒロポン打って「24時間働けますか?」と、戦後復興の犠牲にするのは、旧日本軍の若者兵士を無謀な攻撃に送り出し犠牲にした日本社会がそのままスライドしただけであり、また、ヒロポン精製過程でもまたぞろ弱者の命を削って行くという地獄。ベッドに縛られ痩せ衰えたゆうれい族の血を輸血され半人半霊になった無数の人々はさながらナチスドイツによりアウシュヴィッツガリガリに痩せ衰えたユダヤ人を彷彿とさせる。儲かるのは製薬会社や銀行、富裕層。しかもヒロポン業者の金持ち一族が、単に拝金主義・人間の尊厳や人権敵視なだけじゃなく、政治的なナショナリストでもある。「あの戦前の素晴らしき大日本帝国」を回顧し今度は勝つための犠牲なんだから喜べときたものだ。今(2023年)の岸田自民がやってる大軍拡と金持ち優遇政策と瓜二つである。そして、これこそがまさに今の岸田自民党・日本政府が「朝鮮人虐殺の文書などない」と言い出すわけである。由緒ただしき栄光ある日本の素晴らしい歴史に自身を一体化させた誇大妄想の幼児的万能感に浸る政治家たちにとって、過去は現在と繋がっており、現在の権威やプライドを傷つける不祥事は歴史にあってはならないのだ。

 

本作品は、日本の戦前と戦後が明確に断絶させられず、日本人の加害責任が明確に意識されないまま、(朝鮮戦争の追い風で)のっぺりと戦後復興の波に乗ってしまったことが、経済的に衰退する日本社会において再びデシフィットとして露出しつつある2023年の現状の根本的問題であることを剔抉し、「おためごかし」でない方法で子供に伝える作品である。その未来を夢見、しかし年寄りの欲に殺され狂骨と化した少年を描くことで。あるいは年寄りに陵辱された少女を描くことで。しかし、沙代も時弥も助けられない。唯一の希望は鬼太郎に託された…。今の子供たちには、こんな未来、こんな日本しか用意できず、本当に申し訳ないと思う。本作品は未だ戦前の省察がなされないままに戦後社会にスライドした日本社会への鋭い社会批評を行う悲劇作品である。その意味で、同じく鋭く2019年日本を切り出しつつもラストで切り返した喜劇作品である新海誠『天気の子』と対をなす名作である。

 

『天気の子』の持つ殆ど古典的とも言える普遍的な射程については、以下の記事を参照。

hukuroulaw.hatenablog.com

 

「ゆうれい族」というのは、在日コリアンの隠喩で、哭倉村自体が「日本人」の隠喩なのかもしれない。そうであれば、あの龍賀当主の、「血」(と「土」も!)を搾取(=徴用)されて死んだゆうれい族の怨念=狂骨を、そのゆうれい族にぶつけるシステムは南北境界線のことであろう。いやはや。戦前は植民地朝鮮を、戦後は朝鮮戦争を利用して大国化した日本。

 

他方、日本国内を見れば、一般日本人もまた何のことはない、戦前は日本軍兵士、戦後は企業戦士としてこきつかわれ切り捨てられてきた。そして儲けは政治家と企業に。「この国はまだ戦争の途中なのだよ。経済戦争の。」戦前から2023年にまで続く強固なシステム。

 

龍賀の当主が井戸の底で使っていた、幽霊族の怨念を人間ないし龍賀が吸収し反転させて同士討ちさせる手法も、今の岸田自民党が芳野・連合会長と国民民主を上手く使って今のところ唯一政権交代の芽がある立憲民主と共産を仲違いさせている手法がチラつく。あるいは、秋葉原無差別殺傷京アニ放火か大阪クリニック放火か。弱者同士を歪み合わせ、殺し合わさせ、連帯を防ぎ、権力者富裕者はぬくぬくと過ごす。あと、やられそうになったら子供のフリを始めるところも含め(スラップ訴訟や弱者男性論、『正欲』でも出てきたが、性的少数者に対して多数者が「うちらに気ぃつかわせとるんは、ハラスメントやないんで?」まで)。

 

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しかし、『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズ観に来たらまさかジャニー喜多川が出てくるとは思わないじゃない

 

あるいは、『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズのふりして『Fate Stay Night / Heven’s Feel』をお出しするのはダメでしょ