人文学と法学、それとアニメーション。

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人気なのはなぜか?──『SPY×FAMILY』評註


今期のアニメでは『SPY×FAMILY』が人気を博しているようである。

 

かくいう私も毎週楽しみに見ている。

 

本作の面白いポイントは、アーニャの他人の心が読めるゆえの年齢不相応な大人っぽさとしかしぬぐえない子どもっぽさのギャップ、ロイドとヨルの裏の顔(スパイ/殺し屋)と極めて正反対の表の顔(よくできた夫/おっとり妻)のギャップがあり、このギャップが笑いを誘うといったところであろう。

 

しかし、この作品を以上の意味で笑える作品、いや、もう少し正確に言えば、誰もが笑える作品にしているのは、行き届いた配慮がなされているからであろう。

 

単に「家族」だから良い、という話ではなく、ともすれば女性や子どもへの人権侵害(DVや虐待)の巣窟になる「家族」という「団体」が、作劇上の工夫でついぞそのような人権侵害に至らないように設計されているため、女性や子どもといったヨリ多くの人が安心して観ることができるからではないだろうか。

 

その設計とは、具体的に、まず子ども=アーニャについて、アーニャが他人の心が読めることで抑圧を生じうる家族という団体の中で一番弱い立場の子供が抑圧を回避できる担保がある上でスパイと暗殺者という最強の個人たるロイドとヨルがアーニャを尊重しているという複数の予防線がある。

 

次に女性=ヨルについて、そもそも酔ってロイドを仕留めかける腕を持つ殺し屋である上に、ロイドは任務のためにおしどり夫婦を演じねばならない立場である。

 

もちろん、このような理想が現実とあまりに乖離しており、現実のDVや虐待を見えなくする危険があるという批判はなしうるであろうが、それはまた別の話である。

 

また、ロイドとヨルが、それぞれのスパイ/暗殺者の仕事のためにそれを互いに隠し利用している部分は、ともすれば「究極に利己的だ」という点で批判の的であるが、むしろ絶対的な利己の確立こそが利他への唯一のルートなのであり(放蕩息子の恋愛と商業信用の結びつき)、逆に利己と利他を融合しつつ利他を標榜するタイプの利他≒義理人情は暴力を呼ぶ。この「利己の確立の上での利他」をスパイ/暗殺者という絶対的個人的秘密という道具立てで実現しつつ、他方で現実的に家族間で弱い立場に立たされるヨルとアーニャにそれぞれ特殊技能を与えることでともすればロイドに対抗しうる図式は、普遍的な理想でもあり、一般に訴求力は高いと思う。

 

むしろ不思議なのは、このような普遍的な理想の図式が、具体的な説明を抜きにしてもヒットという形で顕現している点である。まぁこの手のものはその普遍性ゆえに感覚的・直観的に刺さるということなのかもしれないが。

 

なお、原作未読ではあるが、このような王道設定からすると、そのうちロイドとヨルが敵対する形で2人の秘密が明らかになり、そのときに本物の組織(大義・仕事)を選ぶか、偽物の家族を選ぶかが抜き差しならない形で問われるのであろう──さながら『Mr. & Mrs. Smith』のように。そしてそこでロイドとヨルが偽物の家族を選ぶなら、それはもはや本物の家族なのである。