人文学と法学、それとアニメーション。

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法廷という滑稽──『サントメール』評註

 

 

本作は主として法廷劇として進行する。

 

フランスのサントメールで起きた、15ヵ月の自分の娘を海岸に放置して溺死させた、セネガルからの留学生による殺人被疑事件。その裁判を、女性作家・ラマが傍聴していた。放置=殺害行為自体は認めるものの、「呪い」のせいだ「呪詛」のせいだという抗弁を出す被告人。果して、裁判の結末は──

 

と気になるところであるが、そこは描かれない。

 

結局、本作は、「現代フランスにおいて白人との間にできた子供を黒人が産む」ことの負担の大きさ、あるいはもう少し抽象化すれば、それこそラストシーンで女性弁護士二人、傍聴人の女性3人、被告人、そして裁判官とカメラが顔の大写しで滑って行った、あの最後の弁護側最終弁論に集約される、「女性が娘を産むということ」の持つ、その事実の持つ重みの話を扱いたかったのかなと思う。

 

私たち母親は、たとえ子供が死んでも「キメラ」なのであり、子供の細胞の一部は自分の体内で生き続けているのである、と。

 

その事実の重みを理解できるものだけが、被告人による娘殺しを裁くに値するのである、と。

 

上滑りの文化人類学的知見に基づく議論を、それもクリトリスの割礼儀礼の話を比定して被告人が言う呪いと同型で語り、被告人の罪責を論じる予審判事(白人男性)と検事(白人男性)の滑稽さ、ものの見えてなさこそが、本来、裁かれるべき対象なのである。

 

裁判の結果は不明であるものの、ラマは裁判の結果、自身の白人の夫との間の子供を産むことを決心し、自身の母親とも和解できたようである。