人文学と法学、それとアニメーション。

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年齢をダメな自分を変えない言い訳にしないために──『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』評註


本作の主題はズバリ、変人で傲岸不遜で人の話を聞かない厄介おじさん、ドクター・ストレンジが、本作中での(マルチバースでの自分や周囲の人々を含む)他者との関わりの中で、そのような自分でしかあれない理由を他人と本気で関わりそして傷つくことへの恐怖だと認め、ほんの少しだけ変わるということにある(関連して、ワンダについても「変わる」ということについて似たようなことが言える)。

 

現在の世界において、かつての恋人クリスティンの結婚式に参加したストレンジは未練タラタラである。が、痩せ我慢で、クリスティンに対して「君が幸せなら私も嬉しい」と言い、「あなたはいま幸せ?」と問われたストレンジは「もちろん。至高の魔術師なのだから。」と答える。

この、かつて嫌われ傷つくかもしれないという恐怖からクリスティンに踏み込めず、変人ぶりを強め、ヒーローとなることで「逃げた」ストレンジの、しかしそれでもどうにか押し殺していた後悔。
 
その後悔を、別の世界でのクリスティンと共同して死体へのドリーム・ウォークという禁忌を犯した罪でストレンジに取り憑いたナイトメアを倒す過程で、はじめてクリスティンに理由と共に告げ、それをその世界のクリスティンが受け容れることで、ストレンジは変われるのであった。
 
 
もちろん、そこに至るには、また別の世界のストレンジが、他人の話を聞かず独走した結果、宇宙衝突を引き起こし、もう一つの宇宙の地球人全員を皆殺しにしたため、サノス打倒後に本人の意思でキャプテンアメリカに殺害されたという歴史を見、あるいはそれこそが自分の本質かもしれないと把握し、しかしそれでも信用して託してくれたチャールズの期待に応えるために、自分を変えようとしたストレンジの意思も、少しは寄与しているであろう。
 
そして、最初の夢=他の宇宙では、敵の目的がチャベスの魔力だから、ストレンジ自身がチャベスの力を奪う(=殺す)ことで敵に勝とうとして敗北殺害されたのだが、ラストではワンダ(敵)に勝つために(チャベス自身、このストレンジにならワンダを倒すために殺されても仕方ないと覚悟していた)、むしろチャベスに力のコントロールが可能でありそれによりワンダと闘うよう説得すること(この過程ではチャベスが力の最初の発動時にコントロールできず両親をどこかの宇宙に吹き飛ばしてしまったトラウマに打ち勝つ必要がある)でワンダに勝つという、より良い未来に繋げることに成功している。
 
自身の恐怖や弱さを直視し認めた姿勢だけでなく、この点でもストレンジの変化=成長が窺える。
 
同様に、ワンダについても、ワンダ自身の野望を打ち砕いたのは他者の暴力での滅殺や抑止ではなく、別の宇宙の、自分がずっと憧れていた2人の小さな息子が、自分を母と認めず化け物だとして心底怖がっていた様子を見、そしてその宇宙の自分から「私が育てます」と告げられたことで諦めがつき打ち砕かれたのであって、まさに「悪夢」を見ていたのだと自認したことにより変わり、その世界の自分の人格を乗っ取り2人の母になるという野望を諦め、闇の呪文が書かれた巨大石製建造物を自分が内部にいる状況で破壊することで物語は幕を下ろす。

その意味で本作は、おじさん・おばさんがよく言う「ダメなのはわかっているが年だから変われない」という言い訳に対し、「そんなことはなく、変わらないのは変わる気がないだけ」でしょう?という批判であるし、また同時に「誤魔化し続けていても苦境からは抜け出せない」ことの示唆である。
 
自分は変えられないとタカを括ってその前提から知識を蓄え論理武装して批判者に勝とうとしているような人、すなわち批判というものの意味がおよそ理解できない、批判を規制と同視しがちなに見て欲しい作品である。