人文学と法学、それとアニメーション。

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本物を目指すことと諦めること━━『EUREKA/交響詩篇エウレカセブンハイエボリューション』覚書

 

 

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ハイエボリューションシリーズは全て見ており、またテレビ版も見ているのであるが、いかんせんよくわからない部分が多々あった。苦笑

 

しかし一方で、まあどうせ皆そんなものだろうということで、差し当たりの感想をここに記しておく。

 

よかったところ

エウレカがイエガマイスターを飲んでいたところ(私も好きな酒である)

・映像、特に冒頭の山1つ吹き飛ばすビームとか、航空機内でのアイリス保護までの銃撃戦とか、まあすごかった。それだけでも映画館で見る価値がある。

・デューイが高僧になっていたところ。

 

悪かったところ

・シナリオがよくわからない・・・

ホランド(他多数)は死ぬ必要があったのか・・・

 

以下、ストーリーについての感想。

 

エウレカがアイリスを助け、いや、それ以前に、アイリスが風呂場で目撃したような数々の「古傷」で示されるように多くの人々を助けてきたのは、「贖罪」のためのである。これは、自身の福音(Eureka)で作出した偽物の世界を、しかし本物と定めて受け入れることである。

 

しかし、その偽物の世界であることに気づき、そして自分が偽物であるというその事実を許せなかったのがデューイである。創造主であるエウレカの願いに反する行為を行うために、ニルヴァ―シュとアイリス(次のエウレカ)を接触させ、この偽物の世界自体の抹殺を、そしてそれが叶わないとしても、宇宙エレベーターを倒壊させることで、世界の主要都市の人口をほぼ抹殺することを計画する。

 

つまり、要約すれば、エウレカの態度は偽物の世界をそれでも本物として受容してそこを守護して、そして贖罪しつつ生きることであり、他方、デューイの態度は偽物の世界は偽物の世界として本物と区別し偽物を抹殺しようとするものである。

 

このような態度は、実は、我々のフィクションに対する向き合い方という、メタレベルの話に接続される。

 

すなわち、フィクション=偽の中にどっぷり浸かり、外に出てこないか、それともフィクション=偽を偽として打ち破り、なお本物を目指すか、である。

 

個人的には、デューイの態度(フィクションと現実を厳しく分節する)を選択しつつ、しかしエウレカのようになおフィクションの世界を肯定する、すなわち、フィクション内部の善悪判断を、もしその善悪判断を肯定するのであれば、そのまま現実に再現実化するということはあってよいのではないか、と思う(折衷説)。