人文学と法学、それとアニメーション。

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地に足のついたデモクラシー、すなわち一人ひとりの「声」をきちんと聴くこと──『ボストン市庁舎』評註


『ニューヨーク公共図書館』よりも長いというのはもはや罪である(笑)

 

しかし、かなり面白い。

 

本映画では抽象的な理念である「民主主義」が、地に足のついたもの=「議論」「コミュニケーション」として措定され、具体的な個人一人ひとりの「声」を聴くこととして措定される。

 

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市長が市民に執拗に求める「何か困ったらすぐ市に電話して」という要求こそは、「権利はあるんだから使わない奴が悪い」という「形式的」な請願権保障にとどまらない、ともすれば億劫になりがちなのが市民が声を発することであるという事実を踏まえた上で、「実質的」な請願権保障に本気で取り組んでいるということそのもの。選挙時ならば解答をすぐに探す姿勢でいいけれど、市政担当時の正しい姿勢はそうじゃない、難しい問題にはきちんと難しいといいい、その理由を説明し、現在の進捗を示す姿勢もかなり良い。トランプ前大統領のような幼稚で尊大な振る舞いでケムにまくのではなく、しっかりと説明し説明責任(アカウンタビリティー)を果たしている。

 

ちなみにトランプ前大統領関連ではホワイトハウスの移民敵視政策に対して移民にこれまでより不利な扱いがなされないようボストン市がホワイトハウスの施策ゆえに不利益扱いされた事例を調査し報告してくれと関連部局の責任者が言っていたのが心強かった。

 

会議や委員会や都市計画での発言に実質的な意味がある、すなわちちっぽけな市民一人ひとりの発言で、本当に会議や委員会や都市計画の決定が変わり得るというのもよくわかった。これはやる気がでるし、発言にも熱がこもる。

 

日本の裁判員裁判タウンミーティングや迷惑施設の住民説明会のような「形式的」な、ただお墨付きを出すためだけの飾りとしての市民参加ではないし、さながら優等生の委員長が学校当局の意思を忖度するような「わきまえている」市民参加でもない。

 

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「都市計画」に焦点を当てているのが見通しがよい。なぜならそれは市長が掲げる「扉を開くこと」や「未来」の「希望」とも繋がっているからである。

ボストンは多様性を目指したのではなく、既にして雑多な出自や階層の人々が入り乱れているところから始めざるを得なかった。当然差別のオンパレードだが、だからこそ地道な、隣人同士としての差異の承認、差別解消をせざるを得なかった。武力紛争なしに共に生きるためには、話し合うしかなかった。しかし、それこそが差別の町ボストンが今のように力強く多様性を持ったバイタリティー溢れる町になれた由縁でもある。

 

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映画の最初と最後に流れるコールセンターへの市民からの平々凡々なくだらない問い合わせ。粗大ゴミの出し方はどうか、道路の欠損修理の依頼。これらを延々と流し続けてるのだけど、それこそが一人ひとりの「声」なのだと、映画を見終わった後だとよくわかる。