人文学と法学、それとアニメーション。

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人間という種をどう見るか?──『シン・ウルトラマン』評註


本作は色々な系譜の上に位置付けることができるだろう。

 

ウルトラマン』シリーズの文脈はもちろんであるが、『シン・ゴジラ』、『シン・エヴァンゲリオン』のシリーズの文脈もそうであろう。

 

また「巨人」の文脈では近時の『進撃の巨人』がある。

 

そのように様々持ちうる文脈のなかで本稿が注目するのは、外星人が見た地球人=人というものの本質に関わる話である。

 

すなわち、外星人が地球人を滅ぼすかどうか決める前提に地球人をどう捉えるかという認識の違いがある。

 

ウルトラマンは、映画が始まった時点での「禍威獣」第4号戦で、ウルトラマンが現れた際の爆風で吹き飛ばされた石から小学生を庇った結果、本当の神永が死んだところを目撃する。

 

その神永の行為が理解できなかったウルトラマンは、ウルトラ星の禁忌を犯して神永と融合して、地球人を内側から理解しようとする。

 

その結果、本を沢山読み、禍特対チームと関わることで、地球人を理解し、やがて滅ぼすべきではないという結論に至る。

 

ウルトラマンは地球人が過去を反省して積み上げるという学知によって、太陽系ごと消滅させる最終兵器ゼットンに打ち勝つことに希望を託し、滝もそれに呼応して数式を解いた。

 

その地球人の努力と神永=ウルトラマンのあがきは、他のウルトラマンを地球人を滅ぼさない方へ納得させることになる。

 

人は学ぶことができるし、弱者を助けることができる。

 

これは、『鋼の錬金術師FULLMETAL ALCHEMIST』で示された、弱者を庇う人間(と同時に弱者を虐げる愚かな人間も執拗に描かれるが)や、『天気の子』での帆高の陽菜を犠牲にしない選択の系譜の話である。

 

そして、そのように行動しないのであれば、人間という種を助ける必要はもはやないのではないかと思わされる話でもある。

 

露悪がはびこるポストトゥルースの世の中である。希望を見失ってニヒリズムに陥らないようにしなければならない。

 

ニコラス・ウェイド『宗教を生みだす本能』は、自分の子孫でない他人の子孫を守るために死ぬ人間特性は、崇高無私の素晴らしい行いではなく「群淘汰」の結果得られたものだとする。この仮説が事実なら、ウルトラマンはあるいは結論を変えただろうか?