ピングドラム劇場版前編。
小さくなった冠葉と晶馬が例の水族館に。
テレビ版の年齢の自分たちと陽毬を棚かげからみていたら、ベイビーペンギンが。ついてこいと言ってるようだ。
ついていくと、エレベーター。地下2階までしかないが、パネルをひっくり返すと地下61階まである。到着しドアを開くとそこには図書館が。
2人は『カエルくん東京をすくう』があるかを司書に訊くが、検索にかからず。すると、ベイビーペンギンがまた奇妙な扉を見つける。ついていく2人。
そこは、テレビ版でも出てきた空の孔分室であった。
そこで、2人は荻野目桃果と出会う。記憶を無くしたと言う2人に、桃果は「きっと何者かになれるお前たちに告げる。運命の輪を閉じるのだ。」と告げ、2人の過去が記された『カエルくんピングドラムをすくう』を読ませる。
以下、テレビ版の回想となり、「95」列車、冠葉のピングドラムを陽毬もといプリクリ様に2回目差し出すところまで。
***
総集編の作りがわかりやすかったのか、それとも2015年頃に見たときより遥かに様々な経験をしたからかはわからないが、『輪るピングドラム』理解の度合いがかなりあがった気がした。
『輪るピングドラム』における「りんご」は、「ピングドラム」であり「愛」であり「荻野目苹果」であるわけだけど、晶馬のモノローグで生まれや時代といった理不尽な「運命」を乗り越える鍵とされていることからすれば、「知恵の実」でもある(また繰り返し映し出され実写の銅像が持つりんごはこの「知恵の実」の系譜だろう)。つまり、神の定めし運命に希望を掲げ抗うことを決めた人間の物語。
「愛」も「家族」も、ときに「運命」=「逃れられない負担」になる一方、生きる意味や活力=「自由」にもなる。
高倉剣山と千江美は、晶馬の実父母であると同時に、冠葉、陽毬の養親であり、理想的な両親だったが、17年前にテロ事件を起こし、子3人に枷を負わせている。
荻野目家にも夏目家にも時籠家にも様々な問題があると提示されると同時に、しかし子供たちにとっての所与はそれしかないのだから、子供たちはそこから切り返すしかない。
後編のタイトル、前編の終わり方特に冠葉からすれば、「運命の輪」を閉じる方法、「運命の乗り換え」を完成させる方法は、冠葉と晶馬の自己犠牲により世界を救うことで陽毬と苹果が失った「愛」を、冠葉と晶馬が復活して告白することで完成させることになるのだろう。
***
(※2022年4月30日追記)
荻野目苹果が「運命」を“信じている”ことで、高倉晶馬への好意に気づけない、若干気づきつつも打ち消してしまう、そういった「運命の内面化、信仰」のような問題をひとつ、『輪るピングドラム』は提示しているような気はする。
同様に、「家族の内面化、信仰」として、冠葉が陽毬への好意を抑圧してしまう問題があり、結局「運命に呪われし子供たち」を縛っているのは客観的な仕組みというよりはその「内面化」にこそあるような気はする。
高倉家という理想的な擬似近代家族システムがなければ陽毬や冠葉は生き延びることができなかったであろうと同時に、その理想的な擬似近代家族システムが内面化されて冠葉の陽毬への好意を抑圧し、苦しめる。この両義性がピンドラの「家族」にはある。
高倉剣山が冠葉を身をもって庇うエピソード、高倉陽毬を千江美が身をもって庇うエピソードは、しかし晶馬についてはない。これが示唆するのは、「血の繋がっていない子」であっても、身をもって庇えるような「家族」がある──反面、血が繋がっていても虐待をする親もいることである。
ただ、その剣山と千江美がなぜテロに手を染めるのかの理屈がちょっとよくわからない。渡瀬眞悧と黒うさぎのロジックでは「人を窮屈な匣から出してあげる」というものだが、メタファーメタファーしており、正直よくわからない。子供ブロイラーを破壊しようとするのはわかるが、それがなぜテロに結びつくのか、その理路がわからない。「親の因果が子に祟る」の「因果」は別にテロじゃなくてもよかったのではないか。見捨てられ透明になった子供ブロイラーに捨てられた子供たちがテロに走る、というのならオウム真理教の引用はまぁ理解できるが、それを実行しているのが高倉三兄弟ではなく剣山と千江美なのが本当によくわからない。