魂の揺れと鎮魂、革命──『犬王』評註
「誠実であろうが、熱心であろうが、自分ができあいのやつを胸にたくわえているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花の出るように、相手次第で摩擦の具合がうまくゆけば、当事者二人の間に起こるべき現象である。自分の有する性質というよりはむしろ精神の交換作業である」(夏目漱石『それから』37-8頁)
まさに、犬王と友魚の出会いはこれであった。異形の怪物と盲た琵琶法師の出会いと化学反応は、従来の猿楽比叡座の伝統や琵琶法師の覚一一派の伝統からはみ出し、ロック、空中滑空、バレエとさまざまな要素を取り込んだまさに総合芸術に開花する!
観客に手拍子や歌を要求するその様は、さながら現代のライブである。友魚の口や歯の動き、体全体のパフォーマンス、犬王のパフォーマンス。猿楽などが栄えていた南北朝時代に、現代の芸能を持ち込めばどうなっただろうか?という思考実験としても面白い。
また「ライブ」は「live」であり、すなわち「生」である。
平家の怨霊たちは、満足行く形で死ねなかった=生きれなかった。「一回性」という特徴を持つ生の満たされなさを満たすために、その生き直しを、まさに犬王が、友魚が、やり直しが効かないという意味で同じく「一回性」を持つゲリラライブ(Live)の形で、平家の怨霊たちの代わりにやるのである。
一回性の点は、さながら『夜は短し歩けよ乙女』の即興のゲリラ演劇の系譜に連なる。
「一回性」の緊張感のもとでなされるライブが、自身の身体を揺さぶり、観客の魂を揺さぶり、平家の怨霊たちの物語が観客によく伝わるからこそ、平家の怨霊たちは満足して成仏できるのである。
「友に有る」とは「共に在る」ことである。
足利義満御前の最後のライブ開始前のダサい円陣は、さながら『バブル』のヒビキチームの円陣である。
そして、魂を揺さぶるからこそ、社会安定を目指す体制は「正統」な物語を作らせ、他の物語を認めないのである。まさに南北朝時代をバックにしているだけに直ちに南北朝正閏問題が想起されるが、しかしそれだけではなく、たとえば初期キリスト教では礼拝時にダンスなども認められていたのであるがそのような身体的動き=共振はともすれば「正統」教義を脅かす新たな発想と繋がるから警戒され、やがて信者がダンスができないように教会には椅子が設置され、牧師が一方的に話すようになった。このような脈絡は他にも、幕末の「ええじゃないか」にも繋がる。南北朝統一による秩序樹立目前の足利義満が嫌ったのはまさにこのような身体共振から生じる新しい思想や観念ではなかったか。
しかし、足利政権が安定していたのはほんの少しの間だけであり、結局義満から3代あとの6代義教の時代には早くも将軍が暗殺される事態にまで政情は不安定化する。
友有座を破綻させ、友魚を処刑することに果たして意味はあったのだろうか?
また、この『犬王』では、友魚の名前が、その人間関係の変化により変化する。ここでは、名前の大切さについて考える参考にするために、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を評したときと同じ最高裁判決を引用しておこう。
「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であつて、人格権の一内容を構成するものというべきである」
※2022年5月30日、「一回性」のくだりを追記し、修正した。