人文学と法学、それとアニメーション。

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弓道と心の機微──『劇場版ツルネ ―はじまりの一射―(7.1ch上映)』評註

弓道というのは地味なスポーツである(たとえば『ハイキュー‼︎』が描くバレーボールと対比すれば明らかに動きは地味だしチームプレイ性も薄い)。

 

しかし地味であるが故に持つ競技への心理的機微の反映という繊細さと、さらに自分自身との戦いである部分にフォーカスすることが可能であり、まさにそれらの要素に着目・映像化することで、京都アニメーションは本作を見事な物語に仕上げている。

 

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ひとつ物語の軸になる感情は「執着」である。

 

それは瀧川の祖父・八坂へ抱く感情であり、また静弥の湊へ抱く感情でもあった。そして、その「執着」こそが、瀧川や静弥が弓を引く理由になってもいた。だからその八坂が死んで、瀧川は(弓自体は美しくなっていったが)弓を引く意味を見失ったのである。また静弥も、愁に指摘されるまでもなく、湊の手を引く役目が瀧川に奪われて以降、弓を引く意味を見失ったのである。そういう意味で、静弥が瀧川を嫌うのは(単に湊の手を引く役割を奪われたという以上の意味で)正しく同族嫌悪というやつである。笑

 

あるいは、その場にいない瀧川さんを、いないがゆえにこそいつも以上に意識していた県大会予選のエピソードは、八坂が亡くなったからこそ意識し続けている瀧川の意識とまさにパラレルで、これらの意識も「執着」の一表出と呼べるだろう。

 

そして県大会男子団体決勝で勝敗を決したのも、まさにこの「執着」である。西園寺が風舞の女子部員に言ったように、愁は的を見ていなかった。湊を見ていた。

 

もちろん、「執着」との対峙そして克服が重要であることは、弓引きに限らない。人一般に当てはまることであり、それはつまり普遍性があるテーマだということである。

 

作中に出てきたのは神道だが、これはむしろ仏教の教えに近いのではないだろうか。

 

そして、このように「執着」をはじめとする自分の弱点と向き合い、克服し、次の自分になることを好ましい成長と見たのが『ハイキュー‼︎』であるが、しかし、だからこそ本作にも『ハイキュー‼︎』に言ったのと同じ批判があてはまることになる。すなわち、「普通の高校生を稀有な哲学者たちにしてしまっている」という批判がこれである。

 

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その「執着」の克服が、風舞の場合、チームプレイに繋がった。

 

その根幹にある思想は、「弓は一人で引くものだ」という愁のテーゼへの反発であり、湊への依存を絶った静弥が明言したように「一緒に歩く」ことである。

 

湊はオチなのに怖くなくなった。

 

その理由こそは自身がオチに置かれた理由の把握であり、自分が外したらみんながカバーし、みんなが外したら自分がカバーする、という相互補完の信頼関係の樹立である。

 

そして、なればこそ自分がここにいる意味(アイデンティティ)を獲得できる。

 

これは弓道に限らない、集団(それに集団構成員間関係)の理想であろう。原始的な部族集団的な不透明な贈与交換をベースとする馴れ合いを続けるのではなく、かといって個人として集団から離れて暮らすのでもなく、個人を維持しつつ集団を形成するという有史以来の人類の課題。

 

もっとも、こと弓道においては、「弓は一人で引くものだ。」という愁のテーゼはもとより正しい。

 

しかし、それでは弓道団体戦が設置されている意味が不明瞭になる。

 

つまり、弓道は本質的に個人競技なのに、ではそんな弓道団体戦の存在する意味とは何か?がまさに問われていたのである。

 

(そしてこのことはお好み焼き屋で議論になっていたように、弓道は対戦相手を分析してどうにかなる競技ではない。従って、分析するとすれば、自分たちのチームか自分自身であることにも繋がる。)

 

それへの解答は、ここまで述べてきたことを踏まえ、個を確立した上での連帯確立の有無が競われている、と言っておけばよいだろう。

 

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本作は、男、あるいは大人の男の「弱さ」を描いている点も特色である。

 

もちろん、「執着」の克服が主題たる以上、必然的に「弱さ」の話は描かれる運命ではあるが。しかしそれは『ドライブマイカー』などよりよっぽど上手い描き方である。

 

引き手の悩みや心の機微こそが、弓の軌道に表れ、ひいては的に当たる・当たらないのデジタルな二項図式に収束する。そこから、何が心を揺らしているのか突き止め、見つめ、対処する。これもまた弓引きに限らない、人一般のなすべき望ましい事柄である。

 

これは、「小学生の頃、中学生ってどう見えてた?」という静弥の問いかけに繋がる話でもある。この機微の把握ができない「大人」は多い。

 

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そして繊細な気持ちを反映する繊細な動作を描くに、京都アニメーションは蓄積がある。

 

手が、足が、そして目が、さらには矢が、口ほどに、いや口以上にものを言う。その作画。

 

続編が予告されていたが、公開日の明示はなく、また京都アニメーションは事件の余波の渦中にあり、しばらくは『響け!ユーフォニアム』久美子3年生編にかかりきりだろうから、まだまだ先であろう。

 

ただ、(単に著作権の問題以上に)京都アニメーションがやるに相応しい作品であるので、何年かかろうと仕方ない。

 

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「はじまりの一射」はどれか?

 

当然、小学生の湊と、高校生の瀧川が見た、八坂の一射が有力だろう。

 

しかし、たとえば県大会決勝の湊の最後の一射という解釈もできる。

 

あるいは、これは私好みだが、瀧川が弓道を止めるために引いていた一万射の最後の一本、湊に任せた一本こそが、「はじまりの一射」とも見うる。