人文学と法学、それとアニメーション。

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『かげきしょうじょ!!』アニメ化で消されたもの──歌劇・歌舞伎・戦争

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前シーズンやっていた『かげきしょうじょ‼︎』アニメ版を見て、特に野島聖先輩が気になり原作漫画で続きを読もうと思い立ち、読んでみた。

 

すると、原作漫画からアニメ版に翻訳するにあたり、極めて大きな改変がなされていることに気がついてしまった。

 

それは、紅華の教師陣の中の、国広名誉教授の存在と、彼の奥方、そして彼ら彼女らにまつわるエピソードが抹消されている、ということである。

 

まずは1巻。

 

100期生の総意を受け、さらさが提案した安藤の授業における実技導入を、職員会議で「紅華100年の伝統」を掲げて、妨げる立場として国広は登場する。端的に「老害」で「頭の固い」役回りだと言ってもよい。読者からすればあまり印象はよくない。

 

その後、国広が公園のベンチに座っていると、さらさは「ファンだが認知症の老人が迷っている」と勘違いし、あらぬ気を揉む。

 

国広「戦前より紅華に寄り添い約60数年!」

さらさ「60年!?凄い!プロファンですね〜?」

 

と一点の曇りなく発された一言に対し「ワシは紅華の教師じゃ!」とおそらく返すつもりであった国広は、ふと昔を思い出し、「いや、そうかもしれん」と内言する。

 

国広の思い出は、戦前、(今で言えば)中学校時分の自分が紅華の舞台を観て紅華に憧れたこと、男子では紅華の舞台に上がれないことがわかったこと、憧れていた当時の紅華トップ「白薔薇のプリンス」櫻丘みやじに台本を見せてもらおうと無理を承知お願いしたこと、櫻丘から理由を訊かれ役者にはなれないが台本を書きたいと答えたこと、櫻丘からサイン入り台本をもらい、それが今に繋がっていること。

 

さらさ「あのっ、トップ様にもらった台本はまだ持ってますか?」

国広「ああ、あれはなぁ…空襲で燃えてしまったよ。」

 

そして再び国広の回想に入り、「紅華の台本も、家も、優しい母も、隣人も、ポチも、タマも、街が、密かに好いていたあの子も、全てが燃え」てしまった住宅の残骸の焼け跡の上を歩く国広は「紅華歌劇大劇場も無くなってしまった…でももう夢とか希望とかそんな実体の無いもので腹の足しになる訳じゃ…」と考えていた。その国広の前に、ぼろぼろのかっぽうぎを来た、かつて台本をくれた櫻丘が現れ、「全てが無くなってしまった。でもね少年よ、紅華は死なせない。私が死なせない。何時の世も人々には夢が必要だ。この焼け野原を超えて行けるよう、私はまた皆に夢をみせよう。皆がそう望むのなら、紅華は死なない。私たちは何度でも蘇るだろう。」

 

その後、国広脚本、櫻丘主演の「巴里の白い花」が紅華で上映され、涙を流す国広青年の手を、「約束を守ったね、少年」と取る櫻丘のカットで終わる。

 

 

 

そして、病室。

ベッドから上半身を起こした老婆に話しかける国広。

 

国広「ごきげんよう。今日はいい天気だね。面白い娘に会ったよ。背が恐ろしく高くてね。元気でやさしい紅華乙女だったよ。あの時代に私達が願った平和な未来とは少しずれたところに来てしまった気がするが、紅華が見せる夢だけは今も変わらん。だがね、この白い薔薇が一番似合うのは、やはり君だよ。白薔薇のプリンスよ。」

 

続いて3巻。

 

10年ごとに開かれる紅華歌劇大運動会での、冬組トップとさらさとの接触アクシデントと解決の後に、国広と車椅子に乗った櫻丘が現れて、専科の人々が声をかけにいくシーンがある。これもカットされている。

 

すみれ「来ていらしたんですね。」

国広「今日はとても具合が良くてね。運動会は全員参加だしね。わしらは流石に次の参加はないだろうしね。笑」

櫻丘(ニコニコ)

国広「今回も楽しい運動会だった。100年110年120年130年ずっと…新しく芽吹いた乙女たちがバトンを受け継いでずっと平和に楽しく続いていくといいね」

 

***

 

この国広と国広にまつわるエピソードは、アニメ尺の都合で切るという選択をする際、さらさたちの学校生活からは相対的に独立したエピソードであり、切る対象になりうるのはわかる。

 

また今日日の視聴者に「戦争?また平和学習かよ、はいはい反省反省」と鬱陶しいと思われかねないテーマであることもまた削除に拍車をかけたのかもしれない。

 

しかし、私がこの国広と国広にまつわるエピソードの削除を嘆くのは、単に反戦平和それ自体が重要だという価値観を私が持つから、ではなく、それが『かげきしょうじょ!!』という作品の背後でしっかりと物語を支える軸になっている(いた)と感じるからである。

 

歌劇を始めとする、「夢を見せる」フィクションには、ある種の普遍性がある。だから、外国由来の脚本を──アレンジはするにせよ──そのまま使えたりするわけである。ゆえに、フィクションはいついかなるときでも成り立ちうる。そして、そのフィクションを演じる役者は、観客がもっとも夢を見れない、まさに敗戦でみんな死んだその瓦礫の上でこそ、演技をし、夢を与えなければならないのである。

 

そういう、普遍格律からくる要請を、フィクションに携わる者はみな背負わざるを得ないのである。

 

そしてこの舞台の厳しさは、99期生卒業公演でおじいちゃんが倒れ、舞台を続けるか病院に駆けつけるか迷ったさらさにまさに突き刺さる。病院食堂でこのジレンマを相談された白川煌三郎は、すんでのことでそうは答えなかったものの、「もし、普通の生活がしたいなら、早い方がいい」と答えてしまうところだった。

 

そう、さらさのバックボーンである歌舞伎の世界もまた、「親の死に目には会えない」世界である。それは、かつて見た歌舞伎を、口伝で後世に伝え続け、つまり普遍格律を再現して、観客の夢を400年維持しつづけてきた、その代償である(たとえば、このことは、本家のお嬢と福ちゃんのエピソードひとつとっても明らかである)。役者は、ペルソナを被り、普遍を、夢を維持するという、重い重い責任を観客に、社会に負っているのである。

 

役者は舞台ごとに生、そして死に、また蘇る(「アタシ再生産!」は同じく歌劇を扱う『少女☆歌劇レヴュースタァライト』の決め台詞である)。

 

***

 

出版社等との権利関係でもはや原作者・斉木久美子が実質的に抵抗できなかったか、はたまた実質的に抵抗する余地はあったが諸事情で同意したかはわからない。

しかし、少女たちの繊細な関係性をここまで描出する斉木が、国広の存在やエピソードに思い入れがないわけがない。

斉木としてもアニメ版で国広の存在と第二次世界大戦の話がごっそり削られたのは忸怩たる思いであったと思う。

 

***

 

『かげきしょうじょ!!』においては、現実で悲劇が起きたとき、なんの腹の足しにもならないかもしれない、それでも、そこでぐっと踏みとどまり、明日、さらに未来へと繋ぐものとして、歌劇も、歌舞伎も描かれている。

 

しかし、現実の悲劇は、できるなら回避されるべきなのである。

 

100年110年120年130年ずっと…新しく芽吹いた乙女たちがバトンを受け継いでずっと平和に楽しく続いていくといいね」

 

戦後70年を超えたところで、憲法9条にかかわる政府解釈を、内閣法制局へ人事介入することにより変更し、集団的自衛権行使を容認し、関連して平和安全法制を施行した第二次安倍政権。

 

我々に、第二次世界大戦の責任はない。

 

しかし、次の戦争を起こさない責任はある。

 

フィクションを観て、読んで、それが素晴らしいと感じたなら、現実でもそうしようと考えるべきなのである。