人文学と法学、それとアニメーション。

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見守るという教育──『窓際のトットちゃん』覚書

公開初日(12月8日)に観てきました〜。

 

原作は黒柳徹子の自伝的小説。

 

宮崎駿君たちはどう生きるか』同様、あの世代が2023年の今、自伝的作品を出すと、それは必然的に太平洋戦争に触れざるを得ない結果、岸田文雄自民党政権が進める軍拡を批判する潜在力を持つこととなる。単なる時代描写が、軍拡批判の意味を帯びる現状は、もちろん良くないことなのだけど。他方、宮崎駿黒柳徹子もそれなりに富裕な社会階層だったことがわかり、むしろそうではない我々に必要なのは当時のプロレタリアたちの自伝では?と思うのだが、社会階層が上でないとまとまった記録や思弁すら残せないか…とも。

 

小林校長先生、トットちゃんの話を終わるまで数時間聴くし、何かやるときはみんな一緒にって言うし、トットちゃんが汲み取り式トイレの糞尿を汲み出し汲み出し財布探しをやってるのを止めるでもなく眺めててただ「ちゃんと戻しとけよ」で済ますし、夜電車が来ところを見たいといえば宿泊の許可をするし、ほんと理想の教育者という感じである。

 

カリキュラムもなく、生徒に好きなことを好きな順番でやらせる。

 

タイパ・コスパに縛られた現代の子供たちはかわいそうだと思った(実は私の小学校6年生のときには宿題が「30分勉強」というもので、何でも30分勉強してきたら評価するという仕組みだった。たまたま漫画日本の歴史を読んでたので、難しい漢字の練習もかねてひたすら人名を自由帳に書き抜いて持っていったらAAの評価。以後、歴史上の人物の名前を無限に書き出すうちに、日本史が死ぬほど得意になった。当時の担任には感謝している。

 

「多様性」の実現というキャッチフレーズが最近メディアや行政に安っぽく躍るが、そもそも「多様性」とは、相互尊重のもとに、あるがままを放置しておくことである。小林先生のトモエ学園には、それがあった。型に嵌める教育では、トットちゃんは窒息してしまう。トットちゃんが最初に通っていた学校の管理体制が、そのまま後半の戦時ファシズム体制の社会全体にスライドする。軍だけでなく市民自らが贅沢は敵だとやりはじめる。そして軍人が安全保護を名目に子供が空腹を嘆くのをも非難する。2023年は1930年代日本にかなり近づいているのではないか。

 

また、小林先生が大石先生が低身長症の高橋くんを生物は進化論の時間に軽く揶揄う冗談を生徒のいないところで厳しく見咎めてたのもよかった。パワハラにならないよう人目のないところで、しかし言うべきことははっきり言う。

 

贅沢は敵だ!華美な服装は慎め!からの、劇中現実から色彩が徐々に失われていくことと、自由が失われ、多様性が失われ、トモエ学園のような個性的な生徒たちが穀潰しだと否定されていくことは、パラレルである。LGBTQ🏳️‍🌈のレインボーフラッグひとつとっても、色彩と自由(圧迫)の関係は明確である。アニミズムのトーテムで「動物」が世界分節に使われるのと同じ自然由来の使いやすさが、色彩にはあるのかもしれない。そして色彩で言えば、戦時体制になり、しかも夜で雨というシーンで、泰明ちゃんのステップから街に彩りが溢れていくフィクションは、もちろん劇中現実ではないが、トットちゃんと泰明ちゃんにはしっかり現実なのである。

 

トモエ学園のお散歩シーンは当時の東京の田舎の日々をのんびりとしかし色彩豊かに描き好きだった。