人文学と法学、それとアニメーション。

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『夏へのトンネル、さよならの出口』覚書

全体プロットのアイディアは悪くない、悪くないのだが・・・

 

やはりアニメ映画82分の尺では、花城あんずが8年間、いやひょっとしたらそれ以上の期間ずっと思い続けられるほど塔野カヲルを好きになる説得力ある積み上げには足りない。

 

劇中曲を流しながら重要エピソードを飛ばし飛ばしで流す手法も、『君の名は。』以降よく見るのであるが、しかし、やはり積み上げが足りないものは足りない。

 

出会った日の電車の遅延の「即興再演」も、傘(を返却すること)の意味もわかるが、積み上げが足りないので唐突感・物足りなさがある。

 

特に「即興再演」は「偽物(劇中での過去の現実の再演であり、象徴的には傘がひまわりになっている)」なのに、しかし「本物」以上に「本物」であるから、とても惜しい。

 

(フィクション内部でフィクションたる劇をすることの意味については以下の論考を参照)

 

hukuroulaw.hatenablog.com

 

特に川崎小春へのパンチと仲直りイベは一体何だったんだ・・・

 

あの8年間の月日待ち続け、そして8年後にトンネルに向かうその思いの強さこそが作品の核なのだから、もう少しどうにかできなかったのか・・・。

 

***

 

「あなたと二人でなら、この世界を捨ててもいいと思ったのに。」

 

こういうセリフを使うなら、やはり積み上げがないとダメだろう。

 

自身が持つ「特別」な才能を選ぶか、それとも「特別」な人を選ぶか。

 

これは、祖父の不遇な一生からの影響で、「大きな物語」を選びたい(この世界に爪跡を残すためにウラシマトンネルに入る)と言っていたあんずの心境が、「小さな物語」(水族館デートや花火大会を重ね、出会った日の電車の遅延の「即興再演」すらできるようになり自然に笑えるようになったカヲルと2人で生きていく)を選ぶ方向に変化していたということの示唆である。

 

***

 

「ウラシマトンネル」は現実よりも時間のすすみが遅いのと引き換えに「欲しいもの」が手に入るのではない。

 

「失ったもの」が手に入るのである。

 

ある日喧嘩し、そしてカヲルのためにカブトムシを取ろうとして木から落ちて死んだ妹のカレンとトンネル内で再会したカヲルであった。

 

しかし、そのカヲルのもとに、ウラシマトンネル内にはメールは届かないはずなのに、あんずからのメールが届く。

 

1月、1年、4年、8年・・・。

 

「私は、あの日以来、前に進んでるよ」というメッセージ。

 

そこでようやく、カヲルはあんずを好きな気持ちが抑えられなくなり、カレンを置いて、トンネルを出て現実に戻ることを決意する。

 

これは、見方を変えれば、実はカヲルが「失ったもの」は、カレンそのものではなかったと見ることもできる。

 

「カレンとのきちんとしたお別れ」、あるいは「カレンの死を受け容れること」こそが、カヲルが失ったものだった、ということなのではないか。

 

だから、カレンがカヲルに「お兄ちゃんには、カレンとだけじゃなくて、他の人とも仲良しになって欲しいな」と言い、また、トンネルを出ることを決意したカヲルが、昔の家の玄関から出ようとするときに、カレンが「いってらっしゃい!」と明るい声で言い、カヲルが「行ってきます!」と返すというやりとりがあるのではないか。

 

そして、大切な人の死を受け入れるのに、トンネルに入ってから8年(カレンの死から14年(約))が短すぎるということは、我々が暮らす現実世界の出来事としても、ないのではないか。

 

***

 

ただ、もう少しうまいエンディングもあり得たのではないか。

 

特に、8年後のあんずも再度ウラシマトンネルに入ったわけであるから、たとえば「失ったもの」としての、あんずとの8年間があるのであれば、あんずの取り戻しとして、トンネルから出る際、カヲルだけが8年分歳をとる、とか。

 

まあしかし別に8歳差がなんだ、という話でもあるが。

 

***

 

ここ最近、『映画「五等分の花嫁」』『さかなのこ』『ブレット・トレイン』と傑作ばかり観ていたせいで、物足りなく感じる度合いが大きすぎたのかもしれないが、物足りないように感じた。