人文学と法学、それとアニメーション。

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枠の外──『アステロイド・シティ』評註

news – アステロイド・シティ

ウェス・アンダーソン監督作品は、『フレンチ・ディスパッチ』もはじめ、一作品も見ていない。本作が、私が初めて触れたウェス・アンダーソン監督作品である。

 

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冒頭で、『アステロイド・シティ』は、劇中現実での演劇であることが、舞台の外の語り手とともに示唆される。この舞台の外の劇中現実は、幕間でたびたび出現する。

 

まあ、劇中劇が出てくる作品は面白い作品になりやすい。

 

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劇中劇『アステロイド・シティ』の筋立ては、至極シンプルではある。

 

主人公・戦場カメラマンのオーギーは、妻の父、つまり義父・スタンリーの家に向かう途中、かつて隕石が落ちたクレーターのあるアステロイド・シティで車が故障し足止めを食う。もっとも、目的のもう一つ、息子・ジェイクが発明コンテスト・ジュニアスターゲイザー賞の最終候補に残っており、その表彰式典とそれを兼ねたお祭り騒ぎに参加する、という目的もあった。

 

オーギー一家が、なぜスタンリーの家に行っているかというと、それはただの旅行ではなく、引っ越しであり、その理由はオーギーの妻、スタンリーの娘が亡くなったためである。オーギーは、なかなか最愛の妻の死を受け入れることができていない。他方で、ジェイクと3人の妹たちは、そこまでではない。

 

車の故障の報を受けたスタンリーが車で迎えに来、ジェイクの授賞式に一緒に参加すると、そのとき、エイリアンがユーフォーから出てきて、アステロイド・シティにかつて落ちた隕石のかけらを持ち去った。

 

その結果、宇宙人と接触した者の対処に関する大統領命令により、その場にいた全員が外部との通信を遮絶され、しばらく町に隔離されることとなる。

 

しばらくたって、コンテスト受賞者の学生たちのアイディアで、うちひとりの友人の学生新聞編集者に電話線経由で情報と写真を伝達することに成功し、その結果、情報が外部に駄々洩れ、アステロイド・シティには観光客らが押し寄せ、無意味になった封鎖は解かれることとなる。

 

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以上が、劇中劇『アステロイド・シティ』のあらすじだ。

 

そして、劇中現実、つまり劇中劇の外の世界でもさまざまな出来事が起こるのであるが、その中でも重要なのが、オーギー役の俳優(シュワルツマン本人役?)が、一番盛り上がりを見せる混乱~暴動のシーンで、オーギーがなにをどう演じたらいいかわからない、と舞台の外に出てしまい、楽屋を抜け、そのままビルの非常階段の踊り場に出る。そこで、向かいのビルの踊り場でタバコを吸っていた、本来であれば今は亡き妻役として出てくるはずだった女優とばったり通り越しに出合う。そこで悩みをぶつけると、本来、オーギーは亡き妻とは宇宙で再開し、そしてそこで妻はオーギーに新たな恋を、挑戦をけしかけて消える・・・のだった。

 

そう、妻を引きずりブレーキをかけていた、アステロイド・シティで出会ったミッジとの恋を、先に進めるべきなのだ。

 

人生はまだ長いのだから。

 

かくして、アステロイド・シティに大統領命令でとどめ置かれるという「停滞」は、そのままオーギーの人生における「停滞」だったのであり、そしてアステロイド・シティから出るということは、人生を「進める」ということだったのである。

 

これは、なにもオーギーにとってだけではない。

 

ジェイクとダイナの恋もそうだし、ジェイクの発明もそう。

 

そして、孫娘3人に脅され、娘の遺骨をアステロイド・シティのモーテルに埋めたままにせざるをえなくなったがそれをも許容するスタンリーにとってもそうである。

 

そして、その「進む」ための仕掛けが、「宇宙」という地球の「枠の外」に出ること、それは自分の殻=枠の外に出ることであり、同時に劇中劇の舞台=枠の外に出ることでもある。

 

この三重の意味ないし隠喩の積み上げこそが、本作の肝であろう。

 

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しかし、孫娘3人はマジでよかった。笑

 

最初、アステロイド・シティの喫茶店に入ったときに「かわいい妖精さんね」と店主に言われた時には「私はエジプト古代のミイラで云々・・・」「恐竜」「魔女」と何か具体的には忘れてしまったが、とにかく口々にてんで妖精ではない役を主張し、またラスト喫茶店に入ったときにも「半分魔女の半分妖精」などわけのわからないことを言っていた。

 

また、放置してある廃車に石をぶつけ続けてガラスを割ったり、よくわからないチビ恐竜を追いかけまわしたりと、背景で地味にインパクトがある動きをしている。笑

 

さらに、母の遺骨を使った「復活の儀式」をしたり、骨を持ち帰ろうと掘り起こす祖父に呪われるからやめろと警告したりめちゃくちゃである。笑笑

 

子どもというのは、最初から「枠の外」にいるのである。